第14話

 花は自室のベッドの上で横たわっていた。

 もうそろそろ、約束の時間になろうとしていた。

 行きたくない。

 いっそのこと、居留守を使うかとも考えた。

 しかし、昨晩のカーテンの一件を思い出す。

 もし、居留守を使えば、彼女は庭をまわってこの窓の向こうに立つかも知れない。そんな想像が花の頭の中を支配する。

 カーテンは帰宅してすぐに閉めた。でも、カーテンの向こうから、あの霧雨のような声が響いたら、そう想像すると恐ろしくてたまらなかった。

 花が帰宅した時、京子はいなかった。

 京子は夕方からの寄り合いには仕事場から直接向かうと言っていた。つまり、今夜は花一人だ。

 家は静まり返っている。

 これほどまでに、母がいて欲しいと思ったことはない。今なら、母の「今日どうだった?」という質問でも嬉しいに違いない、そう思った。

 その時、玄関の方でチャイムが鳴った。

 心臓が飛び跳ねる。

 ついに、あいつが来た。

 花は、深呼吸をしてから、ベッドから這い出す。

 自室の戸を開ける。

 夏らしい、湿った熱い空気が全身を包む。まるで怪物の舌で舐められたような感覚がした。

 玄関に向かう廊下は、夕陽で赤々と照らされている。

 庭に面している窓の方を見ないようにして、足早にその前を通り過ぎる。

 優が庭にいるような気がしたからだ。

 廊下を右に曲がる。玄関のすりガラスの向こうに黒い人影が見えた。

 そのシルエットは紛れもなく、優のものだった。

 すりガラスでも曖昧にできない、確かな存在感。その黒く明瞭な輪郭は、恐ろしい呪霊の類に見えた。

 

 ――この女は呪いだ。


 そんな考えが花の脳裏に浮かぶ。

 花は、なるべくその影が視界に入らぬように俯き、靴を履く。

 そして、一呼吸置いてから、意を決して玄関の引き戸に手をかけた。

 扉の先には優が立っていた。

 しかし、一人ではなかった。

 その後ろには、よく知った人間がばつの悪そうな顔をして立っていた。

 湊だった。

「よ、よう」

 湊は花に向かって手を上げた。

 花は混乱する。

 しかし、それ以上に、膝から崩れ落ちそうになるほど安堵した。

「どうして、遠藤くんが?」

 その質問には優が答えた。

「たまたま、家を出る時に会ったの。せっかくだから、遠藤くんも誘ったの。だめ、だった?」

 優が不安げに瞳を揺らす。

 ダメなわけがない。この女と二人きりにならなければなんだっていい。

「だめじゃ、ないよ。もちろん」

 湊も少し安心したような顔になる。

「で、どこ行くんだ?」

「花ちゃんがね、喫茶店、なんだっけ山犬軒に行こうかって」

 山犬軒は、このかんなぎ町にある喫茶店だ。

 喫茶店ではあるが、食事のメニューも充実している。この田舎町で、高校生だけで入っても問題なく外食できる数少ない場所だった。

 なるべく優と二人きりなるのが嫌だった花は、まずこの喫茶店で夕食を取ることを提案したのだった。

「ああ、あそこか。了解。じゃあ、行くか」

 そう言って、湊は歩き出す。

 優は、小走りに湊に近づき、横に並ぶ。

 花は、連れ立って歩く二人の後を、なるべく目立たないように、小さくなって続いた。

 優と湊は楽しそうに話しているのを花はただ黙って後ろから眺める。

 湊の話相手が、優以外の女子であれば、胸の疼くような痛みを感じていただろうが、今は優と話さなくて良い状況に心のそこから安堵していた。

 湊と優は、気遣うように時たま花の方に振り返り、話をふるが、花はそれに対して、「ああ」とか「うん」とか頷くだけだった。

 そんな花の様子に、湊は心配そうな目を向けることが度々あったが、それに花がきがつくことはなかった。

 三十分ほど歩いて、一向は山犬軒に到着した。

 湊が扉を開けると、チリンと小気味よいベルの音が店内に響いた。

 優は「お先にどうぞ」と花に道を譲る。

 カウンターに立っていたエプロン姿の女性は、入ってきた湊と花を見つけると「あら、二人とも久しぶり」と笑顔で声をかけた。

 最後に入ってきた優は丁寧に扉を閉めてから振り返り、興味深々という感じで店内を見渡す。

 優の存在に気がついた女店主は、目をまるくして「あら、綺麗な子……どこの子かしら」と呟いた。

 扉の近くに置かれた陶器製の等身大の犬の置き物を屈んで眺めていた優は、顔を上げ、女店主の方を見る。

「初めまして。最近越してきた黒沼 優と申します。水上さんと遠藤くんと同じクラスで、今日は水上さんのお勧めでお邪魔しました」

 優は可憐に笑った。

 店主は、その可憐さに当てられたのか、一瞬言葉を失う。

「……あ、ああ、そうなの。いや、いらっしゃい。さ、あっちのテーブル席にどうぞ」

 そう言って女店主は窓ぎわの四人テーブルの席を示した。

 三人はその席に座る。

 花は窓と反対側の椅子の席に座ると、すかさず湊がその隣の席に座った。

 その様子を見ていた優は、くすりと笑ってから、奥側のソファー席に座った。

「素敵なお店ね」

 優は、店内を見渡して言う。

 山犬軒の店内は無数の犬の置き物やら絵やら写真やらで飾り付けられていた。

「千賀さん、犬が好きだからさ。ああ、千賀さんってのはさっきの人ね」

「ふうん。それで山犬軒なのね。山猫軒じゃないんだって、不思議に思ってたの」

 湊は、優の発言の意図はわかっていない様子で、曖昧に「ああ、まあそう」と応えた。

 それからすぐに、千賀が水を持ってやってきた。

 千賀はトレイに乗せたグラスを三人の目の前に置いていく。

 最初は、花の前に。

 次に、湊の前に。

 その次に、優の前に。優は軽くお辞儀をする。

 そして、千賀はを手に持って、動きを止めた。

「あら、私ったら間違って四つ持ってきちゃった」

 千賀はグラスをトレイに戻そうとした。

 その時、優が声をかける。

「良いんです。そのお水、こちらに置いておいていただけませんか」

 そう言って、優の隣の席、空いた机の上を示した。

 千賀は一瞬怪訝な顔をしたが「わかった」と言ってそこにグラスをおいた。

 優はそのグラスを見つめて満足そうな顔をする。

 花の背筋に冷たいものが走った。

 その様子を見て、湊も違和感を覚えたようだったが、固まったまま特になにも言わない。

「さて、腹ペコ高校生諸君、何食べたい?」

 千賀の明るい声に、花と湊は現実に引き戻された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る