楓①

「酒が嫌い」


 父親の口癖だった。だから、単身赴任の父親が住む一人暮らしのマンションにウイスキー用のグラスが2個あるのを見つけた時、これは不倫しているな、とピンときた。


 父親の部屋の掃除を進めると、戸棚の中に隠そうともせずウイスキーがあるのを見つけた。


LICHARD HENNESSY


 リチャードヘンネッシー?


 何と読むかはわからないが、ウイスキーの入るガラス瓶を見る限り、高級なものであることはなんとなく理解した。


 男はどうして秘密を隠すのが下手で、女はどうして勘が鋭いんだろう。


 掃除をする手を止めて、楓はため息をついた。しばらくすると、買い出しをしている母親が帰ってくる。母親に父の不倫がバレないよう、ウイスキーグラスを戸棚の中へとしまった。


 父は確かに仕事ができる人だった。父はたまに我が家に帰ってくると、よく自慢げに仕事の話をした。俺がお前を採用してやるから丸井商事で働け、とよく楓に言った。父は人事部長だった。

 

 ある日、母は泣いていた。


ーお父さんが不倫しているの


 それからしばらくしたのち、看護師の母は、夜勤開けに自宅で自殺未遂をした。第一発見者は楓だった。一命を取り留めたものの、楓の心には大きな傷となって残った。父と母が何を話し合って、別れない選択をしたのかはわからない。ただ、話し合いの中で、私の名前が出たことは知っている。私は、父と母が夫婦であり続けるための潤滑油みたいな存在なのだと、中学くらいで自覚した。楓は家庭でのストレスを発散するように、学校でいじめを繰り返した。


 母はそれから順調に回復を始めた。「死にたい」と言い続けていた母の口癖は、いつしか「楓は看護師になれ」に変わっていた。そんな私は、今、商学部に通っている。なんでだろう。自分でもわからない。進学先を悩みに悩んだすえ、自分でもよくわからなくなり、気が付いたら、商学部に内部進学していた。


 そんな父の2度目の不倫。いや、2度目なんかじゃなくて、1度目のあともずっと続いていたのかもしれない。まぁ、どっちでもいい。今目の前にあるのは、父が不倫しているという事実。楓の役目は母からその事実を隠すことだった。


 内部進学先の大学で、楓が中学の頃いじめをしていたという噂は、入学式後あっという間に流れた。まだ桜が散ってもない頃のことだ。外部受験すればよかったかな、と楓は思った。自分にはその実力が十分にあることを自覚していた。


 里香はよその高校から、うちの大学にきた子だった。最初に受けた授業で隣の席になり、楓の方から話しかけた。笑顔に溢れ、話しやすい里香とは、気がつくと、楓の家でお泊まりをするほど仲良くなっていた。


 里香はよくお酒を飲む子で、楓にもしきりに勧めてきた。里香はお酒が入るといつも以上に饒舌になる。まるでお酒が里香にとっての潤滑油のように見えてくる。


「私、高校の頃成績がトップだったから、内部進学なんてしないで受験しろって周りから圧力かけられてたんだよね。私がいなくなれば、内部進学の枠一つ増えるでしょ?」と楓は言った。


「確かにね」と里香は言った。確かにね、という言葉にどんな意味が含まれているのか、楓は考えたくもなかった。


「これ、周りには言ってなかったんだけど、楓とは仲良いから言うね。私の学校はさ、この大学来る人少ないから、ちょっとプライドが傷ついたんだよね。高校の同級生で、明らかに私のことバカにしてくる人とかいるし」と里香は言った。


 楓はなんだかもやもやした。ただ、このもやもやがどこからくるのか、自分では理解しきれなかった。なんにせよ里香は学科の人気者。そんな人気者が仲良くしてくれるだけありがたいことだ。楓は胸の内を奥底にしまい込んだ。


 父親の不倫、母親の自殺未遂、そして私のいじめ。大学で噂になっている事実を、里香がそのことを知っているのかわからなくて怖くなり、一度お泊まりで話題にしたことがある。


 話して受け入れてもらって楽になりたい。今思えば私はたぶんそんな気持ちだった気がする。


「そのあと私はいじめ返されたの」と楓は里香に言った。「だからね、これまで私がしてきたことの報いだって思ったの。でもいじめないといけないくらい、家庭がすごくストレスだったの……」


「私、別に気にしないよ」


 気にしないよ、気にしないよ、気にしないよ


 心の奥で3回言ってみた。気にしない、その言葉が出てくるというのは、気にしているからなんじゃないのかな。私の求めていた言葉と違う。


 里香は酔いが回ってそのまま寝てしまった。ほんの出来心で、里香の寝顔を写真に撮った。


 そして、里香が好きだと言っていた、暁斗にその写真を送りつけた。


 里香はその事実に気づいたみたいだったが、特に怒ることはなかった。レポート見せてよ、当時里香から言われたことはそれだけだった。


 父親の部屋の冷蔵庫を開けてみた。チーズに生ハム。一人暮らしの男性が食べる代物には思えない。処分しなきゃ。


 そんな時、暁斗からチャットメールが届いた。最近流行り出した、チャット。メールと違い、返信を早くしろ、と促されている気がする。


 楓はチャットが苦手だった。特に、既読機能というのが嫌いだ。返信を忘れないように既読をつけないと、未読無視されてると思われる。かと言って後で返信しようと既読をつけたまま放置すると既読無視と責める。連絡手段に過ぎない代物で、なぜか価値観の違いによる争いが起きる。


 既読機能は災害時に無事を確認するため。


 そう説明されると、楓は何も言い返せなくなる。


『今度の授業、バイトで休むから出席カード出しといてくんない?』


『里香に頼めば?』


『あいつ、返信来ないんだよ』


『ブロックされてんじゃない?』


 いつしか里香、暁斗と3人で飲みに行ったことがある。冗談をいう里香に突っ込む楓。そうすることで、暁斗の里香へのイライラを沈める。そう、私は潤滑油。


 飲み会で、里香は「もう秋からは暁斗の面倒見ないからね」と笑顔で言った。里香は暁斗の出席を取ってあげたり、レポートを見せてあげたりしていた。暁斗に必要とされてるのが嬉しいんだろう。えー、と文句をいう暁斗に対して、楓は「他の人に頼めばいいんだよ」と言った。その答えに里香は焦りに近い、戸惑いの表情を浮かべていた。


 里香は思っていることが表情に出やすい。それに周りや私がどれだけ突っ込んでも、ニコニコしていて怒らない。


 だから人気者だし、だから利用される。


 なんで私、里香のことばかり考えているんだろう。そう思いながら、母親が帰ってくる前にと、急いでチーズと生ハムを食べた。

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