『GambleЯ』第一部
宮谷 空馬
第一更 お礼
人生はギャンブルだ。リスクを冒さなければなにも得られない。虎穴に入らずんば虎子を得ず。
麻薬に似た恐怖と夢で、人生を潤すために。
賭けなければ。
すべてを。
「負けた……」
2000年、冬、京都。月の無い夜、繁華街のはずれの路地裏。
男は汚れた壁に背を預け、煙草に火をつけた。暗い闇に小さな灯りが灯り、その特徴的な髪色が浮かび上がる。頭頂部から中程までが金、その下は黒髪。火の光が小さくなり、派手な頭が空を仰いだ。薄い煙と共に、溶かしちゃった、という呟きが唇から漏れる。
「……有り金、全部パチンコで溶かしちゃった……」
俯いて目を覆い、遠くの喧騒を聞きながら、溜息をつく。指に挟んだ煙草の灰を、夜風が攫っていった。
手持ちの金では晩飯を賄うことさえ覚束ない。大学から程近い、下宿先までの電車賃さえ怪しい。しかもその部屋も家賃を滞納しきりで、既に何度も大家から忠告を受けている。正直、帰りたくはない。そして彼には、こんな時に頼れる友人の当てもなかった。
ひやりとした空気に、背を丸める。野宿するには、京都の冬の夜はあまりにも寒い。
男は煙草を咥え、コートのポケットに両手を押し込んだ。指先に触れた箱を、ゆっくりと握りつぶす。
これが、最後の一本。
「……何やってんだろ、俺……」
紫煙と共に溢れた言葉は、聞こえてくる足音にかき消される。
目を閉じて、彼は自分のこれまでを思う。不自由のない暮らしを送ってきたはずだった。取り立てて特技はなく、目立ったこともせず、適度に勉強して適度に手を抜いて生きてきた。これからもそうあるのだろうと、自分はどこまでも普通なのだろうと、ついこの間まで思っていたはずだ。
どこで間違えたのだろうか。今となってはもう、普通の学生なんて名乗れない。大学はサボりすぎて留年した。バイトもここのところさっぱりシフトを入れておらず、きっとすっかり辞めた扱いになっている。実家は長く帰っていない。留年したことを伝えた折、ほとんど勘当のような状態になって、それきりだ。
どうしてこんなことになったのか、考えてみても、明確な理由なんてなかった。ただ、どこもかしこも居辛かっただけだ。なんとなく馴染めなくて、学校や職場には魅力を感じなくて、もっとやりたいことがあるような気がして。根拠はない。その程度だ。
なにより、こんな惨状になってもなお、危機感はまだ薄いことが、一層救いようがない。心のどこかでもう諦めているからなのか、あるいはこの期に及んで、まだなんとかなるなんて思っているからなのか。開いた目でまた上を見て、路地裏の狭い夜空を眺める。
しばらくして、ここにいても仕方がない、どこかファミレスでも探すか、と壁から背中を離した。路地から出て角を曲がろうとした時。
「——そいつ捕まえてッ!」
鋭い声が聞こえた。振り返ると、黒いニット帽の男が、ボストンバッグを抱えてこちらに走ってくる。その後ろを金髪の男が追っていた。先ほどの声は彼のものだろう。
考えるより先に手が動いた。
真横を駆け抜けようとする男の腕を掴み、体を反転させ懐に潜り込む。握った腕を肩にかけ、足を払って体を引き上げ──アスファルトに重いものがぶつかる音と、悲鳴が響いた。
「……ってヤベ、つい投げちゃった」
呟いて腕を離すと、ニット帽の男が地面に伸びた。そばにどさりと、男の抱えていた黒い鞄が落ちる。ちょうど金髪の男が走り寄ってきて、上がった息を整えながらそれを見た。
「や〜ありがとね〜! 助かったよ……ってうわ、そいつ生きてる?」
その端正な顔立ちと桃色の瞳に気を取られて、一瞬思考が止まる。はっとして投げ飛ばした男のほうを見ると、僅かな呻き声が上がった。
「あ、生きてた。よかった〜死んでたら怒られちゃうとこだったよオレ」
金髪の彼が笑う。状況と絶妙に噛み合わない爽やかな笑顔に、曖昧な苦笑いを返す。彼がこちらに向き直ると、金色の髪がさらさらと揺れ、耳に光る複数のピアスが見え隠れした。左の前髪だけ、クロスさせたピンで後ろに流し留めている。宝石に似たピンクの目が細められた。
「ホントありがとね! 助かっちゃった。オレは薬師寺一真。君の名前は?」
流れるように自然に差し出された右手を、戸惑いながらも思わず握る。その手は身長に見合った小ささだった。
「……えと、高野、です。たかの、やち」
「やち? 珍しい名前~。漢字は?」
「八千……ですね」
「……? ……ハチじゃん」
「そう……いや、やちですね」
薬師寺が弾けるように笑った。
「最高じゃん」
「そっすかね……」
高野は握られていない方の手で頭をかいた。
「ハチちゃんって呼んでいい?」
「え?」
「あ、イヤか。今フツーに嫌そうな顔してたね。じゃあ高野ちゃんね。よろしく! オレのことは気軽にやくにーちゃん、って呼んで」
台本でもあるかのように流暢に喋った後、きらきら光る猫のような目を、右側だけ瞑る。完璧なウインクを贈られて、高野は理解するより先に頷いた。
「え、あ、は、はい」
経験したことのないコミュニケーション能力の高さに圧倒されていると、手を離した薬師寺が再び口を開く。
「あとついでに、そいつの足、折ってもらえる?」
「……えっ?」
未だ起きる様子のない男を指して、薬師寺が朗らかに微笑む。
「その辺、足首とか楽そう。ポキっと」
どっと冷や汗が噴き出た。格闘技の経験は多少あれども、人の足を意図的に折ったことなど、高野にはない。
「い、いや、」
恐れ慄きながら、薬師寺の顔を見る。屈託のない笑みだ。その笑顔に何故か逆らえず、おずおずと暗い路地裏でしゃがみこむ。
「……こ、こうすか……」
言われた通り、足首をあらぬ方向へ力一杯捻る。嫌な感触があり、耳をつんざく絶叫が響いた。慌てて辺りを見回すが、人が来る気配はない。
「おっけーおっけー! サンキュ〜」
薬師寺は全く意に介さず、それじゃ、と胸を張った。
「せっかくだからお礼させてよ」
「え……お礼?」
「じゃ、ちょっと電話してくるからそいつ見てて」
「ちょ、え……!」
薬師寺はいつの間にか拾っていた黒い鞄を肩にかけ、路地裏を出た。高野はしゃがみこんだままその背中を見送り、それから視線をゆっくり戻して、言われた通りに身悶えする男を見つめる。その頭の中で、ぐるぐると、独り言のような混濁した思考が巡る。
どうなってんだよ、一体。つーか俺、なんであの人の言うこと聞いてんの? この人の足の骨折っちゃったし、これって犯罪……だよな? いや、そもそも投げ飛ばしたのもまずかった。でも、見るからに怪しいしな、こいつ。あの鞄も、やけに大事そうに抱えてたけど、何が入ってたんだろう……。
ちらりと、街灯の下で電話している薬師寺を盗み見る。先ほど言われた、お礼、と言う言葉を思い出して、うーんと首を捻った。とりあえず一晩泊めて欲しい。我ながらなかなか最低のことを考えている、と思いながら、高野は目を閉じ唸った。
「おまたせ!」
突然顔を覗き込まれ、高野がびくりと体を震わせる。
「や、薬師寺さん」
「呼びにくくない? それ。やくって呼んでいいよ〜。すぐ迎えの車が来るからさ、それ、運ぶのも手伝ってもらっていい?」
「あ……はい」
高野が立ち上がる。ニット帽の男は気を失っているようだった。ふと見ると、薬師寺が顎に手を当てて、上から下まで高野を舐めるように見ている。整った顔と見透かすような目線に、わずかに背筋が冷える。
「……な、なんスか……?」
「もしかして君、マリアライトってパチ屋に来たことある?」
「えッ⁈ な、なんで⁈」
あるも何も、先ほどまで高野がいた場所だ。京都市内の繁華街から少し外れた場所にある、大型のパチンコ店。外観と内装が妙にラグジュアリーかつ神秘的で、ちょっとした有名スポットになっている。
「ふふん、オレ自慢じゃないけど、人の顔覚えるの得意なんだよね」
薬師寺が腕を組んで言い放つ。
「てことは、君、気に入ってもらえるんじゃない?」
「へ?」
瞬間、遠くから一気にエンジン音が近づいて来る。反射的にそちらを見ると、黒い車が猛スピードで路地裏に走りこんできた。
「うわ⁈」
目の前で急ブレーキがかかって、アスファルトがタイヤと擦れて唸る。
「早かったね、神音ちゃん!」
思わず目を細め飛び退いた高野とは裏腹に、薬師寺は動じもせず、楽しげな声で、黒塗りのアルファロメオに声をかけた。
車からスーツの男性が降りてくる。
「いやー、早くそいつぶん殴りたくて、ちょっとはしゃいじゃった」
高野はその姿を見て、どくりと心臓が鳴るのを感じた。肩ほどまでの少し跳ねた茶髪と、煮詰めた血のような色の瞳。見覚えがある。
「この子、さっき話した高野ちゃん」
「お〜初めまして。俺は谷松神音。どうもどうも」
「……は、初めまして……」
自分より一回りほど年上に見える、高級そうなスーツに身を包んだその男に、高野は頭を下げる。ストライプのドレスシャツと光沢のあるネクタイ、耳に光るピアスが、明らかにただの会社員ではないことを示していた。谷松と名乗ったその男の顔を、そっと覗き見る。少し下がったまなじりは、優しげに思われるはずなのに、光の無い赤い目のせいで、どこか空恐ろしく見える。
「それが初めましてでもないかもよ〜?」
その肩越しに薬師寺が顔を出して、にやにやと笑った。
「え? どういうこと?」
「ま、とりあえずソレどうにかしちゃわない?」
倒れている男を見て、谷松は首を傾げた。
「それもそうだな。“すずめ”にでも連れて行くか……ええと、高野くんだっけ?」
「は、はい!」
口の端を上げて、親指で背後の車を指しながら、谷松が高野を見る。
「悪いけど、もうちょっと付き合ってもらえる? 礼はするからさ」
「あ……はい、だ、大丈夫です」
「サンキュ。じゃ、乗って」
谷松が、後部座席のドアを開けた。高野は恐る恐る、足を踏み出す。
この時、高野はまだ気づいていなかった。自分がいつのまにか、虎の穴に落ちていたことに。
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