第13話

「ああ、言い忘れてた。来週末には予定通り巫祭りかんなぎまつりが開催されます。行くなとは言いませんが、羽目を外しすぎないように。当日は先生たちも夜間巡回しますからね。はい、じゃあ号令」

 担任の桃子が帰りのホームルームを締める。続いて、やる気のない、気の抜け切った日直の号令により、放課となった。

 巫祭りとは、毎年七月二十日にかんなぎ町の神代神社で執り行われるのぼり祭りである。地域密着型の祭事であり、観光客が興味を抱くような特色はこれといってない。強いて言えば神社境内にのぼりが建てられるくらいである。

 しかし、娯楽の少ないかんなぎ町において、貴重なイベント事であり、地元の人間たちは、子供だけでなく大人も毎年楽しみにしている。

 加えて、開催日の七月二十日は高校の終業式である。生徒たちにとって神代祭りは夏休みの始まりを告げる狼煙なのである。盛り上がらないわけがない。

 また、祭事を執り行う神代神社のみならず、地域をあげてこの祭りを盛り上げるため、町内会も出資と支援を行っている。その関係で、この時期になると、町の寄り合いが開かれ、祭りの準備が始まる。

 花の母も、この町内会の寄り合いに今夜出席することになっていた。

 ホームルールが終わると生徒たちは三々五々教室を出ていく。ほとんどの生徒たちは、巫祭りの話をしていた。

 花は当然、祭りに一緒に行くような友人はいない。

 いそいそと帰り支度をしていると「は、誰と行くの? お祭り」とあの霧雨のような声が背後から聞こえた。

 全身に寒気が走る。

 振り返るとそこには優が立っていた。

 優はにっこりと笑いながら「行くんでしょ? お祭り」という。

「私は、別に……」

 誰とも行く予定はない、そう言いかけて口をつぐむ。

 そう言えば、この女が誘う口実を作ってしまう気がしたから。

 普段の花であれば、誰かが自分を誘うかも知れないなどという想定はしない。

 しかし、優は異常に自分に執着している。ありえないことではないと思った。

「別に、だ、誰とでもいいでしょ」

 花は、あえて突き放す言い方をした。

 愛想を尽かせばいい。そんな淡い期待を抱いていた。

 しかし、そんな花の態度を気にする様子など一切見せず「内緒なんだ」と、柔らかく笑う。

 ひょっとしたら、異常な執着をみせて激昂する可能性まで妄想していた花は拍子抜けする。

「あ、分かった。遠藤くんでしょ?」

 優が悪戯っぽく笑う。

 花は、想定していなかった名前が優の口から出てきたことに驚き、そして動揺した。

 思い人を言い当てられた気恥ずかしさなどという淡い青春の機微などではない。花に芽生えたのは恐怖心だった。

 得体の知れない女の口から、彼の名前が出たのが恐ろしかったのである。もしかしたら、自分と同様に彼にも執着するかも知れない。そうなれば、彼を巻き込んでしまうかも知れない、そう思うと恐ろしかった。

 しかし、恐ろしさを感じると同時に、心の奥底で期待している花もいた。もし、この女が彼に執着心を抱けば、自分は解放されるかも知れない、と。

 それと同時に小さな罪悪感を抱く。

 そして、その罪悪感は、表層へと上がる頃にはやっぱり捻れるのだった。

 罪悪感は「この女は湊が好きなのかも知れない」という妄想と、それに対する小さな痛みに昇華した。

「どうして、遠藤くんが出てくるの……」

 花の声は動揺と恐怖と無自覚な罪悪感で揺れている。

「二人は幼馴染なんでしょう? 遠藤くんに聞いたよ」

 優は何か揶揄うように笑う。

「ち、違うよ。ただ、家が近くて、昔よく遊んでいたってだけ」

「花ちゃんってやっぱり面白いね」

 優はひとしきり笑うと「それを幼馴染って言うんじゃない」と言った。

 確かに、そうなのかも知れない。しかし、今は友人ですらない。遊びに行くことはおろか、ほとんど会話もない。

 それでも世間では幼馴染というのだろうか。花にとっては、幼馴染という表現が正しいような気がした。

「それなら、幼馴染だった、それだけだよ。今は、話すこともないし……」

 花はそう言って、視線を優から外した。

 つい最近、湊とあの屋上前の踊り場で話をした。だから、若干の後ろめたさがあったのだ。

 優は何も言わなかった。

 いつの間にか、教室には二人だけになっていた。

 二人の間に長すぎる沈黙が流れる。

 花はその沈黙に耐えきれず、視線を上げた。

 そこには、優の整いすぎた顔があった。

 まるで人形のように無表情だった。

 なんの感情も読み取れない。

 ただ、じっと穴倉のような真っ黒い目で花をじっと見つめていた。

 花の心臓はその目に心臓を鷲掴みにされる。心臓をぎりぎりと締め上げられるような感覚。呼吸は浅く、早くなっていく。

 遠くの方で、運動部のかけ声が聞こえた。

 

 ――嘘。

 

 ようやく優は言葉を発した。

 しかし、それ以上、言葉を続けない。

 蝉の鳴き声が五月蝿い。

 花のほとんど停止しかけていた心臓が早鐘を打ち始める。

 優は再び口を開いた。

 小さく整ったその唇から底冷えするような声が漏れ出す。それは真夏だというのに、はっきりと冬の気配を纏っていて、白い靄までもが見えるようだった。


 ――嘘でしょう? 私のこと話していたこと


 知っているとは何をだ? 何を知っているのだ!

 花はほとんどパニックになりかける。

 何か言おうとして、口を開くが、喉の奥で息がつかえて、微かな喘ぎ声のような音しか出てこなかった。

「遠藤くんと話してないなんて嘘。だって私……」


 ――見ていたから。


 花は声にならない悲鳴をあげる。

 あの場所には湊と自分の二人だけだったはずだ。

 優は憑物が落ちたかのように俄かに笑顔になる。

「花ちゃん、休み時間はいつもあそこにいるよね」

 階段の脇から覗く彼女の真っ黒な目を想像する。

 全身に鳥肌がたった。

「まあ、いいか。どうでも。花ちゃんとお祭りに行きたかったけれど、邪魔しちゃ悪いものね」

 花は完全にパニックになっていた。思考は完全に停止している。

 そんな脳内に彼女の言葉が侵入してくる。


 ――今日は、五時半くらいに迎えにいくね。


 その瞬間、今日の夜、この女の家に行かなければならないことを思い出し、絶望した。

「楽しみだね」

 そう言って笑う優の目はやっぱり笑っていなかった。

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