実瑠③(実瑠編終わり)
里香の優秀さを目の当たりにしたのは、丸井商事の総合職に内定をもらった、と里香から連絡が来た時だった。
実瑠は小さな銀行の事務職で働き始めた頃のことだ。
社会人になっても里香と実瑠は年に一度は旅行に行っていた。里香はよく会社の愚痴を言っていたが、実瑠は里香を慰めつつ、てきとうに相槌を打っていた。
惇史ら塾講師時代のメンバーでの飲み会も、月に1度は行われていた。いつからだろう、里香がその集まりに来なくなったのは。なんで私は里香が集まりを避けていることに気が付かなかったんだろう。
あの日、「俺反省してるから里香に謝っておいて」という飲み会での惇史の言葉を放置し、てきとうに流してしまった。戻れるならこの時に戻りたい。私は、あの日どうしていたらこの事態を防げたのだろうか。
いいや、何をしたところで防げなかった。なぜなら惇史をきちんと糾弾する勇気を持っていなかったからだ。だから、里香も悪かったんじゃない?なんて、心の奥底で少しばかり思ってしまったんだ。結局何も手放すことができず、私は大切なものをまたも失った。
そう、まりこの時と同じだ。いじめられてつらいとよく電話で話していた、まりこ。しかし、あの日、なぜ私は電話を取らなかったんだろう。いつもなら宿題をする手を止めてでも取っていた電話を、なぜあの日に限って、面倒だなって思ってしまったんだろう。
それからずっと得体の知れない重い石のような何かが、心の奥底に眠っている。そいつは実瑠を裁くこともなく、永遠に罰を与え続けるだけの怪物。大学受験の時も、社会人になった今も、変わらず、そいつはそこにいる。
普段はその怪物が出てきそうなものなら、ネオンの力で弱らせ、心の奥底にある酒瓶が並ぶ戸棚の中に閉じ込める。そして、自分に不相応な高級な酒で鍵をかけ、お金の力で、全てを忘れさせるのだ。
しかし、戸棚の扉は些細なきっかけで何度も開く。毎日、毎週、毎年、実瑠はその繰り返しで生きている。
里香からはメールも、SNSも、全ての連絡手段をブロックされている。寂しいよ、里香。なんで私までブロックするの。里香、あの時一緒に過ごしたあの時間も嘘だったって言うの?
実瑠は里香から届いた一通のチャットメールと、それに対する自分の返信をホストクラブのVIP席で眺めていた。
『惇史から性的被害に遭い、被害届を提出しました。捜査担当の刑事が、私と加害者の当時の関係性を、実瑠に伺いたいと言っています。電話番号を教えてください。』
『里香がすごく辛い思いをしているのはわかります。でも、当時の記憶は薄れており、私の不確かな記憶で惇史の将来や、2人の関係性を壊すようなことはできません。なので、電話番号を教えることだけは、どうしてもできません。証言以外で助けになれることがあれば教えてね』
チャットの続きには、里香が送信を取り消した跡が残されていた。里香は最後私に何かを言おうとして、やめていた。
送信取り消し、という重たい文面は、実瑠にため息をつくことさえ憚らせた。
「裁判になるかもしれないって、その男友達が頭を抱えていた」と実瑠は高良に言った。
「裁判か。そういえば俺も最近バイト先の奴が、訴えられて、金払わされてたな。あ、ホストじゃなくて居酒屋の方ね。その女、SNSに悪口書いて侮辱で訴えられたんだって。呟きのスクショ撮られてたって憤慨してたけど、自業自得だよな」
実瑠はウイスキーショットグラスをガンッと鳴らして煌びやかなテーブルの上に置いた。
「もう私の話をへし折らないでよ!」
大音量の中、高良とリシャール・ヘネシーを飲んだ。しかし今日ばかりは、あの特徴的な香ばしさが、一瞬鼻を掠めるだけで、さっと消えてしまう。
「今日、アフター行けないの?」と実瑠は言った。
「リシャールって高いんだぞ」と高良は返した。
ネオンの広がる歌舞伎町。実瑠と高良は、贖罪の旅に出かけるかのように、その一角にあるラブホテルの中へと吸い込まれていった。
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