第十五更 これからも、そうやって


 白髪が風に揺れる。和装の老人──師匠、と呼ばれるその人は、縁側に座り、晩春の温かい日差しを浴びている。後ろから静かに、鈴鳴組の組長が近づいた。

「……」

「桜が咲いてますね」

「おう、起きとったんか」

「ふふ……」


 組長はどっかりと隣にあぐらをかいて、庭先の花を眺めた。葉桜になりつつある細身の木は、若緑と薄紅の色合いが美しい。

「……お前、ここの桜が咲いとるなんて、どないしてわかるんや」

「……めくらを馬鹿にしてますね?」

師匠はとんとんと、こめかみを指で叩いた。

「見えなくても知っていますよ」

「……腹立つ仕草やのう」

穏やかに微笑み、また桜の方を見る。その瞼が開かれることはない。

「良い日です」

「……せやな」

「そういえば、坊っちゃんが怪我したって?」

「いつものこっちゃ。骨折ばっかしおって」

「また折ったんですか、骨……」

師匠は少し呆れたように笑いながら、僅かに顔を上げる。組長は横顔を眺めながら、一つ溜息をついた。


「……竜嶽さん」

春の終わりの風が、師匠の声を攫う。

「あ?」

「天国とやらがもしあるなら……そこに雨は降ると思いますか?」

無言のまま、組長は桜を見た。昨夜降った雨粒が、陽の光に輝いている。眩しさに、目を閉じた。

「もし降るなら……桜も、咲くんでしょうね」


   *

 

「……っは‼︎」

成海は飛び起きた。見慣れない部屋と、清潔な白いシーツ、窓から差し込む朝日が眩しい。

「ッ、は、ここ、」

「朝から元気だね~」

「⁈」

ばっと隣のベッドを振り向いた。谷松が、足を吊られた格好で、競馬新聞を読んでいる。呆気に取られた成海は、口を開けたままそれを見つめた。

「普通に脇腹に穴開いたんだから、安静にしたほうがいいぜ。傷開いたら痛いぞ」

「あ、あの、あ、あなた、は」

「ん? うん、初めましてだね、成海くん。俺の名前は谷松神音。鈴鳴組の虎の子らしいよ」

「……た……にまつ、さん……」

成海は、握った拳から少し力を抜いた。鈴鳴組、という言葉には、聞き覚えがあった。もちろん、油断はできない。谷松の向こうにある扉に、鍵がかかっていないことを確認する。

「そんじゃ、それから何があったのか教えてあげるよ」

「……え」


 谷松は競馬新聞から目を離すことなく、続けた。

「君がいつも通りブツを運んでいるとき、やたら邪魔が入っただろ」

「……」

「ありゃうちのもんでも西木のもんでもない。西木の分家だ。どうも向こうさんの息子はずいぶんややこしいことしてくれてるらしい。成海くん、本人に会ったことある? 西木の組長のバカ息子にさ」

「……」

無言のまま、成海が首を横に振る。横目で確認した谷松が、また新聞を見て、赤ペンで丸をつけた。

「ま、そうよね。たぶん会ってたり、何か知ってたら、マジで消されてたんじゃない? ……いや、マジで消されかけてたな。とにかく、廃港で君を襲ったのも西木組本体じゃなくて分家のほうだった」

「……」

「どおりで西木の人間に聞いても歯切れが悪いわけだな。息子の作った分家が好き勝手やって手に負えないってか……堕ちたもんだね、西木も。けど運がいいぜ、成海くん。君は何も知らない彼に救われたんだから」

はっとして、成海が身を乗り出した。

「高野は……!」

「まあそう急くなよ。生き急ぐと早死にするぜ?」

谷松はへらへらと笑いながら、新聞をめくった。


「高野くんはさ。君のために大博打うって勝ったわけだけど、つまりぶっちゃけ、あれって別に勝っても負けてもどっちでもよかったんだよ。笑っちまうな。いや、おかげさまでうちの組と西木組の間のごたごたが八割解消したんで、ありがたいことだけど。……結局、あいつが君のためにしてあげたことといえば、あの廃港で出血多量で死なないように、君の応急手当てをして守ってあげたこと、それだけなんだよ。自分を庇って死にかけた君をね」

「……」

「なるほど……自分の人生の罪悪感を薄めるために生きて、生きることで罪悪感を募らせるわけだ、あいつは。いやはや……正しい欲は、時として狂気になり得る、なんて聞いたことあるけど。あいつにあるのは、狂った欲と正気ってわけだ。ま、君にこんなこと言ったってしょうがないけどね」


「……僕は」

ひとりで何か悟ったように頷いている谷松から目を逸らし、成海はベッドサイドを見た。袋に入った血濡れのハンカチが置かれていた。Kの刺繍が入ったそれは、成海がポケットに入れていたものだ。

「……ただ、高野に、お礼が言いたくて。……僕は高野のおかげで……死にそうなとき、死にたくないと思えた。それだけで僕は、高野に……」

「……」

その先の言葉を考えあぐねるように、成海は黙った。谷松は競馬新聞を置いて、一枚のメモを成海に渡す。

「高野くんはここにいるよ」

「……!」

「ちなみにこの病院はうちの組の息がかかった闇医者の病院だから、脱走しても特にお咎めナシだよ。あとナースがエロい」

「……」


成海はメモに目を落とした後、微笑んで、それを谷松に返す。

「ありがとうございます、谷松さん。あなたも僕を助けてくれたんですね」

「いや、それはどうだろうな。結局、夕鶴港で戦ってる最中、早々に転んで骨折してお荷物になってたし」

「……いえ。ありがとうございます。本当に」

深く頭を下げる成海を見て、谷松は困ったように微笑みながらメモを受け取る。

「……いいのかい? これ。持っていかなくて」

「はい。……その場所なら、もう、知ってます」

そう言うと満面の笑みを見せて、成海は駆け出した。


 その背が見えなくなると、谷松はベッドに寝転び目を閉じる。

「……『あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれ、光となっています。』……『光の子として歩みなさい』……つってね」

皮肉っぽく笑い、胸のロザリオを軽く握りしめた。


    *


 慧子が一礼する。

「……本当に、ありがとうございました」

磐長と薬師寺がそれを見て、優しげに微笑んだ。

「無事でよかったよ」

「神音ちゃんとこでちゃんとやってもらうんだよ~?」

「……ええ。住む場所も用意してもらえるみたい。……まだ、向こうは私のこと諦めてないみたいだけど」

「……」

談笑する彼らを、安田が遠巻きに眺めている。雀卓の定位置に座って、コーヒーを啜りながら、その柔らかい薄紅色の瞳を見る。

「……連中は手段を択ばないだろうからね。本当に気を付けて」

「……ありがとう」

慧子の笑顔は、これまで見たこともないほど、穏やかだった。

「ま、こんだけの人間に知れてるんだから、下手に向こうも動けないとは思うけどねぇ。神音ちゃんもうまくやってくれるだろうし」

黙って頷いた慧子を、薬師寺がじっと見つめた。その薬師寺に、安田は観察するような視線を向ける。薬師寺は気づかない。


「それじゃ、悪いけど高野、送っていってあげてくれる?」

「——はい!」

磐長に呼ばれた高野が、店の奥から顔を出す。頭に包帯を巻いた姿で、笑顔を見せた。

 

   *


「……あなたもありがとう」

「え、いや、そんな」

慧子の方を見て、高野は慌てて両手を振った。二人は、夕暮れの京都の路地裏を、並んで歩いている。

「俺はその……全然違うんですよ、そんな、あなたを助けようとしたわけじゃなくて、えーと」

「わかってるわ」

前を見たまま、慧子は静かに微笑む。

「それでも、あなたのおかげで助かったの。私も、……あの子も」

それから、と言葉を切って、腹に手を添えて高野を見上げる。

「この子もね」

「……」

高野は困ったように笑ってから、俯いた。


「……きっと貴方たちは、これからも、そうやって生きていくのね」

「……え?」

「……みんなひとりで、ひとりだからこそ、ひとりが集まって……生きていくのね」

「……」

京都の町を夕日が照らしている。二人の影が揺れている。


   *


 薬師寺はコーヒーカップを口から離し、溜息混じりに呟いた。

「……結局、先生は麻雀、打たなかったんだって?」

「打ちはしたぞ」

「でーも勝ったのはハチくんなんでしょ〜?」

頭の後ろで手を組んでのけぞる薬師寺が、定位置に座る安田を睨め付けた。

「今回一番働いてないの、先生なんじゃない? オレらみんな命懸けだったっていうのにさ」

安田は頬杖をついて窓の外を眺めながら、ふ、と笑った。

「……そうかもな」

「……」

いつものように言い返してこない安田に、薬師寺が勢いを削がれて黙る。磐長が一連のやりとりを聞いて、にっこりと笑う。


「ねえ、全……高野が勝つって、本当に信じてた?」

「ああ」

安田は間髪入れず頷いた。

「信じた、というか」

窓の外を見た菫色の目に、丸い月が映る。

「……賭けた」


 穏やかに微笑んだその唇に、薬師寺が煙草をねじ込んだ。驚く安田の目の前で、それに火を灯す。

「この博打狂いが。ニコチンで早死にしろ」

「これお前の銘柄じゃねえか。まずい。クソ」

「うっさい!」

顔を顰める安田に人差し指を突きつけ、薬師寺が怒鳴る。

「お前、高野ちゃんから百万ももぎ取るんだって⁈ 当然オレらにも分けるんでしょーね⁈」

「……ああ、あれ……」

渋々といった表情で煙草を吸い、安田は少しだけ考えて、すぐにそれを灰皿に押し付けた。

「いや。チャラにしようかと思ってる」

「……へ? そうなの?」

拍子抜けたように、薬師寺が座る。磐長はカップにコーヒーを注ぎながら、頷く。

「それがいいんじゃないかな。結局は、高野が自分で勝ったんだし」

「……そりゃ……そうだけど」

「それに」

湯気の立つコーヒーを一口啜って、磐長はまた微笑んだ。

「おれたちが仲間を助けるのに、お金のやり取りなんて必要ないもんね」


 安田の銀の睫毛が揺れ、薬師寺もまた、猫のような目を僅かに見開く。誰からともなくついた溜息が、蛍光灯に吸い込まれて消えた。

「……ま、確かに。オレたちはいつも、そうしてきたんだもんね」

薬師寺は呟き、頬杖をついて外を眺める。

「ふふ……そうだね」

磐長もカップを片手に、安田の向かいに腰掛けた。


 ゆっくりと瞬きを一つした安田が、小さく笑う。それから手元のボタンを操作し、牌の山を出現させた。

「え? ちょっと先生?」

「暇だから打つぞ」

「えーヤダー! サンマとかオレ絶対カモられるじゃん!」


   *

 

 高野は、煙草を咥えて一人歩いている。京都の夜の街に、春の終わりを告げる温い風が吹いている。煙を目で追って見上げると、星が輝いていた。

「……」

首だけ捻って、空の向こうに顔を向ける。視線の先に路地裏を見つけて、足を止めた。その奥に月が光っている。高野は煙草を口から落とし、月のほうへ吸い寄せられるように歩く。


 路地裏には、成海がいた。

「……高野」

走ってきたのだろう。成海は壁に手をついて息を整えている。病院着に、ウインドブレーカーを羽織っただけの姿を見て、高野は動揺する。

「……成海……なんで」

成海が微笑む。

「……約束。守ってくれて、ありがとう」


 ぞくり、と、高野の背を冷たい何かが走った。苦しいほど胸がいっぱいになって、顔を歪ませる。

 でも俺は。

 そう言いかけた唇を噛んで、俯いて目を閉じ、次に顔を上げたとき、高野は笑っていた。

「……うん」

満月が輝いて、二人を照らしていた。

 



  *





 夜が明ける。


「ありがとう」

薄い陽の光に包まれる窓辺で、彼女は振り返り微笑んだ。


「……私は深い深い森の奥で、ずっと一人きりで、閉じ籠っていた。空も光も見えない場所で、ずっと……それが私を守る、たった一つの方法だと思っていた。けれど、貴方たちが、この森の外に連れ出してくれたから」


目を落とし、大きくなった腹を撫でる。

「私はこの子を守れる」


ゆっくりと目を閉じる。


「……きっといつか、この子のことも、連れ出して」

祈りに似た、願いの言葉だった。



 夜が、明ける。




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『GambleЯ』第一部 宮谷 空馬 @kuuma_M

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