第5話

 花は叫びながら飛び起きた。

 その叫び声に、丁度花を呼びに自室に来ていた母、京子は驚いた。

「一体どうしたの⁉」

 花の身体は油汗で湿っている。

 まだ夢の続きなのかと一瞬混乱するが、京子の顔を見て、少しだけ落ち着きを取り戻す。

 まだ、動機がしていた。

 心配そうに顔を覗き込む京子の目線から逃れるように身をよじり「大丈夫。怖い夢、見ただけ」と喘ぎながら答えた。

 京子はしばらく黙って娘を見ていたが、納得したのか「ごはん出来てるから」とだけ言って部屋から出て行った。

 京子が入ってくるときに電気をつけたため、部屋の中は明るかった。

 白い蛍光灯の光に目が眩む。

 目を細めながら、目覚まし時計を見ると午後七時を回ったところだった。

 一時間ほど眠っていた計算になる。

 しかし、本当に嫌な夢だったと、花は回顧する。

 そして、なぜか今日見た、あの子のことを思い出した。

 ――そう言えば、あの子も長い黒髪だったな。

 夢の中の少女は、あの子と似ても似つかない。美しく笑った彼女は、順風満帆を絵に描いたような少女だった。

 しかし、なぜだか花には、夢の中の少女とあの子が妙にリンクしていた。

 この奇妙な感覚は何なのだろうかと、思考を巡らせる。

 そして、あることを思いだす。

「そうだ。スカーフだ」

 今日見た車の中の少女は、制服、それもセーラー服を着ていたのだ。

 彼女の色白の顔と、赤いスカーフの取り合わせが脳裏に引っかかっていた。

 それで夢の中の少女と脳内で紐づいたのか、と一人納得した。

 のろのろとベッドからおり、リビングへと向かった。

 食卓には、三つ下の弟、修二が座っていた。

 その手には携帯ゲーム機が握られており、弟の目線は画面に釘付けになっている。

 修二は手を止めず、花の方を見もせずに「高校生にもなって恥ずかしいなあ」と呟いた。

 花には一体何のことか分からなかったが、それが自分に向けられた攻撃的な言葉であることは理解できた。

 少しは言い返してやりたいところだが、何を言われているのか分からないのでそれも出来ず、無視をすることにして、自分の席へと座った。

 修二は、無視されたことが期待外れだったようで、ゲームをスリープモードにしてから、「怖い夢見て、しょんべん漏らすなよ」と鼻で笑った。

 そこでようやく花は先ほど叫び声をあげたことに対する揶揄いであると理解する。

 ふつりと怒りの感情が沸く。しかし、やはり言い返すのはやめた。

 花は修二との口喧嘩に勝ったことがない。

 あまり自分の意見を述べるのが得意ではない花の気質は口喧嘩においても遺憾なく発揮される。

 対する修二は花とは異なり、少々生意気なほど口が立つ。口が立つだけでなく、頭の回転も速い。そんな二人の口喧嘩において、どちらが勝者となるかは火を見るよりも明らかである。

 戦略的撤退を選択した花だったが、修二は諦めなかった。

「え? まさか本当に漏らしたわけ?」と、さらなる攻撃を加える。

「うるさい」

 花は低く唸るように呟き、修二を睨みつける。

「おお! こわ! いや、か」と修二は自分の鼻をつまんでおどけてみせる。

 花の堪忍袋の緒が切れる寸前に、コップと麦茶のポットを持った京子がやってきて、修二の頭を小突いた。

「やめなさい」

 京子の静かな一喝により、修二は花を揶揄うのを諦めたようだった。

 それからは、テレビをつけ、それをつまらなそうに見ながら、黙々と夕飯の野菜炒めを食べていた。

 花はそんな修二の横顔をなんとなく見つめる。そして、なんて憎たらしい顔なのだろうかと思う。それと同時に、小さいころはあんなにも可愛かったのにと回顧する。

 修二はきっかけさえあれば、常に花を揶揄い、弄る。

 その理由が花には分からない。

 いや、嫌われていることは分かる。しかし、嫌われる理由の方が分からないのであった。

 花が高校に上がったあたりから、つまり、学校で孤立し始めたころから、修二との関係も壊れ始めた。

 きっかけは小さな違和感だった。

 会話を避けられている気がした。

 次第にその違和感は肥大していき、いつしか確信に変わった。

 そのころになると、修二は花を完全に無視するようになった。そして、嫌悪を込めた目で花を見るようになった。とはいえ、花や京子の目を盗んで睨みつけていたため、当の本人は気が付いてはいなかったが。

 ある日、花は京子にそんな修二の態度変化について相談したことがあった。

 京子は「そういう年頃なんでしょう」と言って、真面目に取り合ってはくれなかった。

 しかし、その曖昧模糊とした回答が、その時の花にはしっくりきたのだった。腑に落ちたわけではない。思い悩み、改善しようとする態度を放棄しろと言われた気がして、そうしようと思っただけだ。

 その時から、必要なとき以外は、修二に話しかけないようにした。

 しばらくは安定した冷戦状態が続いた。

 しかし、徐々に修二の態度が変化していった。

 花に攻撃的な態度を取るようになったのだ。

 暴力ではない。暴言の類である。

 これには花も困った。

 無視するにも疲れる。もちろん、頭にも来る。

 最初のうちは口喧嘩にも発展した。

 しかし、修二は花よりも弁が立つ。はじめは言い合いになるものの、終盤は一方的な展開となる。

 だから、最近は極力相手にしないことにしている。

 修二の憎たらしい横顔を眺めていると自然とため息が漏れた。

「なに? ため息なんかついて。学校でなんかあったわけ?」

 耳ざとく花のため息を聞き取った母が、テレビ画面から目を離し、花を見つめた。

 しまった、そう思った。

 さっきまで、テレビのバラエティ番組に出演している推しに夢中になっていたはずである。

 テレビに目をやると、見慣れたCMが流れている。

 もう一度、ため息をつきそうになった。

「いや、別に、何でもないけど」

「あんた、今日なんか変じゃない? 帰ってきたのも遅いし」

「え?」

 自閉モードに切り替わっていた脳に、母の言葉が捩じり入ってきた。

「遅かった、かな」

 京子は不思議そうな目をする。

「遅かったじゃない。だって、私が帰って来た時、まだ帰って来てなかったし」

「母さんが今日は早かったんじゃないの?」

「いつもどおりよ」

 早く帰れたらどれだけいいか、と母はぼやく。

 部屋でベッドに横たわったときに見た時計――明らかに自分が下校した時間とずれていた。

 あの時は、疲労感のせいもあってすぐ寝てしまったし、深く考えなかった。

 時計がずれている可能性もあったが、母の証言でその可能性はつぶれた。

 だとすると、自分の認識している時間と二時間近く誤差がある。

 ――あの橋であの子と会ったとき、まだ日は高かった。

 それから、家までの記憶をゆっくり辿ってみる。

 しかし――

「思い、だせない」

「はあ?」

 母は、再びテレビの中のアイドルに夢中になっていたが、花の呟きを不審に思ったのか、振り返った。

 それにつられて修二も花の方を振り返る。

二人の視線に射竦められた花はしどろもどろになりながら「なんでもない」と首を振った。

 修二は軽蔑と嫌悪の色が浮かんでいく。

花は耐えられなくなって、小さく「ごちそうさま」と言うと、京子が何か口を開く前に席を立った。

 逃げるようにリビングを出て行く我が子の後ろ姿を見ながら京子は「まあ、そんな年ごろか」と、悟ったように呟いた。

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