第14話変化、撃破、そして。
始祖の呪いの魔力を受けて、泥翅の身体はあまりにも劇的に変容していた。
枯れ枝のようだった腕も、腐り果てていた翅も、薄っぺらく存在感も希薄だった肉体も、その全てが呪いの魔力にすっかり覆われていた。
子供の頃、ポー氏に連れられて行ったサーカス。おんぼろの布テントの奥、か細いランプの明かりの下で見た出し物、【
泥翅の姿はそれと同じだった。闇を何枚も重ね着した泥翅は、かつての儚く弱弱しい不気味さを完全に失い、ただただ強化された存在感を見せつけていた。
その背後で、黒い柱が沸き起こった。
「っ、レギン様、呪いが!」
膨れ上がった泥翅が口を離したことで、箱からは影が滝のように溢れ出した。
本来はこれほどの呪いが溢れるはずだったと思うと、泥翅は果たしてどれほどの闇を呑み込んだのだろうか。
勢い良く噴き出した呪いは天井に届く前に浄化されていくものの、神殿の魔力が急速に消費されていくのを、アンマリアは感じ取っていた。
『くそ、このままじゃあまずいぞ!』
レギンもまた、魔術師としての目で魔力の減少を感じ取っていた。『流石は怪物、存在するだけで生命への攻撃だな!』
「泥翅も動きそうです、そちらも抑えないと…………」
『解っている、だが、先ずは呪いだ! あのまま天井に達したら、【白金の城】そのものが汚染されてしまう!』
レギンは杖を振るい、魔力を集めると呪いの漏れ出す穴へと打ち込んだ。
流動する魔力を一塊に固めることで穴を塞ごうとしたのだろうけれど、しかし、穴の傍には泥翅が居た。強化された泥翅は腕を振るい、魔力の球を弾き飛ばしてしまう。続けて二発、三発と続けた魔力球も同様の結果に終わった。
「オォォォォォッ…………」
忌々しげに舌打ちしたレギンと同じくらい、泥翅もそのやり取りは不快だったらしい。低く唸り声を上げながら、怪物は虚無の瞳を魔術師の方へと向けている。
『やはり駄目だ、あいつを引き離さないと穴を塞ぐどころじゃない…………!』
「ですが、呪いの溢れる量も増えてます!」
『泥翅もお利口だな。自分の勝利条件を良く解ってるじゃあないか。呪いの流出を止めるには泥翅をどける必要があるが、泥翅をどうにかするには時間が掛かる…………奴はただ、穴を守っているだけで良い』
レギンは魔術を編みながら、逆転の糸目を探すために視線を巡らせる。『くそ、せめてどちらかへの対処で済むのなら…………ミス・キール?!』
矢のように真っ直ぐ、六枚の翅を瞬かせて文字通り飛び出したのは妖精女王の片腕、セラ・キールだった。
彼女はあっという間に天井付近まで飛び上がると、呪いの滝、その射線上に立ちふさがった。
『危険だ、ミス・キール! 貴女の翅に一滴でも呪いがかかったら!』
「解っています、ですが、このまま陛下の城を汚させるわけにはいきません!」
それ以上制止する暇も無く、彼女の翅が大きく広がる。
周囲の、方向性を持たずに漂っている魔力が強引に集められ、セラ・キールの翅を強く輝かせる。そして彼女はそのまま、白金色の風に変えて、呪いへ真正面から叩きつけ始めた。力強い羽ばたきが繰り返される度、呪いの侵攻は押し返されていく。
『流石は妖精女王の片腕だな、相性も悪いというのにこれだけの呪いを押し返すとは…………』
「呪いは私が抑えます、お二方、泥翅をお願いします!」
『おっと、そうだった!』
呪文を一唱え、レギンの杖から魔力の鎖が伸びて、泥翅の腕を絡め取った。
怪物はいきなり現れた妖精が、順調だったはずの呪いの侵攻を邪魔していることにすっかり腹を立てていた。怒りのままに、頭上の邪魔ものに向けて呪いを一塊掬い取り投げつけようとしていたのだ。まさにその刹那に腕を引かれたせいで、暴挙は中断されたけれど、もし成功していたらセラ・キールは一巻の終わりだっただろう。
『そうはいかないよ、怪物君。淑女の見せ場だ、邪魔をするのは無粋というものだぞ。しかも泥を投げるなど、下町の連中だってやらないことだ』
泥翅の右腕を引っ張りながら、レギンは気取った仕草で帽子をひょいと傾けた。『踊りたいなら僕が相手を…………』
「失礼します、レギン様」
『アンマリア?』
ひょいと、アンマリアはレギンの手から彼の杖を抜き取った。
鎖を維持しながら両手でしっかりと、杖を握る。手袋があれば良かったなとぼんやりと思った――ポー氏のお嬢さんが外出の時に手袋を填めていたのは、案外真似をするべき習慣だったのかもしれない。
まあ、無いものは仕方がない。多少痛むだろうけれど、覚悟して、けして手放さないようにしなくては。
『何を、いや、どういうことだアンマリア。どうして、鎖が』
「レギン様、箱を塞ぐ準備をお願いします。泥翅は、引き離しますので」
レギンの返事を待たずに、アンマリアは彼女にできる最大限の事で泥翅を引き離すことにした――即ち、跳躍だ。
鎖を持ったまま全力で跳び上がる。魔力で作られた黄金の鎖は軽く、跳び上がるアンマリアにとっては糸でも掴んでいるような手ごたえの無さだった。それでも鋼鉄製の鎖と同じようにジャラジャラと音を立てて魔力の鎖は引きずられ、そして、結ばれたままの泥翅を引き始めた。
「オォォォォ…………?」
『おぉ、泥翅が!』
「まだ、上へ!」
いきなり腕を引き上げられたことで体勢を崩した泥翅の巨体は、勢いそのままに空中に引っ張り上げられた。同時に、握った杖が強く引き返される――絶対に離せない。強く強く、手のひらの皮が擦り切れる痛みを堪えながら、アンマリアは跳んでいく。
とはいえまだ、足りない。箱の傍から完全に引き離さなくては、穴を塞ぐ隙は作れない。
アンマリアは空中で大きく息を吸い込む。魔力を取り込み、鎖の維持に少し回して残りを両足へ。固まり、浮かぶ足場を想像する。想像して、創造する。出来上がったのは全く儚い、一蹴りで粉々に砕けてしまうような足場だったけれど、兎人にとってはそれだけで充分。
空中でのもう一跳び。
しかも、跳躍力に優れた兎人の獣人が魔力に糸目をつけずに行う全力の跳躍。その勢いはまるで砲弾のように鋭く、早い。そして砲弾に引きずられた泥翅の身体は、もう何の抵抗も出来ずに同じくらいの勢いで、空中に飛び出していく。
「オォォォォォッ!」
それでも怪物は、ヒトの限界を超えていた。
さながら大砲に打ち出されたにも等しい勢いで宙を舞いながら、泥翅の眼はアンマリアの姿をしっかりと捉えていた。自分が勢い良く進んでいて、既に跳び切ったアンマリアはゆっくりと落ちてくることも理解していたかもしれない。
鎖に右腕を引かれながらも、来るべき交差に向けて泥翅は左腕を振るべく身構えて――気付いた。少女はただ落ちてくるのではなく、身体を丸めてくるくると回転しながら落ちてくることに。しかもその回転は、徐々に速くなっていることにも遅ればせながら、気付いた。
そして、理解した。
限定状況下における身体能力に限って言えば、獣人はヒトも妖精も怪物さえも、遥かに超えているということを。
空中は兎人の第二の庭だった。そのことを後悔する精神性が怪物に存在したかどうかはともかく、下で見ていたレギンは後日、怪物に同情する旨を表明した。
回転しながら落ちてくるアンマリアを泥翅の左手は捉えきれず、代わりに、アンマリアの脚が怪物を捉えた。
かかと落としである。
それもひとしきり回転して勢いをつけた上での一撃、しかも泥翅側には不幸なことに、怪物が進む速度まで上乗せされた一撃であった。まさに痛撃。顔面にブーツの堅いかかとを叩きこまれた泥翅は、力なく、しかし相応の加速をもって墜落した。
地響き。
妖精界最高の素材で出来た床は頑丈で、その分、泥翅の落下を優しく受け止めてはくれなかった。背中から落下した泥翅は、見ていたレギンが気の毒になるほど痛々しい呻き声をあげて、
そこにアンマリアが落ちてきた。
泥翅と同じ速度で落下したアンマリアは、速度を殺さず両足で、床の中では最も柔らかい場所、即ち泥翅の腹に着地したのだ。落下の衝撃を身体の前後から受けた形になった泥翅は、もうピクリとも動かなかった。
アンマリアは着地後すぐに軽く飛び、反動を逃すようにくるりと回転してから無事に、よろけることも無く着地していた。
『…………見事なものだな、アンマリア』
「恐れ入ります、レギン様」
握り締めていた杖を、アンマリアは返した。「すみません、手袋をしていれば良かったのですけれど、少し血が…………」
『血? そうか、君、手が…………見せてみろ』
「それより、箱を」
『淑女の怪我を放っておいたと知られたら、王国中の笑いものだ。良いから見せてみろ、治療は直ぐに出来るから』
レギンが受け取った杖を一振りする間だけ、アンマリアは自分の両手の傷を見詰めた。【銀熊亭】に集う獣人の男性たちは賑やかな話題に事欠かないけれど、中でも人気なのが自分の傷跡の話だった。彼らは酒で火照った肌を晒しながら、やれ誰に撃たれただの何で切られただのと、痛みの記憶を誇らしげに語るのだ。
男性にとって傷とは勲章の代わりであり、己の勇敢さと献身とを証明する格好の材料らしい。痛みを引きずるよりは建設的だろうとは思うけれど、無傷の戦士と傷だらけの戦士どちらが強いかは難しい問題ではないかと、彼らのテーブルに酒を運びながらアンマリアはいつも、内心で首を捻っていた。
今、徐々に消えていく傷跡を見詰めながら、アンマリアは彼らの気持ちが少しだけ、解ったような気分に浸ることが出来た。
傷は証明だった。努力と、勇気と、克服の証明。この先何か辛いことがあった時に、そういえばこんな危機を乗り越えたなあと思い起こすための、消えない導きなのだった。
瞬きの間に傷は治っていた。レギンはいかにも上等そうなハンカチを惜しげも無く使い、アンマリアの手から血を拭き取った。
『他に痛むところは無いだろうな、アンマリア。もしあるのなら、僕の魔術の腕も随分錆びついたということだが』
「大丈夫です。ありがとうございます、レギン様」
『礼を言うのはこちらの方だと思うがね、泥翅は君に蹴り倒されたのだから。まあ、謙遜しあうのは後にしよう。さっさと箱の穴を塞がないと、ミス・キールが墜落してしまうかもしれないからね』
アンマリアも同意見だった。彼女は見事に呪詛の拡散を押さえつけているけれど、魔力の消費量は成果に比例するものだ。
レギンは小走りに箱に近づいていく。魔力で穴を塞ぐのか、それとも再び水路を接続して浄化された魔力を注ぐのだろうか…………まあ、どんな方法かはそれこそ後から聞けばよい。今のところは専門家に任せるべきだろう。
レギンの後を追って二体のゴーレムが、子犬のように懸命に駆けていく。
思えばあの子たちは、泥翅との戦闘用に作られたゴーレムだった。こうして活躍の場を奪ってしまったけれど、彼らを使って戦う際の作戦なども後で、聞いてあげたほうが良いのだろうか。レギンとはそれほど長い付き合いというわけではないけれど、大体の魔術師は説明が好きみたいだし。そうしたら、良い茶葉を用意しなっちゃ。
ぼんやりと、アンマリアは『その後』のこと考えていた。
動く気分ではなかった。勿論魔術のおかげで身体に傷は無かったけれど、一日中下水道を巡った上での大立ち回りだったのだから、疲れてしまうのも当然だった。少なくとも心は疲れていて、気力はまるで湧いてこなかった。
けれども、彼女の優れた耳はあいにく、その音を聞き逃すことは無かった。
ぴしり、という何かがひび割れるような音。
はじめアンマリアはひどく驚き、焦った――この状況でひび割れるとしたら箱か、もしくはセラ・キールの翅だ。どちらにしろ状況は悪くなってしまう。
しかし彼女の耳はとてもとても優秀で、音が聞こえてきた方向がそちらではないとアンマリアに教えていた。
では、いったいどこがひび割れたのだろうか?
考えながら、音の聞こえてきた方を向きながら、アンマリアはその音をどこかで聞いたことがあるような気がしていた。どこでだろう、どこか慣れ親しんだ場所で毎日のように聞いていた気がするのだけれど、そんな風に考えながら身体はゆっくりと音の出所を探し、そして、直ぐに見付けた。
横たわる泥翅の身体に一本、ひびが真っ直ぐ入っていた。
「…………あ」
そうか、とアンマリアは思い出した。
あれは、卵の殻が割れる音だ。毎朝毎朝、ポー氏のためにコックがスクランブルエッグを作るから、幼いアンマリアは割るのを手伝ったのだ。コンコン、ぴしり。コンコン、ぴしり。そうだ、あの時の音とそっくり同じだ。
卵が割れる。けれども今、アンマリアは卵を割っていない。誰も割っていない。それなら――卵は勝手に割れたのだ。
警告するよりも早くひびは泥翅の身体全体に広がって。
呪詛をまき散らしながら、破裂した。
誰もノックをせずに殻が割れたのなら。
それは誰かが出ようとしているのだ。
飛び散った呪いの塊が神殿の床にべたりと広がり、じゅうじゅうと音を立てて焦げていく。光の魔力で浄化されつつあるのだろうけれど、見た目よりも濃厚な呪詛はしぶとくこびりつき、床を――女王の翅を食い散らかそうと這いずっている。
けれどもそれを、誰も気にする余裕は無かった。アンマリアも、レギンも、セラ・キールでさえ一瞬魔法の制御を乱して、その誕生を見届けた。
誕生、そう、それは誕生だった。レギンの言に則って言うのであれば、泥翅は、怪物は、ついに成ったのだった。
黒く暗く苦しみに満ちた魔力の殻を破って。
泥翅の死体から、真っ黒い翅が、それから、子供のように小さくか細い身体がゆっくりと起き上がる。
「ァ、ぁ、ア」
それは喉を震わせながら、言葉の出し方を探っているようだった。同時に身体の動かし方を学ぶように、両手両足をぎくしゃくと動かして、それからようやく翅の存在に気が付いたのか、二枚のそれを羽ばたかせてふわりと、浮かび上がる。
あまりにも見慣れた光景だった。セラ・キール、或いは他の誰でもいい。この【白金の城】城下町で最も見慣れた存在の、それは姿をしていた。
それは――まるで妖精と同じ姿をしていた。
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