涼香③(終わり)

「あの津波でもう1人亡くなられた日本人がいました。その方は、とあるお店を経営されていました。とても煌びやかなお店です」


 佳子さんは少しだけ見下すような顔をしたのち、思いとどまったように棚の中のリシャール・ヘネシーを見つめ直した。


「その方の息子さんが、この間、リシャール・ヘネシーを持って、まりこのお参りにきてくださいました。とても顔立ちの整った青年でした。当時、お店の社員旅行で、父親に連れられてあの島を訪れていたそうです。流されるまりこを見て、その方の父親が助けに行き、2人とも帰らぬ人となりました。その青年は、今でもまりこに恋をしています」


 恋という言葉に、涼香は再び里香のことで頭がいっぱいになった。


 もしかして里香は、私の彼氏のことを本当は好きだったのか?と涼香は思い当たった。それなら納得がいく。うがった見方をしていたが、里香は本当はわかりやすい人なんだ、と涼香は妙に納得さえした。


「その青年はね、津波が来る直前、ビーチで眠る、まりこに声をかけて起こしたと言っておりました。執拗にまりこを誘う青年に、『いつか大人になったらお店に行くね』とまりこは返事をしたそうです。まりこは大人びていましたから、まさか中学生だとは思いもしなかったのでしょう。津波が来た時、その青年は、まりこの手をとり共に逃げたと仰っていました。これは推測ですが、実際はまりこを見捨てて、1人で逃げたのでしょうね。その方は、今でも心を病んでおります。既に存在しないはずの、まりこが、確かに見えている。私にはわかります。私の旦那は精神科医ですから。私も夫に倣って、少し勉強したのですよ」


 佳子さんは、涙ひとつ見せずに、ため息をついた。


「我が家には借金がある。まりこ、はそんな嘘を言いふらされ、いじめられていました。一度この家に来ていただいたらわかるでしょう。うちがそれほどお金に困っていないって」


 涼香は愛想笑いを終始浮かべていた。立派なソファ、高級そうな飾り棚。棚の中にある名前のわからないお酒。上流貴族のお金持ち。そんなこと、家にこなくたって雰囲気でわかる。借金があるって噂されても無視すればいいのに、なんでできないんだろう。


「リシャール・ヘネシーをひとつ持っていてくださらない?里香さん、お酒好きでしょう。一緒に飲んだらいかが?」と佳子さんは言った。


 涼香は驚いた。里香は、お酒が苦手、と出会ってすぐに言っていた。先ほど納得した推測も消え、突然涼香は里香の本心が理解できなくなった。


「私お酒弱いんです」と涼香は断った。


 世の中のお金持ちには2種類いると思う。一つはお金待ちであることを自覚して自慢するタイプ。もう一つはお金待ちであることに気づいておらず、それが当たり前だと思って悪気がないタイプ。後者の方がずっと迷惑だ。佳子さんは前者で、里香は後者だ。


 佳子さんの地雷を踏まないうちに帰ろう、と涼香は思った。


「これに懲りずにまたきてくださいね」


 懲りずに、という言葉に涼香は緊張感を覚えた。何か、私は、もう懲り懲りといった表情をしただろうか。


「ええ、またきます」


 嘘。もうこない。


 涼香は広尾の大きな邸宅を出た。


 里香は昨日コンプライアンス室から届いた社内メールをもう一度見返した。『人事に採用面接内容をバラされた。嫉妬した涼香からハラスメントを受けたと里香が主張しているため調査を行う』という趣旨の内容だった。


 該当の人事はすでに事実を認めており、地方に飛ばされている。風の噂では、昔不倫がバレて失脚した名ばかり特任部長と、意義の見えない仕事をしているらしい。


 邸宅を訪れ、一つ分かったことがある。あの子は誰にも心を開いていないのだ。嘘は一つもついていないけど、また同じように真実も言っていない。だから、重たい相談を持ちかけて、受け入れてくれる人を探し続けているのだろう。


 こんなふうに分かった気になって推測されることさえ、あの子は嫌がるんだろうな。


 坂道の向こうに夕焼けが見えた。ウイスキーのような色をした夕日は今にも沈みそうだ。太陽は最後の気力を振り絞るように空を焼き、辺り一体を美しく照らしていた。


(終わり)

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リシャール・ヘネシー 夏目海 @alicenatsuho

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