第3話

 花は、川沿いの通学路を一人つまらなそうに歩いていた。

 時刻は午後四時を回ったところだが、日はまだ高く、じりじりとアスファルトを焼いていた。

 花は、左側には、かんなぎ川の方に目をやる。

 かんなぎ川はゆるゆると流れている。水面は夏の陽を反射して目が眩むほど白い。

 照り返しで余計に暑さを感じた花は、シャツの裾を両手で持って扇いだ。汗ばんだ肌の上にぬるい風が吹く。シャツの胸元から送った風が漏れ出る。

 顔にまとわりつく生暖かい空気に汗臭さを感じて、花は顔をしかめ、仰ぐ手を止めた。

 道は右に緩やかにカーブしている。

 そのカーブの中央付近、ここから数十メートル進んだところに、橋が架かっている。

 その橋の向こう側、かんなぎ川の対岸に花の家がある。

 帰ったらまずはシャワーを浴びよう、それからアイスも、そう心に決める。お気に入りの雪見だいふくが冷凍庫で冷やされている様子を想像すると、足取りが軽くなった。

 対岸の集落へと続く橋へと左折した時だった。

 右側、たった今歩いていた国道が続く先の方から車の音が聞こえて来た。

 花は音の方を振り返る。

 一台の黒いワンボックスカーが見えた。

 その車は、橋のたもとで速度を落とすと、右ウィンカー出して右折し橋へと進入してきた。

 花は端によって車が通行するスペースを開ける。

 知らない車だった。

 かんなぎ町は、限界集落ではない。しかし、人口千人弱の小さな町である。かんなぎ川に沿っていくつかの集落が点在しているような作りをしている。その人口はせいぜい百人といったところである。そのため、自分の住む地区の人間であれば、みな知り合いか、少なくとも顔見知りなのである。

 当然、行きかう車も見知ったものだけである。

 しかし、目の前を通り過ぎる車に見覚えはなかった。

 車の窓から乗っている人間が見えた。

 やっぱり、知らない人間だった。

 運転手には、四十代くらいの男性、助手席にはその妻だろうか、やはり四十代くらいの女性が乗っていた。

 そして、後部座席には、彼らの娘だろう。花と同じくらいの年齢の女の子が乗っていた。

 花は、その彼女に目を奪われた。

 息を飲むほど綺麗な横顔。涼し気な目は知性を帯び、小さくすぼまった形の良い唇からは気品すら感じる。絹のような光沢をもつ滑らかな黒髪は、彼女の胸元まで一直線に伸び、車内だというのに輝いて見えた。

 食い入るように花はその女の子を見つめる。

 その視線に気が付いたのか、後部座席の女の子が花の方を振り返った。

 彼女は花を見ると、一瞬驚いたような顔をした後、すぐに笑顔になった。

 恐ろしく美しい笑顔だった。

 彼女は走り去る車の中から、花に向かって小さく手を振ってみせた。

 この三秒間にも満たない、邂逅があまりに衝撃的だった花は、ぼうっと走る車の後を見つめる。

 その車は橋を渡り切ると、花の家とは反対の方角、左手へと曲がっていった。

 一羽のカラスが鳴いた。

 その鳴き声で我に返った花は、我に返ると家路へと急いだ。

 玄関を開けると、母親のくたびれたサンダルがあった。家の敷地内に母親が乗る軽自動車が止まっていたので、家にはいるのだろうと思っていたが、やはりすでに帰宅しているようだ。

 母のくたびれたサンダルを見て花は顔をしかめる。

 花の母、水上 京子はこの町の近くの地方都市でレジ打ちのパートをしている。通常帰宅は、五時過ぎである。だから通常、花が学校から帰ってきても家にはいない。

 彼女にとって、母よりも早く帰宅することが、特に今日は重要であった。

 一つは、シャワーに入りたかったから。

 彼女の母は倹約家である。

 夏でも必ず風呂をためる。そして、その溜めた湯を使って洗髪やら洗濯をすることがこの家のルールであった。

 だから、母が家にいる場合、シャワーで汗を流すということは許されないのである。

 花はなるべく、音を立てないようにしながら靴を脱ぎ、家に上がる。

 そのまま、自身の部屋へと直行しようと足を踏み出した瞬間、左手のトイレから水の流す音が聞こえた。

 思わず舌打ちをする。

 次の瞬間、トイレのドアが開閉する音が聞こえる。

 そして、廊下の左手から彼女の母、京子が出て来た。

 京子は、人の気配を感じたのか玄関の方を振り返った。

「ああ、びっくりした。あんた、ただいまくらい言いなさいよ」

 花は、面倒くさそうに「ただいま」と返す。

 そのまま、京子の脇を通りすぎ、部屋へと向かおうとしたが、後ろから呼び止められた。

「それだけ? まあ、良いけど。で、学校はどうだったの」

 これが、母が先に帰宅していることを嫌がる二つ目の理由である。

 京子は花が帰宅すると、必ず学校のことを聞くのである。

 別に悪気はないのであろう。母娘おやこの通常の、何ら変哲もないただのコミュニケーションである。

 しかし、学校で孤立している花にとって、それは辛い質問である。

 中学の頃は、それなりに友人もいた。

 しかし、高校に入学してすぐ、花は上田 聖に目をつけられたのである。

 入学したての頃、花と聖は友人関係だった。

 しかし、ある日突然、聖から「私、あんたのこと嫌いだわ」と絶縁を宣言されたのである。

 その時、嫌われる理由に心当たりはなかった。だから、花は聖にその理由を聞いたのである。

 聖は、「あんたの、そういう、人の気持ちが分からないところが嫌」と切り捨てた。

 ああ、なるほどと思った。花には自覚があったのだった。彼女は人の気持ちがいまいち分からない。だから、他人の地雷を踏んでしまうことが幼いころから良くあった。

 そんな経験を積み重ねた彼女は、いつしか、余計なことは言わない、他人の意見を否定も肯定もしないという処世術を身に着けたのである。

 聖は、明るく、その容姿も可愛かったため、クラスでも人気の女子だった。

こんな田舎の、閉じた学生という社会の中にもパワーバランスというものが明確に存在する。いわゆるクラスカーストである。

 聖は間違いなくクラスカースト上位である。

 そんな彼女に公然と嫌いというレッテルを張られてしまえば、孤立するのは必至である。

 明確な嫌がらせはされてはいない。

 しかし、誰も、中学時代に友人関係であった人間でさえ、今や彼女には近づかない。

 そんな花の学校生活に起伏などあるわけがないのだ。

 ただ、登校し、つまらない授業を聞いて、母の作った弁当を一人で食べ、そして、帰宅するだけである。

 だから、母のする「学校どうだった?」という質問が花は大嫌いなのである。

 そもそも、「どう」という、ただの感想を求める曖昧な質問にイライラする。「授業についていけているのか」や「友達とうまく付き合っているのか」など、具体的な質問であればまだ答えようがある。しかし、ただ「どうだった?」と聞かれても、無味乾燥な学校生活を送る花に回答など持ち合わせているはずがなかった。

 だから、花もいつもどおりしかない。

「どうって、別に普通だよ」

 そう、普通なのである。

 花にとって、友達のいない、ただ無為に時間を過ごすだけの学校生活がいたって普通なのである。客観的に見ればそれは、かなり不健全な学校生活と言えるかもしれない。しかし、これが花にとっての日常であった。

「普通って、あんたいっつもそればっかりじゃない。そんなに母さんと話したくないわけ?」

 京子はため息交じりにそう呟く。

 しかし、その認識は根本的にずれている。話したくないというのは間違いないが、それはこの質問だからである。

「別に、そういう訳じゃ……」と花が言いきる前に、「まあ、いいわ。さっさと着替えてきなさい」と京子は会話を切り上げ、リビングの扉の中に消えていった。

 花は小さくため息をついたあと、廊下をリビングの反対側の左に曲がり、突き当りの自身の部屋へと向かった。

 廊下の左側には水上家の庭に臨むガラス戸が続いていて、そこから強い西日が差し込んでいる。

 ガラス戸の桟と花の影が仏間の襖へと伸び、黒々とそのシルエットを焼き付けていた。

 花は自室の薄い木製のドアを開ける。

 その瞬間、母の好む少しきつめの柔軟剤の香りと、ネットで買ったルームフレグランスの甘ったるい、こもった香りが、夏の熱い空気と共に漏れ出した。

 花は一層暑さを感じて「あっつ」と小さく呟き、強烈な西日が差し込む窓へと近づく。

 西日に照らされた花の部屋は、赤く染めあげられている。

 遮光カーテンを素早く引くと、部屋は影の中に沈んだ。

 花は背負っていたリュックを適当に放り投げると、入口近くの壁に架けているクーラーのリモコンに手を伸ばし、手探りでスイッチをつける。

 電気は付けず、うつ伏せにベッドへと倒れ込んだ。

 疲れていた。

 ベッドの上で寝返りをうつ。

 勉強机の上に置かれた目覚まし時計の数字と針の緑色の蓄光が、暗闇の中に浮かび上がる。

 午後六時を回ったところだった。

 花は違和感を覚える。

 明らかに時間が進んでいる。

 橋を渡ったときは四時を回ったころだったはずだ。

 その時はまだ日は高かった。じりじりと肌を焼かれた感覚も覚えている。

 だが、すぐにその違和感などどうでも良くなった。

 下腹部に鈍痛が走る。生理痛だ、そう思った。

 強く目をつむる。

 途方もない疲労感が体を襲い、花の意識は遠のいていった。

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