第12話
次の朝、花は京子の「早く顔洗ってきなさい」という声に叩き起こされた。
時計を見ると、いつも起きる時間よりも十分も早い。
花は朝が弱いタイプではない。目覚ましをかければその時間にしっかり起きられるのだ。だから、母に起こされたという記憶がほとんどない。
疑問に思いながらも、洗面所に行って顔を洗う。
顔を洗うと多少目が覚め、曇っていた意識と感覚が少しだけクリアになり、リビングの中から漏れる京子の声が聞こえてきた。
やけに上機嫌である。
――まあ、不機嫌よりはいいか。
不思議に思いながらも、一人納得してからリビングのノブを掴む。
そこにいるはずの母におはようと声をかけながらリビングのドアを開ける。
そこで、花の動きはぴたりと止まる。
食卓にはセーラー服を着た黒沼 優が座っていた。
「おはよう水上さん」
優は微笑む。
「……どうして」
花は疑問を口にするのが精一杯だった。
京子が朝食を準備しながら「何しているの。早く座りなさい」と叱ってきた。
花は呆然としたまま、食卓に着く。
優は、京子に勧められたコーヒーを丁寧に断りながら、笑顔で談笑している。
それは、白いシーツにこぼした一滴の黒いインクのように、明らかに異質な存在であった。
家族以外の人間が朝食の席に存在しているというこの異常事態に、母の京子は何も感じていないらしい。自分以外、おかしいとは思わないのか、そんな疑問が花の中で湧き上がる。
「母さん、父さんと修二は?」
花の問いに京子は「何を言っているの? 二人とももう出たに決まっているでしょ」と事もなげに答えた。
確かに、弟の修二も父も花より一時間は早く出る。そのため、朝は母の京子と花の二人であることが常であった。
優がくすりと笑う。
「水上さんって朝弱いの?」
「そういうわけじゃないけれど……。修二は部活の朝練で、父さんは仕事で私よりも早く出るから」
優は「ああ」と頷いた。
「でも、だとしたら、いつものことなんじゃない?」
「え?」
「さっき、お母様にお父様と修二さんのこと聞いたじゃない」
優の言うとおりである。
先の質問は、この状態を異常と思う自分以外の人間の存在を求めたがゆえの、咄嗟のものだった。冷静であれば、父親も修二も既に居ないことに思い至ったであろう。
「ああ、うん。そうだね」
花のしどろもどろな返答に優はまた可笑しそうに、そして楽しそうに笑う。
「水上さんって、面白い人ね」
そこに京子がやってきて、朝食のシリアルを食卓に置きながら「この子、まだ寝ぼけているみたい」と言った。
花は自分の前に置かれた朝食を見る。
目玉焼きにソーセージ、シリアルとコーヒー。いつもの、なんの変わり映えのしない朝食。
しかし、今日は目の前には異質な存在が座っている。
「黒沼さん待たせてないで、さっさと食べちゃいなさい」
京子に後ろから小突かれる。
「ああ、いいんです。私が約束の時間よりもだいぶ早くきてしまったので」
当然、そんな約束をした覚えはない。
「ゆっくり食べてね」
優はにっこりと花に笑いかける。
花は食欲がなくなってしまった。
この女は得体が知れない――それが花の抱いた感情だ。
花に近づこうとする理由も目的も思い至らない。たった数秒、彼女と目を合わせただけなのに。この得体の知れない女は聖なんかよりもよっぽど恐ろしい、そう思った。
ひどく緊張しながら、シリアルだけを無理やり喉の奥に流し込んでから「ごちそうさま」と小さく呟いた。
食事をとるあいだ、優は微笑みながらじっと花を見つめていた。
「あんた、卵とウインナーは? いらないの?」
皿を片付けにやってきた京子がそう問いかける。
「いらない」
花は短く答え「着替えてくる」と言って席をたった。
一刻も早くこの異常な状況から抜け出したかった。
自室に戻り、着替えをする。
日常を侵食されていくような厭な感覚。まず、あの女の目的を確認するべきだ、そう思った。
気合を入れてから、自室を出る。
リビングからは京子の外向けの少し高い声が聞こえてきた。
「でも、迷惑じゃないかしら」
少し動揺しているような声。
嫌な予感がした。
足早にリビングに向かう。
扉を開けると京子と優が同時に振り返った。
二人の会話に一瞬の間が生まれる。しかし、優はすぐに京子に向き直って言葉を続けた。
「本当に、迷惑なんかじゃないです。私の母も父も今夜は寄り合いで遅くて私一人なんです……」
この女は何を言おうとしているのかと警戒する。
優は少し恥ずかしそうに、そして憂いを帯びた目をして言った。
「私、この町に引っ越してきたばかりで、少し心細くって。だから、その……」
そう言って小さな唇を噛む。
それは、庇護欲を掻き立てさせる完璧な仕草だった。
花はたまらず二人の会話に割って入る。
「何? 一体なんの話?」
その声には焦りと苛立ちが含まれている。
自分の預かり知らぬところで、何やら自分にとって都合の良くない会話がなされていることを敏感に感じっとっていた。
優に見惚れていた京子がひどく緩慢な動きで、花の方に振り返る。
「あー、あんた今日の夜、黒沼さんの家に行ってあげなさい」
花は絶句する。
こんな得体の知れない女の家に行くなど絶対に嫌だった。
「黒沼さんのご両親も寄り合いで遅いんだって。私も寄り合いだし、お父さん、今日も遅いから」
それがどうして彼女の家に行かなければならない理由になるのか、花は全く理解ができない。
頭が追いつかない花を置いてきぼりにして京子は捲し立てる。
「一人だと寂しいって言うし、あんたも今夜一人なんだからちょうどいいじゃない。母さんも安心だし。それに、あんた友達でしょ。行ってきてあげなさいな」
「……でも、修二は?」
「あの子は今日から部活の合宿でいないわよ」
確かに、今日の放課後から週末にかけて合宿があるようなことを修二と京子が話していたことを思い出す。
「明日は土曜日でお休みだし、ぜひ泊まっていって」
優がにっこりと笑って言う。
「ごめんなさいねえ。ご迷惑じゃなければうちの子預かってくれる?」
「もちろんです。それに迷惑なんかじゃないですよ」
花はこんな時でも、強く否定できない。そんな自身の性格に怒りすら覚えていた。
「じゃあ、あんたこれ持っていきなさい」
そう言って京子は財布から万札を取り出すと花に握らせた。
「黒沼さんのお家へのお土産と、二人のご飯代」
優は「そんな、お気遣いなく。私、何か作りますし」と京子を制する。
「良いのよ。お世話になるんだし。好きなもの食べて」
そう言われた優は深々と頭を下げて「ありがとうございます」と礼を言った。
優は花に向き直ると「じゃあ、水上さん。今夜はよろしくね」と笑う。
そして、優は京子が後ろを向いた隙にその口を花の耳に寄せ、小さく呟いた。
――今度こそ約束だね。
そう言って笑う優の瞳はやっぱり笑っていない。真っ黒なその瞳には狂気が宿っているように花には見えた。
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