やさしい町
肉級
一章 水上 花
第1話
スニーカ―のソールが腐葉土を踏みしめる湿った足音が鳴る。しかし、その音は暗い森の木々の表皮と腐葉土に吸い込まれ、とても微かでとても弱弱しい。
風の凪いだ冬の森。
枯れた枝木がまるで巨大な鳥かごのように、彼女の頭上を覆っている。
枯れ木の向こう、断片的に見える夜空には薄雲がかかり、その奥に半月が覗いていた。
それは本当に微弱な月の光だったがしかし、人工的な灯りのない、この暗い森の中では、足元を照らすには十分であった。
薄雲が靄靄と揺蕩う度に、月の光量は緩やかに変動する。
それに呼応するように、足元に落ちる複雑に絡み合った枝々の影がまるで、生物の体中を巡る血管が脈動するかの如く、生々しく蠢いた。
彼女は寒さと緊張で強張った左手に息を吹きかける。すると、白い靄が彼女の口から立ち上った。
その靄が、体から抜けていく魂のように見え気味が悪いと思った。
彼女はさらに歩を進める。
暫く歩いていると、彼女の脳裏にある疑問が浮かび上がってきた。
――私はここで何をしているのか。
分からなかった。
でも、考えても仕方がないような気もした。
――私は、あそこに行かなければならない。
でも、目指すべき場所がどこなのか、それも分からなかった。
分からないけれど、行かなければならないという意識だけがあった。
先ほどまで凪いでいた森が、俄かにざわめき出した。
枯れ枝の風切り音かと耳をそば立てる。
ざわ、ざわ、ざわ。
どうやら風切り音ではないようだ。
その音は、葉擦れ音のように、多くの雑音を含んでいる。
ざわ、ざわ、ざわ。
それはまるで、囁き声のようだった。
相変わらず彼女の足元には枝の木々が脈々と蠢いている。
この山は生きているのかもしれない、彼女はそう思った。
――この山は私に語りかけているのだ。
ざわ、ざわ、ざわ。
――ほら。聞こえる。呼んでいる。私を呼んでいる。
ざわ、ざわ、――ろう。
ざわ、ざわ、――って――ろう。
――何をしようって?
彼女は騒めきの中から、注意深く、そして少しずつ言葉を拾っていく。
ざわ、ざわ、ざわ。
ざわ、ざわ、わに――って――ろうよ。
そして、彼女は唐突にその言葉を理解する。
――輪になって踊ろうよ。
彼女はその時初めて自分の目的を思い出した。いや、理解したと言ってよい。なぜなら、彼女はこれまでの道中、何の目的意識も持たず、ただ、歩かされていたのだから。
彼女の右手は誰かに握られていた。
ぼんやりと、手を引く人物を眺める。
知らない男だった。
でも、とても懐かしい感じがした。
男は、ぶつぶつと何かを呟いている。
――輪になって踊ろうよ。
彼女はなんだか嬉しくなってしまった。
――そうだ、私は輪になるんだ。そして、踊るんだ。
――やっと輪になれるんだ。みんな、みんな、一緒だ。
彼女はだらしなく、嗤う。
そして、彼女も一心不乱に呪文のように、呟く。
輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう、輪になって踊ろう。
微かに聞こえていた、ざわめきが今でははっきりと聞こえる。
それは、何十人もの人間達が発する声であった。
無数の羽虫の羽音のように、幾重にも重なり合い、もはや意味を持たぬ大質量の雑音に変っている。
目の前の森が開ける。
そこには一本の鉄塔が立っていた。
月明りに照らされた、冷たい鉄塔。
その周りを取り囲む何十人もの人間。
人間達は手をつなぎ、文字通り輪になっている。
その輪は、鉄塔を中心として、幾重にも重なっている。
――輪になって踊ろう。
人々はただ、一心不乱にそう呟いた。
彼女と、彼女の手を引く男は、クリスマスのプレゼントを見つけた子供のように鉄塔めがけて駆け出した。
誰も彼女らの方を振り返らない。
それなのに、二人は、まるで最初からそこに収まるべきだったかのように、自然に、何の乱れもなく、するりと一番外側の輪の一部に迎えられた。
みんな呟いている。
みんな俯いている。
みんな嗤っている。
その時、誰かが叫んだ。
――寂しかったんだよなあ!
その叫び声に応える形で、すべての人間が一斉に声をあげる。
―― 一人は寂しいよなあ!
もう、誰も呟いていなかった。
もう、誰も俯いてはいなかった。
でも、やっぱりみんな嗤っていた。
全員が黙って鉄塔を見上げる。
そして、鉄塔を指さす。
ニタニタと笑っていた彼女も鉄塔を見上げた。
鉄塔のてっぺんに何かが見えた。
楽しかった気分が急激に萎んでいく。
――あれは、なんだ?
――それよりも、私はいったい何をしているのだ。
脳幹が痺れるような恐怖に彼女は支配されていく。
もう、誰も呟いていなかった。
もう、誰も俯いてはいなかった。
もう、誰も嗤っていなかった。
その場にいる全員が彼女を見ていた。
彼女は悲鳴を上げることすらできずに固まる。
最初に叫んだ男がまた声を張り上げた。
――みんな優しくなれますように!
彼女以外の全員が一斉に鉄塔を仰ぎ見、指をさす。
彼女も震えながら、もう一度鉄塔を見上げる。
鉄塔の頂上付近から何かがぶら下がっている。
それはゆらゆらと揺れていた。
痛いほどの静寂のなか、微かな、周期的な音が聞こえる。
ぎい、ぎい、ぎい、ぎい。
その音とぶら下がる物体の正体に思い至ったとき、彼女は強烈な吐き気を感じた。
おそらく、首をつっている人間だ。
それが、風もないのに、揺れている。
ぎい、ぎい、ぎい、ぎい。
薄雲がゆっくりと晴れていく。
青白い月の光が鉄塔を照らし出す。
――もう、見たくない。
しかし、彼女は鉄塔から目を離すことができない。
その時、不思議なことが起こった。
彼女の視界が、まるでカメラのズームのように、引き伸ばされたのだ。
そして、ぶら下がっている物体に視線がフォーカスしていく。
二本の足と靴が見えた。
やはり、首吊り死体なのだ。
二本の脚は、制服らしいプリーツスカートから伸びていた。
この制服は、彼女が通う学校指定のものであるということに彼女は気が付く。
ぎい、ぎい、ぎい、ぎい。
揺れる度、だらりと力なく伸びた足がしなる。
月光に照らされて白く光るスニーカがやけにまぶしい。
この靴にも見覚えがあった。
彼女の視界が再度、ズームする。
ぎい、ぎい、ぎい、ぎい。
それは、首を吊った女生徒の死体。
目を見開き、舌を突き出して嗤う、その首吊り死体の顔は、彼女――水上 花、自身のものだった。
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