第7話

 休み時間になると、優はあっという間にクラスの面々に取り囲まれた。

 花は居づらくなって、席を立った。

 廊下に出ると、眩しいほどの陽光で目が眩んだ。

 足早に西側の階段へと向う。

 この階段をのぼった先、屋上へとつながる踊り場が彼女の避難場所の一つであった。

 彼女は四階まで登り、そこから上階の様子を伺う。

 階下から屋上へとつづく扉が見える。その扉は窓のない薄いアルミ製である。

 扉前は下の階と同様の作りになっており、踊り場がある。ここからは死角になっていて見えないが、扉の左側にはスペースがあるのである。

 そこが、花の避難場所であった。

 しかし、たまにそこで秘密のデートをしている男女がいるため、花は階下から様子を伺っているのであった。

 どうやら人の気配はないようである。

 花は、足音を立てぬよう、ゆっくりと登っていく。その最中も耳には細心の注意を払う。

 ゆっくりと、死角になっている左側のスペースを覗き込む。

 誰もいない。

 花は安心したように押し殺していた息を吐き切った。

 花は、屋上へとつづく扉のノブを掴んで扉が開くか試してみる。しかし鍵がかかっていて開かなかった。

 花はこの扉が開かないことは知っている。

 しかし、これは花にとっては一つの占いのようなものだった。

 開かなければ自分はまだ正気であると信じた。

 いつかこの扉が開いてしまうことはあるのだろうかと花は考える。そして、開いてしまった場合、自分はどうするべきかも思案する。

 決めていなかった。

 しかし、もし、万が一この扉が開いて屋上へと出られるようなことがあれば、フェンスの向こう側に立ってみるのが良いだろうと漠然とした考えはあった。

 そのあとのことは、その時に考えればいい。

 花は扉から離れ、踊り場へと座り込んだ。 

 そこは、陽光が届かないため、薄暗かった。

 自分の膝に顔を埋め、深く息を吐き出す。

 その時、階下で足音が聞こえた。

 花はその足音に耳をすます。

 足音は一瞬途切れたが、花のいる屋上へと続く階段を登る音がつづく。

 花は顔をあげ、身を固くする。

 そこに現れたのは、湊だった。

 湊は座り込んでいる花を見つけると、少し安心したような顔になった。

「やっぱりここか」

 花は、もう一度自分の膝に顔を埋めた。

 湊が花の隣に座る。

「大丈夫か?」

 湊のその問いが何に対してのものなのか花には分からなかった。

 だから、黙っていた。

 沈黙に耐えきれなくなったのか、湊は「あー」と意味なく唸る。

 数秒言葉に詰まったあと「黒沼さん、すごい綺麗な子だな」と言った。

 また、あの痛痒さが花の胸に走る。

「そう、だね」

 そう答える花の声は、今朝からほとんど発声していなかったからか、少し掠れていた。

「クラスの奴ら、もうお祭り騒ぎだよ」

 その言葉に花はなぜだか小さな苛立ちを覚えた。そして、あの時湊が見せた何かを期待するような優を見つめる目を思い出した。

「遠藤くんはお祭りに参加しなくていいの?」

 やけに冷たい響きがした。

 その冷ややかな言葉に花自身驚き、嫌な心臓の高鳴りを感じた。

「まあ、俺は良いかな。疲れるし」

「そう……」

 湊は、一瞬発した花という名を飲み込んでから「水上もそうだろ?」と続けた。

「私は、別に……そういうのじゃない」

「そっか」

 そう呟く声は、少し寂しそうだった。

 二人の間にしばらく沈黙が流れる。

 湊は何かを言いづらそうに、軽く頭をかきながら、身を揺らしていたが、意を決したように花に再び声をかけた。

「なあ」

 花はその問いかけには答えなかった。

 その代わりに、顔を埋めたまま、肩を小さく跳ねさせた。

「黒沼さんと友達になったのか? それなら今度一緒に……」

 その言葉を聞いた瞬間に、花の胸の中にどろりとした暗い感情が湧き上がってきた。

 今度一緒に、何なのだ。

 三人で遊びにでも行かないかと言うことなのか。

 そもそも、優と友達になった覚えはない。今朝の彼女の言葉もただの社交辞令に過ぎない。

 そもそも、あんな可愛い子と友達になったら、聖の反感を買うに決まっている。そうなれば、もっと酷い嫌がらせを受けるかもしれない。

 そんなのは嫌だ。

「一緒に、なに?」

 湊が言い終わらぬうちに、花は苛立ちを露わにする。

 湊は一瞬たじろいだ。

「一緒に、その、お茶でもしてみたらどうかと、思ってさ」

「二人で行けば?」

「え?」

「なんで私も行かなきゃ行けないの? そもそも、私は昨日たまたま車に乗ってた黒沼さんにあって一瞬だけ目があった程度だし。友達なんかじゃない」

「そう、なのか。昨日黒沼さんが早速友達ができたって喜んでたからてっきり」

「昨日?」

「ああ、黒沼さんはうちの隣に越してきたんだよ」

 花は湊の家の隣が長らく空き家になっていたことを思い出す。

「それで、昨日一家総出で家に挨拶に来てさ。そん時に少し話したんだよ」

 なんだか言い訳をしているように花の目には映った。

「とにかく、私は黒沼さんと友達じゃないし、これからも友達になるつもりはないから」と花は投げやり気味に言った。

 湊はひどく悲しそうな顔になる。

「でも、黒沼さん、すごい良い子そうだし……」

 良い子そう、その言葉が花の、触れてはいけない何かに触れた。

 あの、聖だって最初は良い子そうだったじゃないか。そんな曖昧で不確かな感覚だけを頼りに人付き合いなど出来るものか。しかも、湊には私を出汁に使おうとしている節がある。そんな彼の下心のために、さらに状況を悪くしてたまるものか。

 花の中に渦巻いていた暗い感情が熱を帯びていく。

 実はその根底にある悪感情が、嫉妬心であるということに花は気づいていない。彼に対する恋慕を制限することが無意識化している花は、表層意識に上がってくる自身の怒りの理由が、捻れるのである。

 私をだけを見てほしい、認めてほしいという自己承認欲求を逆撫でされた花だったが、無意識的にそれ以外の理由を求め、嫉妬心は湊への不信感という形で発現したのである。

「良い子そうであって、良い子かどうか知らないでしょ? それにどうして遠藤くんのために私が彼女と仲良くならなきゃ行けないの?」

 語気を荒げる花に驚いた湊は慌てて「そんなつもりじゃない」と否定する。

「じゃあ、どういうつもり?」

 その問いに湊は言葉を詰まらせた。

「ほら、やっぱり自分のためじゃない」

「ちがっ、本当にそうじゃなくて……」

 花は彼が何かを言い終わる前に立ち上がると「教室戻るから」と言って、足早に立ち去る。

 その後ろ姿を湊は傷ついたような顔で見つめていた。

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