涼香②

「あのバカンスは、初めはとても楽しいものでした。綺麗なビーチに、新鮮な海産物のお料理。滞在していたホテルのバーのお酒はそれは美味しい。私の飲むリシャール・ヘネシーを見て、まりこがそれを飲みたいと言ったのです。成人したらね、と私は答えました」と佳子さん。


「リシャール?」


 佳子さんは少し驚いた顔をしたのち、ウイスキーです、と答えた。


「2日目の夜、まりこは珍しく夜中に部屋で泣いて起きてきました。まりこは学校でいじめにあっていたのです。その子から、いじわるなメールが届いたようでした。内容は、口にするのも憚られるものです。証拠もお見せできますよ」


 本当か?という涼香の内心を悟られたようで、ドキリとした。


「まりこはその日、なかなか寝付けなかったそうです。次の日は、ホテルのプライベートビーチに行く予定でした。まりこは、浜辺のパラソルに寝転がると、そのまま眠り込んでしまいました。弟から連絡が入り、私は空港まで迎えに出かけるため服を着替えに行きました。まりこの母親も、ホテルのコンシェルジュのところへ行き、弟のためのタクシーを手配しておりました。ちょうどその時、津波は来たのです」


 涼香は、チーズケーキを食べる手を止めた。佳子さんは、その様子を目ざとく確認した。


「不運の積み重ねで、悲劇が起きたことは否めません。しかし当時、私も、そしてまりこの母親も、いじめていたその子のせいで、まりこが死んだ。そう思ってしまったのです」


 佳子さんはゆっくりと立ち上がると、酒や壺やグラスが並ぶ棚に手をかけて、中にある何かを見つめた。


「まりこはお嫁に行く時、リシャール・ヘネシーを持っていくのだと生前いつも話しておりました。私が美味しそうに飲む姿を見て、まりこは、リシャール・ヘネシーが大好きになったようでした。このリシャール・ヘネシーは、まりこが成人を迎えていたはずの誕生日に、小学校の頃のお友達が、持ってきてくれたものです」佳子さんは、棚の中の竜型のグラスに入ったリシャール・ヘネシーをじっと見つめて何かを考えているようだった。


 私がいつもニコニコしているからだろうか。それとも、いつも謙って相手を立てているからだろうか。なぜかわらかないが、私に出会った人は皆、出会って早々に重たい話を私に振ってくる。


 正直、どう反応すればいいかもわからない。私はその、まりこ、という人を全く知らない。それなのに内容が重く苦しく、私の心の奥底に扱い切れぬほどの重い石を置いていく。こう言う時、決まって私は対応を間違え、相手は私から離れていく。


 私にも悪いところあったな、と気づく時はある。反省もする。でも謝ることはけしてない。負けを認めたら殴られるからだ。私の父は自分より力の劣る人間を殴る。そんな人だった。旅行に行くこともなければ、死んだところで気にしてくれる人もいない、そんな冷ややかな家庭だった。


「お父さんに一度私言ったんだよ。結婚しろとか言わないでって」と里香が言った時、「お父さんに言い返せるとか羨ましいですよ」と涼香は返した。


 きっと、その日からだろう。里香が私を明らかに避けるようになったのは。いや違うかもしれない。「男性と昔トラブルにあって結婚できない」と言う里香に対し「お金持ちを襲いたい男性は一定数いますよ」と言ったあの日かも。


 いいや、もっと後かもしれないし、もっと前だったかもしれない。涼香にはそんなことわからない。一つ言えることは、私には理解し得ないことで、里香は傷つき、私から離れて行ったのだ。


 正直、佳子さんや里香みたいな、他人と境界線を引けない人は、向こうから勝手に離れて行ってくれるから、いつもせいせいする。ただ、相手が会社の人間っていうのがとても面倒だ。対応の過ちは命取りになる。


 今は佳子さんの話に集中し、正しい返答をするべき時間。そうだというのに、まるで呪いでもかけられたかのように、涼香は里香のことで頭がいっぱいになった。


「あの時の、ホテル側の対応の遅れが、まりこの命取りとなりました。ホテル側との訴訟は、まだ続いております。弟はもはやその訴訟が、生き甲斐となっているようで、見ているこちらも辛いのです」

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