第二更 片目

 

「だァから残りの五十万はどこかって聞いてんだろうが」

背後で谷松が男を蹴る音がする。その呻き声を聞きながら、高野はソファに座って冷や汗を流していた。

 あの後、車で連れてこられたのは、マリアライトからほど近い場所にある雀荘だった。雑居ビルの二階のそこは、入り口のガラス戸にすずめのイラストが掲げられていた。しかし入るなり始まった拷問に、下手打つと殺される、と悟って高野は完全に沈黙した。


「ごめんね、騒がしくて」

湯気の立つコーヒーカップを前に置かれ、ぱっと顔を上げる。店に入ってまず高野たちを出迎えたその男は、トレイを持って優しく微笑んだ。

 長身かつ体格の良い見た目と裏腹に、その表情は柔らかい。赤みがかった茶髪は後ろで一つにまとめられ、溢れた後毛をそっと耳にかける仕草は、向こうから聞こえる怒号とそぐわぬ繊細さを持っていた。

 観察していると深い緑の瞳と目が合った。

「あっ、いえ、ありがとうございます」

高野が慌てて目を逸らす。

「高野くん……でいいかな? おれは磐長朔弥。この店……『雀荘すずめ』の店主をしてるよ。よろしくね」

落ち着いた声に、何度も頷く。

「よ、よろしくお願いします」

高野は、ようやくまともそうな人が出てきた、と頭の片隅で考えながら、小さく息をつく。口にしたコーヒーを味わう余裕は、まだない。

「それにしても、突然でびっくりしたでしょ」

「いや、あの、大丈夫……です……」

未だ止まない呻き声と殴打の音から、意識を逸らそうと努力する。ふと、雀卓の椅子に座って黒い鞄を開けている薬師寺が声を上げた。

「高野ちゃんさ、あの投げ、どう考えてもシロウトじゃないでしょ」

「え……?」

鞄から取り出した札束の数を数えながら、薬師寺はどこか楽しげに言う。

「投げ?」

磐長が薬師寺の前の卓にコーヒーを置いて、問いかける。

「サンキュー、マスター」

薬師寺はカップを上から掴んで、一口飲んだ。

「その男のこと背負い投げしたんだよ、高野ちゃん。ね」

「そうなの?」

目を丸くした磐長に、高野は手を振る。

「いや、まあ……素人に毛が生えたようなもんで……」

「そういえばガタイいいもんね。経験者なんだ」

「そんな、経験者なんて言うほどでは……」

高野の体をしげしげと眺める磐長に、薬師寺がにやりと笑いかける。

「さくちゃんといい勝負だったりして」

「……え?」

さくちゃん、というのは、磐長のことで──つまりはここの店主、“マスター”ということだろうか、と間抜けな顔のまま高野が思う。困ったように磐長が口を開いたその時。


 大きな物音がした。振り向くと、谷松が床に倒れ込んでいる。男が何事か叫びながら、もつれるように駆け出した。逃げられる。咄嗟に飛び出した高野より先に、磐長が動いていた。突進する男の足を払い、腕を取って、力任せに背中から床に叩きつける。速い。そして強い。床が抜けそうなほどの地響きに、男は悲鳴さえあげず、高野の喉もひゅっと鳴った。腕を捻り上げながら、磐長が谷松を見る。

「大丈夫? 神音」

谷松はのろのろと立ち上がりながら、服を手で払っている。

「……なんとか……いてて……あークソ、このスーツおろしたてなのに……」

近づいてきた薬師寺が、愉快そうに微笑んで、高野の顔を覗き込んだ。

「どう? 勝てそう?」

「いや無理っすね……」


   *

 

 男は縛り上げられて床に転がっている。

「こりゃもう残りの五十万は帰ってこないな。残念無念」

「どうすんの? ここには二百万円しかないよ」

薬師寺が卓の上の鞄を指す。谷松と薬師寺の会話に、高野は耳を疑った。状況からしても、金額からしても、只事ではない。

「ああ、それは全額やくちゃんにお渡しするよ。迷惑料ってことで多めに受け取って。こっちのことはこっちで片付けるし。とりあえず若いの呼んでこいつ始末してもらうわぁ」

若いの、始末、という単語で、高野は疑いをほぼ確信に変えた。谷松神音、この人は表の社会の人間ではない。


「あ……あの……」

「ん?」

恐怖より好奇心が勝り、高野がおずおずと切り出す。谷松の声は存外優しい。

「き、聞いてもいいですか……」

「何を?」

「その人、何かしたんですか……?」

「あー」

谷松が、男の背中を革靴のつま先で蹴飛ばす。

「こいつ、やくちゃんがやってる店で働いてたんだけどさ。店の金ちょろまかしたり、うちの組にあんまりおもしろくない迷惑かけたりしたんだよね。見つけて持ってった金全部返してもらおうと思ってたんだけど、無いなら仕方ないよな……別のモノで返してもらわねえと」

「……」

薄い笑みに背筋が寒くなる。うちの組、という発言も、聞き漏らすことはできなかった。

「とにかく、捕まえてもらえて助かったよ。ありがとうな」

「い、いえ……」

片手を上げて応えた谷松が、少し離れ胸ポケットから携帯電話を取り出して通話を始める。


「ね、ね、高野ちゃんさ。マリアライト、行ったことあるんだよね?」

薬師寺が、鞄を肩にかけたまま高野の横に立った。

「あ、はい……」

「ひょっとして常連?」

「え……あっ! 薬師寺さん、もしやマリアライトで俺と会ったことあります……?」

苦い顔をする高野の肩に腕を乗せ、薬師寺は呆れたように溜息をつく。

「だーから、やくでいいってば。まあそんなところ! てか常連なら、神音ちゃんのこと知ってるんじゃない?」

そう言って、スーツの背中を指さす。

「そういえば、なんか、見覚えあるっていうか……」

一瞬、自分と同じく常連なのか、という想像が高野の頭を過ぎる。

「あの人、マリアライトのオーナーだよ」

「嘘ッ⁈」

思わず声が裏返る。薬師寺は猫のように目を細め笑った。

「なになに、何の話」

携帯電話をしまいながら、谷松が近づいてくる。高野はそれを見て、反射的に自らの体を抱いた。

「高野ちゃん、マリアライトの常連らしいよ」

「え、マジで? ごめん、顔覚えてないわ」

僅かに安堵して、高野は息をつく。正直に言えば、あの店に対して吐いた呪詛の数は知れない。二度と言わないでおこう、と固く胸に誓い、小さく拳を握る。

「もう二時だけど、高野くん、大丈夫?」

モップでリノリウムの床を拭いていた磐長が、近寄ってきて問いかける。

「え……あ、」

頷きかけて、はっとする。財布に入った小銭のビジョンが蘇って、体が急速に冷えた。

「あー……えっと……」

「もしかして電車とか?」

磐長は心配そうな目で高野を見る。罪悪感に似た焦燥。

「いや……その……」

「金無いの?」

あっけらかんとした薬師寺の声に、高野が呻いた。

「うちに入れてくれた感じ?」

さらに谷松に追い討ちをかけられ、縮こまる。

「……すみません……」

「いやいや全然いいよ。まいどあり」

「うっ……」

長い指で丸を作る谷松が、悪戯っぽく笑った。

「じゃあ、家まで車で送るよ。どこ?」

「あー……と、それが……」

谷松はポケットから鍵のたくさんついたキーリングを取り出し、指先で回しながら、言い淀む高野を見て首を傾げる。高野は目を閉じて俯き、ここまできたらもう、正直に言ってしまおうか、いやでも、と葛藤する。

「……ないの?」

磐長の静かな声に、目を開けた。

「お?」

「家ないの?」

「家ないの⁈」

叫んだ薬師寺を見ると、流石に笑っていない。高野は顔を赤くしたり青くしたりしながら、頭を下げた。

「す、すみません、なくはないんですけど、家賃滞納してて、なんというか、その、すみません」

「え? マジで金ねえんだ。ウケる」

谷松はそう言ったが、目は笑っていない。


「うーん。さくちゃん、悪いんだけどこの子、預かってくれない?」

「へ?」

薬師寺の発言に、高野は口を開けたまま顔を上げる。

「やくの店は寝るところないもんね」

「そうなんだよね〜。ま、高野ちゃんには借りがあるし。一晩……か、できるだけ? ここに泊めてあげてもらえたらなーって」

「んじゃ俺からもお願いするよ、さくちゃん。代わりに友達いっぱい呼ぶからさ」

「それはあんまり嬉しくないけどね……」

自分抜きで進んでまとまっていく話に、高野はついていけず、ただ彼らの顔を見回す。

「……よし、いいよ。高野くん、とりあえずここに泊まって」

数秒悩んだ後、磐長はぱちん、と指を鳴らして高野に明るく声をかけた。

「……あ! ありがとうございます!」

慌てて一礼する。とにかく、あのうるさい大家に会わずに済むなら万々歳だと、心の中で両手を掲げる。若者らしさ故か、本人の性質か、高野にはこういう、急場凌ぎの後先考えない向こう見ずな面があった。

「てか、どうせならここでバイトしたら? 金ないんでしょ?」

「えぇ⁈」

次いで出された薬師寺の提案に、また顔を上げる。

「いいじゃん。人手足りてないんだし」

「うーん。そうだね……まあ一人くらい、いいか」

谷松の同調に、磐長も軽く答える。

「いっ、いいんですか⁈ 本当に⁈」

あまりにも軽いその調子に、思わず身を乗り出して聞き返す。

「住み込みバイトか〜。良かったな、若者よ」

谷松がへらへらと笑う。磐長も微笑んでいて、高野は歓喜と安堵で蕩けた表情を見せた。

「本当に……ありがとうございます……! お世話になります!」

笑顔のまま頭を下げた時、ふと自分を囲む三人の素性を想像して、一抹の不安がよぎった。わずかに表情が強張る。が、この際何にだって縋ってやる、と胸中で呟いて、ぐっと背筋を伸ばした。

「いいよいいよ。じゃあ、えっと……ごめんね。悪いけど今日は、このソファで寝てもらってもいい?」

「ん? 休憩室で寝たらいいじゃん」

ソファを示した磐長に対し、谷松が雀荘の奥を指さした。高野がそちらを見ると、白い扉に小さく休憩室と書かれた札が付いている。

「あ、いや……今日はもう、向こうで寝てるから」

誰が、と疑問に思うと同時に、そのドアが開いた。

「……」

現れたのは、銀髪の男だった。怠慢な動きで部屋から出てくる。皺だらけのシャツの袖から、不健康な白く細い腕が伸びて、その切り揃えられた銀の髪をかきあげる。

「……騒がしい」

「――!」


 その、目を見て。高野の呼吸が、一瞬止まった。

 菫色の右目。左目は閉じられている。冷たい、全てを見通すような視線。


「なんだ先生、居たの?」

先生、と呼ばれたその男が、高野を見て眉を顰める。

「……誰だ、お前」

身体が急速に冷えた。恐怖。これは、得体の知れないものに対する恐怖だ。自覚して、高野は拳を握る。明らかに自分よりも小さく、殴れば吹っ飛ぶであろう目の前の男に、言い知れぬ何かを感じて、恐れている。左目は、閉じられたままだ。

「……高野、八千……です……」

絞り出すように名乗る。男はしばらく黙っていたが、無表情のまま、ふうんと呟いて無関心に背を向けた。その目から、視線から解放されて、高野は脱力する。何者なんだ、と目で追うと、谷松が横から出てきて男の肩を掴んだ。

「高野くん、これ、うちのお抱え代打ち師ね」

「……え、あ……?」

高野は必死に、言葉の意味を咀嚼する。代打ち、という耳慣れない単語に引っかかっていると、〈先生〉が一歩、高野に寄った。瞳を覗き込まれて、思わずびくりと体を震わせる。


「お前」

「は、はい?」

「麻雀打てるか」


真っ直ぐな、目だった。


「は……?」

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