第8話
ホームルームの終了を告げる桃子の号令の後、椅子を引く騒がしい音がクラス中に響き渡る。
花は、その騒がしさの中、やっと一日が終わったと安堵していた。
今日は優の登場により、クラスはずっと浮き足だっていた。それもあってか、あの聖の冷たい目線や嘲笑に晒されることはほとんどなかった。
しかし、休み時間のたびに優の席にはクラスメイトたちが集まり、騒がしく、花は肩身が狭かった。
もちろん、そんな状況下で自分の席に座り続ける勇気もなかったため、毎回花は教室から逃げ出していた。
今もそうである。
さっさと帰り支度を済まし、立ち上がった時だった。
花は数学の問題集をロッカーに入れたままであることを思い出した。
今日の数学で明日までの宿題が出されていたため、持って帰る必要がある。
教室の後ろ、花の席のすぐ後ろの壁に設置されている個人用ロッカーに向う。
背後に、聖のグループが優の周りに
その瞬間、背後で恐ろしい会話がなされているのが聞こえてきた。
「ごめんなさい。私、今日、水上さんと帰る約束をしているの」
柔らかだが、有無を言わせぬ静かな迫力に満ちた声、それは優のものに違いなかった。
とっさに花は振り返る。
まず、見えたのは聖の驚きに見開かれた目だった。その目は、すぐに怒りの目にかわっていく。
――なんであんたが。
その目はそう、雄弁と語っていた。
次に見えたのは、にっこりと微笑む優の顔だった。
花はその顔を聖以上に驚いた表情で見つめる。
彼女は「みなさんまた明日。さ、行きましょう」と花の手を取ると、あっという間に花を教室の外へと連れ出してしまった。
しばらく花はただ茫然と彼女に手を引かれて歩いた。
校門をでたあたりで我に返り、とっさに手を振り解いた。
優はゆっくりとと振り返り「どうしたの?」と笑いかけた。
その笑顔が花には悪魔のように見えた。
「どうして?」
優は質問の意図が分からないと言う様子で小首をかしげる。
「私たち約束なんて……」
優は納得したように「ああ」と呟くと、頷いた。
「そうね。約束なんてしていない。でも、私たちお友達じゃない。お友達とは一緒にかえるものでしょう?」
その言葉に花は混乱する。
何を言っているか分からなかった。
しかし、友達じゃないとも言えなかった。
友達になりたかったわけではない。ただ、それを言って傷つけたり、怒らせてしまうことが恐ろしかっただけだ。
「本当はね、ちょっと疲れてしまったの。上田さんたち、本当に良い人たちなんだけれど、質問ばっかりで」
そう言いながら、優は小さく舌を出した。その唇からのぞく薄い舌がやけに赤く、艶かしい。
「だから、帰りは別の人と帰りたかったの。迷惑だった?」
正直、迷惑だった。
確実に聖の反感を買ってしまった。
明日、何を言われるか今から憂鬱だった。
でも、迷惑だなどと花が言えるはずもない。
小さく「そうじゃないけど」と呟いた。
それを聞いた優は、手をポンと叩いて「よかったあ」と嬉しそうに笑う。
その屈託のない笑顔に花は少し救われる気持ちがした。
――そうだ、彼女は今日この学校に来たばかりだ。聖と私との関係を知るわけがないじゃないか。だから、悪気もないのだ。
「じゃあ、一緒に帰ってくれる?」
花は小さく頷く。
それを見た優は満足そうに頷くと、歩き出す。
花は彼女の横についた。
「水上さんは、あの辺りに住んでるんだよね」
「うん。まあ」
「なんだか嬉しいな」
「どうして?」
「だって、お家が近かったらすぐに遊びに来てもらえるじゃない」
優は花の顔を覗き込んで二、三度瞬きをしてからそう言った。
なんだか、馴れ馴れしいと思った。
誰かの家に遊びに行った経験も自分の家に友人を招いた経験もほとんどない。
ただ、聖は一度だけ招いたことがある。
もちろん、嫌われる前の話だ。
その楽しかった時の記憶が思い出され、ちくりと胸が痛んだ。
「そうだ、今からうちに来ない?」
この提案に花は今度こそ面食らってしまった。
今度来ないかという誘いであれば、まあ社交辞令だろうと思う。しかし、今からとなれば、それは本気で誘っているとしか考えられない。
――いや、もしかしたら私を試しているのかもしれない。
だって、ほとんど初対面の人間を家に招くことなどあるだろうか。
少なくとも花にとっては想像もできない思考回路であった。
もしかしたら聖に休み時間に何か吹き込まれて、花を揶揄っているのかもしれないという疑念が産まれた。もし、ここでこの誘いに乗ってしまったら、常識のない、厚かましい人間であると、明日聖と一緒になって揶揄うのではないか?
花はほとんど疑心暗鬼に陥っていた。
しかし、無下に断るのも恐ろしい。
本当に優が善意で誘ってくれているのであれば、彼女を失望させてしまうかもしれない。もっと恐ろしいのは、聖たちにそのことが密告されれば、それをネタにされることだ。
花が逡巡していると優は悲しい目で「だめ?」と追い討ちをかけてきた。
咄嗟に「だめじゃないけど」と口走る。
優はぱっと顔を明るくする。
しまった、と思った。
なんとか断らなくてはと必死に言葉を探す。
「じゃあ、早く行きましょう」
そう言って優は花の手を再び取ろうとした。
花はまた反射的に自分の腕を引っ込める。
「あ、あの。ごめん。本当に、嬉しいんだけれど今日はお母さんが帰ってくるの遅くて」
考えがまとまらぬままに話し始めたため全く言い訳になっていない。
花はさらに焦りだし、しどろもどろになる。
優はくすりと笑って言った。
「じゃあ、むしろ遅くまでお話しできるじゃない」
「あ、いや、そうじゃなくて」
優はまた小首をかしげる。
「あの、その……」
次の瞬間、優は何か良いことを思いついたかのように、再び胸の前で両手を叩いた。
「お母さんが夜遅いなら、うちで夕飯食べていったら。ううん。むしろ泊まっていってよ。うん。それが良い」
ここで花は確信する。
――この子本気だ。
まず、目が本気だった。演技だとはとても思えない。本気で自分の提案が素晴らしいものだと思っているように見えた。
花は少し怖くなり、無意識に後ずさった。
「どうしてそこまで……」
「どうして? だって一人は寂しいじゃない」
「ひ、一人じゃないの」
「え?」
「お、弟がね、いるの」
「……そう、なの。じゃあ、寂しくないわね。ああ、もしかして弟さんのお世話をしなければならないってこと?」
「え? ああ、そうなの。今日お母さんが遅いから、弟の世話をしなくちゃいけなくて」
優は納得したように「そっか残念」と頷いた。
「じゃあ、今度遊びにきてね。もちろん弟さんも一緒に」
そう言って優はまた笑う。
「うん。また、今度ね」
花は明日と言われなくて良かったと心の底からほっとする。
それから二人は他愛のない話をしながら帰った。
と言ってもほとんど優が話し、花はそれに相槌を打つだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます