第2話
ぱかんと小気味よい音が教室に響き渡る。
「水上ぃ。お前、俺の授業で寝るなんていい度胸してるなあ!」
居眠りをしていた
山田は、花が起きるのを確認して、二言、三言、皮肉を言ってから、踵を返して教壇へと戻っていった。
花は上体を起こして、咄嗟に教室を見渡す。
そこにはいつもの、つまらない日常が広がっていた。そのいつもの風景と今見た夢の恐ろしさのギャップに脳が混乱する。
背中に冷や汗で張り付くシャツの冷たい感触があった。
斜め前方に座る上田
聖は隣の席の遠藤 湊に何か小声で話しかけている。唇の形から推測するに、「やばくない?」である。
彼女の嘲笑を見せられて、早鐘のように鳴っていた心臓が急激に萎んでいく。恐怖とは別の嫌な気分に支配されていく。
話しかけられた湊は、花の方を一度だけちらりと振り返ったが、特に聖の問いかけには反応せず、無視を決め込んだ。
その態度が面白くないのか、聖はつまらなさそうに、わざとらしく口をとがらせ、湊の横顔を見る。しかし、湊がその視線に反応することはやはりない。
水上は、ほっと胸をなでおろす。
しばらく聖は未練がましく湊を見つめていたが、ついには諦め、花の方を振り返り一瞥した。
その目には、明らかな怒りが浮かんでいた。「あんたのせいだ」と言わんばかりの非難の目、その目に射竦められた花は、しまったと思った。
花に一切の非はない。
しかし、湊と聖の攻防は、あずかり知らぬところで起きているとは言え、きっかけは花の居眠りにあったわけである。それが花にとっては罪の意識につながってしまう。
それほどまでに、花と聖の間には明確なパワーバランスが存在していた。
花は気が小さかった。
それを優しさだと言う人も世の中にはいるが、彼女自身はそうではないと思っている。
別に他人を慮って、波風を立てないように、我を出さぬように、目立たぬように生きている訳ではないのだ。他人の主張に反意を示さないのも、それでいて明確に同調するわけでもないのは、すべて、自分を守るための彼女なりの処世術なのである。
一方、聖はそうではない、ように花の目には映る。
彼女は、自分の意思を持っている。好きなものは好き、嫌なものは嫌、そういった非常に単純な思考回路で生きている。そしてそれをはっきりと態度や言葉に出すことのできる人物である、と花は分析していた。
聖は花のことをひどく嫌っていた。
これは、このクラスの人間であれば誰もが知る、公然の秘密である。
実際、軽いいじめのような状態であった。
花はこの現状を甘んじて受け入れていた。
それは、彼女自身の卑屈な性格がそうさせていた。
花は決して、自分の性格と染みついた処世術が好きではない。好きではないからこそ、聖のような人間には、嫌われても仕方がないと、そう思っているのである。
そして、人間は嫌いな人間に対して、それ相応の態度になるのは仕方がないとも思っているのである。
これは明らかに歪曲した考えである。
嫌いだからと言って、その人間に酷いことをしてよい道理はない。
しかし、高校生という未成熟な精神と社会性を持つ生物の社会では、それがまかり通ってしまうのもまた、しかたがないことだった。
花は、聖からの非難の視線から逃げるように、目を伏せた。
この行動もまた、聖の反感を買うことになると分かっている。分かってはいても、聖の視線から逃れることしか、彼女は自分の身を守る術を知らないのだ。
負い目を感じて逃げたことを少しでもごまかすため、花は教科書を開いてみた。
そして、開いたページをなんとなく読んでみる。
まったく頭に入ってこない。それどころか、同じ行を三回も目で追ったところで、目が滑っていることに気が付く始末であった。
こっそりと目線だけあげ、長い前髪の間から聖の様子をうかがう。
彼女はもう、花を見ていなかった。
花は今度こそ、胸をなでおろした。
もはや授業を聞く気にはなれない。
花は、先ほど見た夢のことを思い出していた。
恐ろしい、夢だった。
夢は自身の精神状態の投影とだという。だとするならば、あんな恐ろしい、しかも自分が死んでいる夢を見るなんて、自分の精神状態はかなり悪いのだろうと思う。
しかし、それと同時に、自分はまだまともな感性を持っているとも思った。
水上は鉄塔からぶら下がる自分を見て、恐ろしいと思ったのだ。
もし、本当に自殺を考えるレベルで精神的に追い詰められているとしたら、自分の死は素晴らしいものに見えるはずだ。すくなくとも、安堵感のようなものを感じても可笑しくない。しかし、あったのは恐怖だけだ。それは、まぎれもなく、生に対して前向きな感情を持っているからなのだと思う。
「まだ、大丈夫」
彼女は、声には出さず呟く。
そして、無意識に聖の隣の席の湊に目線を送った。
すると、その視線を敏感に感じ取ったのか、湊が花の方を振り返った。
二人の視線がぶつかる。
湊の涼し気な目元が一瞬緩む。
花は、気恥ずかしくて咄嗟に左へと視線を切った。
視線の先には窓がある。
窓の向こうには山なみと夏らしい入道雲が見える。
夏らしく、青々と茂った山の頂上付近には、陽光を浴びてぎらぎらと照る、この町のシンボルともいえる鉄塔が見えた。
夢の中の鉄塔とはまるで違い、明るく、そしてなんだか柔らかい印象すらあった。
花は自身の頬がわずかに緩んでいることに気が付かない。
そして、そんな彼女の横顔を盗み見る聖の恨みがましい視線にも気が付いてはいなかった。
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