アンマリアと妖精

レライエ

第0話プロローグ、女王の懸念

「ふんふふん、ふんふんふーん」


 その夜、【庭の小石】の妖精ノアは鼻歌を口ずさむくらいの上機嫌で道を歩いていた。全く珍しいくらいの上機嫌振りだった、石生まれの妖精は一年のほとんどをしかめ面で過ごすものだが、その晩のノアはまるで花生まれのようにふわふわと浮かれていた。

 彼のご機嫌にはいくつかの条件が重なっていた。

 その内の多くは取るに足らないような、普段であれば無視してしまうような些細な幸運に過ぎなかったが、一滴の蜂蜜酒も集めれば竜を酔わせるものだ。連続する『ちょっといい事』は堅物の石妖精を徐々に調子に乗らせていった――あたかも、水滴が岩を穿つように。


 極め付きは、大事に大事に懐にしまった、一枚の羊皮紙だった。


 皮をなめして作った、今どき滅多に使わない前時代的な紙。

 古いものには価値と力が宿るものだが、そこに書かれた文章は蜂蜜酒の樽より速やかに深くノアを酔わせた。


「…………ひひっ」


 浮ついた気持ちで歩く今でも、ノアは懐の羊皮紙に書かれた文章を、使われたインクの独特の香りも含めて思い出すことができた。それほど長い文章でもなかったから当然ではあるが、例えそれが十六行の散文詩であったとしても諳んじられるくらいには、ノアは何度も何度も、繰り返し繰り返し読んでいた。


「いいぜいいぜ、いい感じに運が回ってきた…………!」


 それまでの、何度となく『不幸な』と形容してきた生涯を思い起こして、ノアは独り言ちた。

 大したものも得られず、生み出せず、住処を維持する程度の金しか稼げない彼にとって、その羊皮紙に書かれたことはそれこそ奇跡的な文章だった。思わず有頂天になるくらい、甘美な、一発逆転の機会だった。


 ノアは石の妖精の中でも中途半端な生まれだった。鉱山に生まれた連中は頑丈な銅やら魔除けの銀やら掘り出してるし、ガラスよりピカピカな宝石を削り出すやつもいる。街に生まれた連中は精緻な石像を彫ったり、家を建てたりしている。だが庭に生まれた自分は? 道に敷石を一日一つ、はめ込む程度がせいぜいだ。

 そもそも華のあるわけでもない石妖精の中でも更に、庭生まれの彼は地味だった――勿論それでも堅実に着実に、生きている妖精もいることくらいノアだって解っている。それでも、たまには宝石生みみたいな花形の仕事をしてみたいという思いは、日に日に彼の中で膨れ上がりくすぶっていたのだ。


 そこにきての、この逆転の機会。

 自分を卑下する機会に恵まれた者なら誰でも、その言葉に酔うだろう。


「夜だってのが、気に入らないけどさ、ひひひ、まあ怖い怖い女王様がお休みの時にしか、こんなことは出来ないよなぁ」


 ひひひ、とひそやかにノアは笑う。

 周りと影とを気にしながら、足音をひそめて歩く。羊皮紙に書かれた場所へ、誰にも知られずに向かうために。


 誘惑に酔った彼は、ついに気付かなかった――その背後から忍び寄る、手に鎌を持つ人物の姿に。









 整理整頓という言葉から最も縁遠い何者かが、幾つかの矛盾を孕んだ世界を繋がりや重なりを一切気にせず置いていった結果、どういうわけだか奇跡的に矛盾が矛盾のまま成立してしまったような。

 或いは過去と未来を見通す眼を持った完璧主義者が、あらゆる構成要素とその相性を徹底的に考慮しながら置いていった結果、当然そうあるべき、だが本人以外誰にも理解できない形で成立してしまったような。

 不可能を土台に理不尽な柱を立てて、その上にそっと法則で蓋をした、不思議に満ち溢れた世界。そんな言葉で表現されるのがここ、妖精界【白き背びれ島】である。


 ほんの三百年前に訪れた魔術師が評した感想を、【竜の骨】のセラセラ・キールは、女王陛下がお茶会を催す度に思い出す。

 同じように世界を創ろうとしていたあの魔術師は、人間の世界から色々な物を持ち込んだが、中でもこの『お茶』及びお茶会という習慣は完全に女王のお眼鏡にかなったようで、毎日のように数人の妖精を巻き込んで行われるようになった――今日のように。


「本日の茶葉はエミリーが選びました」

 煮出した紅茶を女王のカップに注ぎながら、上級メイドの妖精が言う。「北側の城壁近くで獣人が育てているものが、良い具合だったそうです」

「なるほど、良い香りだと思いました」

 女王は微笑んだ。「熊人ベアーの畑でしたね、あとで御礼の手紙を出しましょう」

「では、用意をしておきます」

「お願いしますね」


 セラのカップにも注ぎ終えると、妖精は一礼し退出する。その魔力が充分遠ざかったのを確認してから、セラは静かに口を開いた。


「それで、陛下。本日はどのような…………?」

「あら。ただ貴女とお茶を飲みたかっただけだとは思わないのかしら? わたくしは貴女とこうして他愛のない話をする時間が、とても好きなのよ」


 美味しいお茶があれば尚更ね、と女王は笑った。

 最初の妖精女王である彼女だが、そうしていると生まれたての若い妖精と見分けがつかない――あふれ出る魔力の圧と、背中で瞬く翅が四対無ければの話だが。

 詰まり誰もが彼女を尊敬し、尊重し、そして恐れている。恐れているからこそ知っている、女王が誰かと一対一でお茶会を開く時は何か、重要ながあるときだけだと。


 セラは改めて、周囲に誰も居ないことを確かめた。

 城の中庭上空に浮かぶ空庭には屋根も壁も無いが、『ひそひそ』と『キラキラ』の魔法がかけられていて、声が外に漏れることも覗き見されることもない。だから、一面に植えられた白百合の花以外には誰も、ここでの話を聞くことは無い。


「あぁそうそう、他愛のない話といえばなのだけれど…………」


 やっぱりと、セラは女王の顔を見た瞬間に思った。

 セラの警戒心が満足したタイミングを見計らったように口を開いた女王の顔には、勿論笑顔が浮かんでいた。

 あどけなさを感じる、無邪気な笑顔。その言動で周囲を好き勝手に振り回しても絶対に許されると確信している、無垢な笑顔。


 まさに、妖精の鑑のような笑顔だった。


「少し気になることがあるの」

「少し、ですか?」

「そう、少し。まるでこの純白の庭に一輪だけ、真っ赤な花が咲いてるみたいに少しだけ、気になってしまうの。貴女だったら気にならない? 気になるでしょう? そんな花が咲いていたら」

「…………」

「私は気になるわ。少しだけだけれど、信頼できるお友達に話を聞いてもらいたいくらいには気になるの。?」

「…………かしこまりました、陛下」


 そう答える以外に、セラには道は無かった。これから先間違いなく無理難題を言われるのだろうと知っていながら、それでも、聞かないわけにはいかないのだ。


「実はね、セラ…………」









「はあ…………」


 陛下の警護を部下の妖精に引き継いだ後、自室へと向かうセラの口からは自然と、短いため息がこぼれていた。

 いつもならばその美しさと、素材から放たれている清らかな魔力に癒される、磨き上げられた純白の廊下がひどく長く単調に思える。羽ばたきにも力がこもらず、窓の外の青空も心なしか暗いような――いや、これは勿論錯覚なのだが。


「おっと、随分と覇気のない様子だなキール殿」


 声を掛けてきたのは、同じく女王陛下に仕える妖精グリム・【濡れた石】ウェットストーンだった。


濡れた石ウェットストーン…………」

「おっと、サー・グリムと呼んでくれ、キール殿」

「サー?」


 自他ともに認める女王陛下の右腕である旧き石妖精は、いかにも堅物といった造形の顔に屈託のない笑みを浮かべている。良く見れば、石妖精たちの中でも特別と評される大柄な肉体は、見慣れないデザインの衣服に包まれている。


「この前【白き背びれ島】に着いた獣人の娘がいただろう? 彼女に聞いたのだが、『あちら』では、女王の騎士の中でも特別優秀で陛下の覚えが良い者は、その敬称で呼ばれるのだそうだ。ならば私がそう呼ばれるのは当然だろう?」

「なるほど」

 これほど長く存在しているというのに妖精らしい好奇心を損なわない彼に、セラは本気で感心していた。「ということはその衣装は、新たな騎士の鎧というわけね?」


 ウェットストーンは上機嫌でその、黒い上着の広い襟を引っ張り、しわを伸ばしながらくるりと回って見せた。


「スモーキング、というらしい」

煙霧スモーキング? 煙の魔法でもかかっているの?」

「製造の過程に何かあるのかもしれん、それか、以前の燕尾服テイリングと韻を踏んだのかも。貴族というヒト社会で地位の高い連中は大体が魔術師なのだろう? 魔術師は確か、呪文で韻を踏むじゃあないか」

「なるほど。ヒトは杖とか宝石で魔術を補佐しないといけないのだものね、服にそういう効果があれば、便利なのかもしれないわ」

「そういうことだ、何しろ騎士の衣服だからな。常に戦いに備えているのだろう、野蛮だが、心構えは感心できる」

 詰まりだ、とウェットストーンは半透明の六枚羽を瞬かせた。「そういう心構えでいるべきだということさ――陛下の騎士としてはな」

「わかってるわ、わかってるのだけど…………どうにもね」

「ふむ、察するにまた、陛下の無理難題に付き合わされているようだな」


 セラは曖昧にほほ笑んだ。

 石妖精は総じて口が堅いし、中でもこのウェットストーンの口は一度閉じれば岩牡蠣の妖精より堅い。


「そういうことだわ、何しろ陛下ですもの」

「あの方は最も優れた女王だ。だがだからこそ、我々には思いもよらない深淵を見ておられる――しかもその視座を、共有しようとなさらない」

 ウェットストーンは芝居がかった仕草で肩をすくめた。「理解を求めていないのだ。我々のように、最初から共に在った者たちにさえな。我々はただ信じ、従うしかない」


 信じる。

 勿論そのつもりだ――ウェットストーンが陛下の右腕ならば、セラは自分を左腕だと考えている。果たす役割は別だが、重要度は互いに同じ。その忠誠心もまた、両者とも差があるものではない。

 陛下は考えておられる、そして、城と城下町の全てを見ておられる。その上で懸念をされるのならば、それは正しい懸念だ。その筈だ、だが…………。


「…………ねえ、サー・グリム」

 逡巡の後、セラは口を開いた。「ってどう思う?」

 ウェットストーンはあっさりと答えた。

 セラも同じくらいあっさりと頷く。

「そういう話か? ふむ、陛下が気になさるとは…………何十年消えてるんだ?」

「二か月ですって」

「おいおい、冗談だろう? それともまさか、聞き違いでもしたのか? 妖精が、たった二か月姿を見せないだけ?」


 セラの口から何度目かのため息がこぼれた。

 まさにその通り、二か月だ。気まぐれの権化ともいえる妖精が、たかだか二か月いなくなっただけで気にするなんて、あまりにも――過保護だ。


「陛下はそれが、庭に咲いた一輪の赤バラだとお考えなの。悪目立ちして、気に障っておられるの」

「それはそれは、厄介な話だ。無断で島を一周するのを『ちょっとした散歩』と言うような連中を探し回るとは。はっ、しばらくは君の、城での雑事を引き受ける覚悟が必要なようだな」

「そうね。でも、まだ悪いタイミングじゃあないかも」


 セラはウェットストーンの新しい服装を見ながら呟いた。その脳裏には一人の、獣人の少女の顔が浮かんでいる。


「また、彼女の力を借りる時が来たようね」


 その少女の名前はアンマリア。

 一年ほど前にこの島にやって来て直ぐ、暴走する魔術師の引き起こした面倒な事件を解決した獣人である。

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