第10話

 また、夢を見た。

 その夜、花は校舎の屋上、その縁に立っていた。

 夜風が校舎の壁を伝って、這い登る。

 縁から少しだけ出した足先が冷たかった。

 風に吹かれて制服のスカートが膨らんでは萎むを繰り返す。まるで、心臓の鼓動のようだと思った。

 花は少し可笑しくなって、笑う。


 ――もう死ぬと言うのに、このスカートはまだ生にしがみついているみたい。


 もう一センチだけ、前に進んでみた。

 屋上の縁を土踏まずに感じる。

 あと少しだけ前屈みになれば、終わらせられるだろう。

 足の先で驚くほど軽い死の感触を感じながら、ゆっくりと慎重に後ろを振り返ってみる。

 誰もいない。

 ここには、自分を傷つける存在は何もない。

 ただ、一人だった。

 目を瞑ってみる。

 十秒ほどすると、わずかに並行感覚を失い胸の辺りに生じた浮遊感が全身に広がっていく。足先まで到達した時、はっきりと落ちると分かった。

 その瞬間、体が反応した。

 もうほとんど心は死んでいた。だからこれは反射なのだろう。

 心臓が大きく脈打つ。そしてとっさに後ろ手を伸ばしす。すると指先に屋上の金網の冷たい感触があった。

 さっきまで死んでいた心がひどく緩慢な動きで鎌首をもたげる。


 ――今ここでこの金網をつかむことにどれほどの意味があるのだろうか。


 考えたことは――どうせこの先も一人だということ。

 思ったことは――私の人生は下らなかったなという感想。

 感じたことは――ほんの少しの寂しさ。


 指先から力を抜く。

 体はゆっくりと前へと倒れていった。

 体は空中で反転し、頭から落下していく。

 風音がやけに大きい。

 瞑っていた目を開ける。

 目の前に自分の教室が見えた。

 いい思い出など一つもない教室。

 真っ暗な教室に普段の騒がしい教室が重なって見えた。

 一番後ろの席で俯き、体を小さくしている女がいた。

 なんと見窄らしいのだろう、そう思った。

 あの見窄らしささえ無かったら、この楽しそうな人間たちの一部になれたのだろうか。

 窓ガラスに自分の顔が映る。

 落ち窪んだ目、大きな鼻、鼻の頭にある面皰にきび、割れた唇、ぼさぼさの髪の毛。


 ――ああ、やっぱり見窄らしい。


 窓ガラスには、花の知らない見窄らしい女が一人だけ写っている。

 その瞬間、身を裂くような強烈な寂しさが襲ってきた。


 ――私は、一人だ。ひとり。誰もいない、こんな寂しい校舎でただひとり死んでゆく。

 

 涙が溢れた。


 ――嫌だ。寂しい。


 地面が近づく。

 もう、あと数秒の命と知る。


 ――嫌だ。死にたくない。このまま寂しいまま死ぬのは嫌だ。


 考えたことは――なぜこんなにも寂しい人生だったのかということ。

 思ったことは――誰も優しくしてくれなかったということ。

 感じたことは――いやだ、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい、さみしい。


 ――ひとりはさみしい。

 ――みんなやさしくなればいいのに。


 夜の校舎に、水風船を叩きつけたような、安っぽい破裂音が響いた。

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