第11話
花は、自分が地面と衝突した衝撃で目が覚めた。
耳には、破裂音がこびりついていた。
しばらく、暗闇の中ぼうっと天井を見上げていた。
やけにリアルな夢だった。
死ぬのはあんなに寂しいのか、そう思った。
まとわりつく厭な感覚を振り払うために寝返りをうつ。
微かに喉の渇きと尿意を感じた。我慢できないほどではない。
もう一度寝返りをうち、机上の目覚まし時計を見る。暗闇に浮かぶ蓄光の文字盤が午前一時半を示している。
このまま寝るか、一度起きるか逡巡する。
布団の中で寝やすい体勢を探して何度か体を捻る。そのたびに、渇きと尿意をじんわりと感じ、入眠に集中できなかった。
花は諦めて、一度起きることにした。
ベッドから這い出し、自室を出る。
廊下の向こう、リビングから灯りが漏れていた。誰かがまだ起きているらしい。家族と顔を合わすのが億劫で、喉を潤すのは諦めた。
用を素早く済ましトイレから出ると、右側のリビングから言い争う声が聞こえた。
「あなたいっつもそれ言うけど、本当に仕事なのかしらね」
それは、母、京子の声だった。
内容から察するに相手は父の修作のようだ。
父の深いため息の後「どういう意味だ」という修作の疲れ切った声が聞こえてきた。
「そのままの意味よ」
京子の声は怒りよりも、相手を傷つけようという明確な悪意と冷たさを纏っていた。
脳裏に、聖の見下すようなあの顔が浮かび、とても嫌な気分になった。
「なんだよ。そのままの意味って」
「自分に聞いてみたら? やましいことがないか」
聞いてはいけない会話を聞いている気がして、花は、気づかれないように自室に戻ろうと決意する。
後ろ手で慎重にトイレのドアを閉める。
「あるわけないだろ。とにかく、その日は仕事だから。寄り合いにはお前が行ってくれ」
「あっそ。もう、いいわよ。あなたには何も期待していないから」
「疲れているからもう寝る」
次の瞬間、修二がてリビングの扉から出てくる。そしてトイレの前で棒立ちになっている花を見とめた。
一瞬驚きの表情を見せた修二だったが、すぐに無表情になると、何も言わずに、花に一瞥もくれずその前を通りすぎた。
まるで見たくないものから目を逸らすような父の態度に花は多少傷ついた。
リビングの方から大きなため息が聞こえた。
花は恐る恐る、リビングに目を向ける。
戸は開きっぱなしになっている。
ダイニングテーブルに京子がこちらを背にして座っているのが見えた。京子は頭を抱え、項垂れていた。
花は京子に気が付かれないよう、音を立てないように自室に戻る。
自室の扉をゆっくりと閉めた瞬間に、緊張の糸が切れ、花はどっと息を吐き出した。
そのままベッドに倒れ込む。
枕元に置いてあるスマートフォンを手繰り寄せ、画面をタップする。
画面にメッセージアプリの通知があった。
こんな夜中に誰だろうかと訝しがる。
そもそも、花にメッセージを送る人間など両親以外にはいない。
もしかしたら、父が先ほどのことで何か言い訳をしたいのかもしれない、そう思って通知をタップし、メッセージを確認する。
開いたのは、新規のトークルーム。
たった二つだけメッセージが暗闇に浮かぶ。
――黒沼 優です。
――遠藤くんに水上さんのアカウントを教えてもらいました。
何か、執念のようなものを感じて、熱帯夜だというのに寒気を感じた。
それと同時に花はしまったと思った。
このメッセージを読んだことが優に通知されてしまった。何か返さなくては、そう思った。しかし、今が夜中であることを思い出す。
明日の朝に返せばいいか。
そう判断し、花はスマートフォンを閉じようと電源ボタンに指を伸ばした瞬間だった。
――やっぱり起きてたんだ。
一瞬心臓が止まる。
無機質なその文字の羅列が、脳内で彼女のあの霧雨のような声に変換され、再生される。
全身に鳥肌が立つ。
「やっぱりってなに……」
まるで、自分の行動を把握しているような口ぶりだ。
とにかく、このまま無視をすればもっと恐ろしいことになりかねない。何か、返信しなければと震える指先を伸ばす。
その時、背後から強烈な何かの気配を感じた。
上体を起こしその方向、窓の方を振り返る。
暗闇のなか目を凝らすと、徐々に部屋の輪郭が朧げながら見えるようになっってきた。
カーテンはしっかり閉まっている。
「驚かさないでよ」
少しでも気を落ち着かせようと、独り言を呟く。
その時、何かが暗闇のなかで動くのが見えた。
それはカーテンだった。
ちょうど、人間の顔の高さで、まるで誰かがカーテンの向こう側から顔を押し付けているかのように、ゆっくりとカーテンが膨らんでいく。
声にならない悲鳴が出た。喉の奥が閉まり、一瞬、呼吸ができなくなる。
カーテンは大きく膨らんだあと限界がきたのか、弾けた風船のように萎んだ。
心臓は早鐘のように鳴る。耳の奥で心臓の鼓動に合わせて、じゅくじゅくと脳の血管が脈動する音が五月蝿いくらいに響く。
呼吸は浅く速くなる。
萎んだカーテンは再び膨らみ始める。
そこで花は気がつく。
誰かがカーテンに顔を押し付けているのではなく、はためいているだけなのだと。
ベッドから下り、足音を立てないように窓に近づく。
目の前で不規則にカーテンが膨らんでは萎んでを繰り返す。
カーテンの裾を掴み、呼吸を落ち着かせるために深く息を吸う。そして、意を決してカーテンを勢いよく開けた。
そこには誰もいなかった。
案の定、窓が半分だけ開いていた。
止めていた息を一気に吐き出す。
窓とカーテンをしっかりと閉め、ベッドに倒れ込む。
安堵感が全身に広がっていく。
点いたままになっているスマートフォンの画面を見て、優からメッセージが来ていたことを思い出す。
優のメッセージに対する恐怖心は、暗闇で蠢くカーテンという恐怖体験で上書きされ、もはや花の中から消えていた。
だから、メッセージを返さなくてはという義務感と徒労感だけがあった。
画面を覗くと、新たなメッセージが追加されていた。
――寝落ちしちゃったのかな。遅くに御免なさい。おやすみなさい。また明日。
さらなる安堵感で脳が痺れる。
安心したからなのか、それと同時に強烈な眠気が襲ってきた。
意識を手放す瞬間、ある疑問が湧いてきた。
――窓なんて開けてたかな。
クーラーが作動する微かなブラウンノイズだけが静まり返った花の部屋に響いていた。
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