第15話泥翅の羽化

 最初の頃、泥翅は魔力を喰うだけの影だった。

 いるのかいないのか、その存在さえもあやふやで、生物が放つあらゆる音をアンマリアは感じ取れなかった。


 妖精呪の王から魔力を注がれた後は、まさに怪物といった風体だった。

 虚ろだった存在感は膨れ上がり、頑丈かつ強靭、魔力の肉の奥からは鈍い鼓動の音が聞こえてくる、生物に近い存在に変化していった。


 変化……そう、変化だ。

 変化には段階がある。地を這う芋虫にいきなり羽が生えたりしないように、泥翅にも手順というものがあった。魔力をお腹いっぱい食べて、蛹になって、そして今まさに、羽化の時を迎えたのだろう――怪物として新たな階位に到達したとさえ、言えるのかもしれない。

 かもしれない、そんな曖昧な感想しかアンマリアは抱けなかった。何故なら、泥翅の蛹から現れたモノは、どう見ても怪物らしくなかったのだから。


『…………?』


 アンマリアの内心を代弁するように、レギンが茫然と呟いた。

 子供のような体格と、背中に生えた一対の翅。その形はまるで妖精のようだった。ただし、真っ当な妖精ではないことは一目で解るけれど――その全身は翅も含めて真っ黒だったのだ。

 とはいえ、泥翅の身体とは明らかに違う。泥翅は影が集まったようなぼんやりとした肉体だったけれど、この黒い妖精の身体はそんな非実体ではなく、生物としての厚みがあった。肌の黒さも何もかも飲み込むような闇ではなく、神殿に降り注ぐ光を反射してぬらりと光る、黒曜石のような黒だ。


 ポー氏の貯蔵品コレクションの中にあった、漆黒の彫刻のようだった。何本もの腕を持つ異国の神を象ったとおぼしきその像は、漆を塗られただけのただの木だというのに、光を受けて鈍く光る様はやけに生々しい印象をアンマリアに与えていた。

 幼いアンマリアはあの像が苦手だった。

 いつの間にか消えていたけれど、記憶にある不気味な輝きはまさに、目の前の存在の肌と酷似していた。


 実体と非実体の狭間にいた泥翅が闇の魔力を充分に吸収した結果、実体を得るに至ったのか。いや、とアンマリアは思い出した。泥翅の核はそもそも妖精の死骸だった筈。この状態はいわば再誕であり、再構成なのだろう。


「……………………」

「喋れない、のでしょうか…………?」

『まだ生まれたてということかもしれないな。ふむ…………』

 幾つかの要素を天秤にかけた上で、レギンは決断し杖を振るった。『地に戒めよ、土を味わえチェインバインド


 レギンの杖先から光が飛んだ。

 黒い妖精は何が起こっているのか解らないのか、その光が自分の胸に当たるのをただぼんやりと見ていた。避けることも防ぐことも、彼の小柄な身体にはち切れそうなくらい詰め込まれている魔力を使えば簡単だったろうけれど、そんなこと思いつきもしない様子だった。

 恐らくはレギンの考えの通りだったのだろう。黒い妖精が見掛け倒しでないとしたら、彼は大量の闇の魔力を持った上で、それを用いて妖精のように魔法を使えるということになる。敵対する意思があるかは解らないけれど、その可能性があるのなら早く仕掛けた方が良いに決まっている。そもそも泥翅から生まれた黒い妖精がこちらと敵対する可能性は、どう楽観的に見ても低いとは言えない。


 光は黒い妖精の胸元まで辿り着くと、八本に解けた。


 伸びたのは、先ほどと同じ光の鎖だ。鎖は蜘蛛の巣のように広がって黒い妖精に絡みつき、地面に縛り付けた。


「?!?!」


 いきなり鬱陶しいものに巻き付かれた黒い妖精は、不快そうに身をよじる。けれど一度絡みついた鎖は容易には解けない、しかも、レギンが杖をくるくると動かすと、応じて鎖は地面へと巻き取られていく。

 あっという間に黒い妖精は、神殿の床に縫い付けられていた。


『一旦君は後回しだ、元泥翅君。僕は穴を塞ぐ、アンマリア、見張っておいてくれ』

「わ、わかりました」


 この状態で放っておくのか、と思わないでもなかったけれど、アンマリアは一先ず飲み込むことにした。

 実際今一番の問題は噴き出す影の魔力であって、羽化したばかりで右往左往しているだけの黒い妖精ではない。黒い妖精は放っておいてもどうにかなるかもしれないけれど、魔力は、放っておいたら確実に妖精界が終わってしまう。そして黒い妖精への対処は難しいけれど、黒い魔力はレギンの魔術で抑えることが出来る。優先順位としてはけして間違いではない。

 間違いではないけれど、それが例え怪物由来の妖精であったとしても、小さな子供にしか見えない存在を鎖で縛り付けて放置するのはあまりにも、倫理的な問題を含んでいると言わざるを得ないのだけれど。


 今は緊急事態だ、という言葉で全てを片付けるには、アンマリアは普通過ぎたのかもしれない。それは基本的には美徳だろうけれど、余計なものを背負う悪癖でもあると、レギンはこっそりと思った。


「…………?」


 ふと、アンマリアは首を傾げた。

 それはあまりにも些細な動きで、レギンの注意を引くほどではなかった。


『よし、一先ずはこれで良いか』

 外れた水路の先を再び接続し、継ぎ目を魔術で補修する。『浄化された魔力が流れ込めばある程度、抑えられるだろう…………ミス・キール、どうですか?』

「何とか…………ですけれど…………」


 抑え込むべき魔力の噴出が収まったためだろう、セラ・キールも降りてきた。

 相当疲労が激しいのだろう、いつも指先まで満ちている白灰の魔力がほとんど感じられず、三対の羽ばたきも不規則に乱れている。泥翅をあそこまで変質させるほどの闇の魔力を独力で防いでいたのだから、その程度で済んでいることは寧ろ感嘆するべきことかもしれないけれど。


「…………」


 アンマリアも勿論、彼女の英雄的帰還を労おうとは思っていた。

 けれど今、少女は黒い妖精の傍を離れられなかった。レギンに頼まれたからということもあるけれど、それ以上に、アンマリアはジッと耳を澄ませていた。


「アンマリア嬢、貴女もお見事でした」

 呼吸を整えつつ、セラ・キールは弱弱しく微笑んでいる。「泥翅を蹴り倒したあの勇猛果敢ぶり、許されるなら歌にして語り継ぎたいところです」

『そうもいかないでしょうがね。出てきたのがあれとあっては、恐らく今回の事件そのものを大っぴらにするのは危険でしょう』


 それは有難い、とアンマリアは胸を撫で下ろした。

 妖精たちに気に入られ過ぎるのは危険だし、彼らが自分のことを歌い上げながら飛び回るのは、あまりにも恥ずかしい。


「穴の封鎖はどうなっていますか?」

『仮設工事というところですね。なるべく早く適切な処置を行うべきでしょう、神殿内部も異常は無いようですが、実際に魔力が満ちるまでは油断できませんね』

 レギンはセラ・キールと連れ立って、アンマリアの方に足を向けて、立ち止まった。『…………なんだ、どうかしたのかアンマリア?』


 アンマリアは片手を伸ばして、二人を制止していた。

 心臓が痛む、身体の奥底から嫌な汗がじわじわと染みだしてくる。この感覚は、しばらく感じていなかったものだ――けれども、馴染みのあるものだ。


 最初は泥翅にそれを感じた。

 やがて彼を理解していくうちにそれは消えていき、泥翅が吠えたときに完全に去っていった。

 けれども今、アンマリアはそれが再び戻ってきたのを感じている。心の奥底に刻み込まれたそれは、目の前の黒い妖精とは似ても似つかない姿で指さしている――


 恐怖。

 それがいま再び、アンマリアの身体に絡みついていた。泥翅の時のように記憶を揺さぶられるような恐怖とは違う、本能に訴えかけるような恐怖。

 獣人は、獣からヒトに転じた存在だという話を聞いたことがあった。その逆の説もあるから何とも言えないけれど、少なくともアンマリアは自分の中に獣の感覚があることを確信していた。草原を駆け回る兎が狐の気配を感じるように、目の前に横たわる存在がいつでも自分を踏み潰せるのだと、アンマリアは感じ取っていた。


「…………ア」


 か細い声で、黒い妖精が呟き続けている。

 生物にしては奇妙過ぎる角度で頭を持ち上げて、同じ言葉の切れ端を発し続けている様子は、見るからに異質で異様だ。


「…………ア、ア、ア」

『何だ…………何を、何かを言おうとしているのか…………?』


 魔術師は不気味さを感じることが無いのだろうか。

 杖を構え、鎖の強度を維持しつつも、レギンは黒い妖精の様子に強く興味を引かれている。今すぐにでも駆け寄らないのが不思議なくらいの態度だけれど、黒い妖精が体内に抱えている闇の魔力の圧力が、どうやらぎりぎりのところでレギンを慎重にさせているらしかった。


「なんていう、おぞましさ…………」


 セラ・キールの反応はどちらかと言うと、アンマリアの気持ちに近いものではあった。けれどそこには、当たり前だけれどヒトでは理解できない拒絶の感情が溢れている。妖精を呪う怪物から妖精が生まれたというのは、ヒトで置き換えたら確かに、不快極まるというものだろう。

 彼女は翅に魔力を溜め始めた。黒い妖精をこれ以上見たくないのだろう、羽ばたきで攻撃しようとしたようだけれど先ほどの無茶が祟っているのか、思うように魔力を扱えていない。


「ア…………ア、ア…………ア」

『無理は禁物ですよ、ミス・キール。それに僕としては、彼が何を言おうとしているのか気になっています。アンマリアも少し下がってくれ。始末は責任を持ちますから、一先ずは…………』

「…………ア」


 レギンの言葉の何かが黒い妖精の意識の何かに引っかかった。

 妖精はぎょろりと目を見開いた。白目の部分が一切無い――それどころか瞳孔も見当たらない、肌と同じ素材で作った球体を眼窩に嵌め入れたような異様な目だった。そんなもので何が見えるのか疑問ではあるけれど、目玉の真正面にいるアンマリアには解った、黒い妖精が自分を見ていると。


 そして。

 アンマリアの記憶には新たな恐怖が刻み込まれることになった。


 黒い妖精はそのおぞましい顔を更におぞましく歪めた。怪物的な笑み、とでも言うべき表情で真っ直ぐアンマリアを見て、


「…………

「っ!!」


 


「アンマリア、アンマリア、アンマリア!」


 けらけらけらけら、けたけたけたけた。

 笑いながら黒い妖精は、楽しそうに嬉しそうに名前を呼び続けている。


 強烈な吐き気を感じて、アンマリアはよろりと後ろに下がった。

 なんて気持ちが悪いのだろう。

 アンマリアは、意思の疎通ができないモノこそ怪物だと考えていたけれど、言葉を話す怪物なんて怪物じゃないと思っていたけれど、今こうして話をする怪物を目の当たりにして考えは変わり始めていた。


 意思も意図も感じ取れない相手に自分の名前を呼ばれることは、とてもとても気持ちが悪いことだった。


「アンマリアアンマリアアンマリアアンマリアアン…………」


 ぐへ、という見た目にも音的にも踏み潰された蛙のような声を上げて、黒い妖精は潰れた。魔力の鎖が倍以上に膨れ上がり、彼を限界以上に締め上げたのだ。


『申し訳ない、アンマリア。僕の判断ミスだ、呪い生まれの存在なんてさっさと始末をしてしまうべきだった』


 レギンの声は今まで聞いたことが無いくらい堅いものだった。

 自分自身の選択への後悔と訪れた結果への悲嘆、それに、黒い妖精への怒りが色濃く出ている声だ。彼の顔にお手製のマスクが無くとも、ひどく辛そうな顔をしているのが目に浮かぶようだった。


「…………いえ、平気です」

 自分のために怒る他人というのは言葉以上に心強いものだ。「大丈夫です、大丈夫…………」

「アンマリア嬢…………」

 セラ・キールは心配そうに近づいてくる、と、ふわりと浮き上がるといきなりアンマリアを抱きしめた。「そうです、大丈夫。貴女の名前は汚されていません」

「せ、セラ様…………」

「貴女は強く優しい人。その魂は強く燃え、輝いています――たかが影生まれの妖精程度が、どうして汚すことが出来るでしょう? 貴女は闇を打ち払えるヒトです、アンマリア。私たち妖精の大好きな光のヒトです」


 だから、安心して、と。

 抱き締めるセラ・キールの身体からは魔力が弱弱しく伝わってくる。彼女自身の肉体の方が傷ついて弱っているのに、それでも、アンマリアのことを母親のように包み込めるのはやはり、セラ・キールもまた旧き妖精の一体ということだろう。


 それとも、これも妖精たちのごっこ遊びの一つなのだろうか。

 弱ったヒトには優しくする方が良いという、ただそれだけの話だろうか。

 顔を上げてセラ・キールの顔を見たら、何の感情も浮かんでいなかったりするのだろうか。


 アンマリアは少しだけ笑った。あぁ、思ったよりも精神が弱っているのね、アンマリア。差し出された優しさを疑う時は、自分に優しさを差し出す余裕が無い時だ。


『一応言えば、黒い妖精は魔力を持ってはいたが使ってはいない。呪いを受けてはいない筈だ』

「そういう問題ではありません、レギンさん。淑女の名前というのは春の木漏れ日のように、大切に扱わなくてはならないのですよ」

『それは、解っているとは言えないかもしれませんが…………』

「では解るように。少なくとも二度と、自分の好奇心のために彼女の名前を差し出すことが無いようにしなさい」

『別にそんなつもりは………あぁいや、勿論ですともミス・キール。僕の杖に誓ってそんな真似はしません』


 今度こそ、アンマリアは声を出して笑った。

 二人が怪訝そうにこちらを見ているのは解ったけれど、それでもどうしても、止めることが出来なかった。

 何となく二人の様子から、思い出したからだ――自分のことで良く言い合いをしていた母様と、


『………………』


 黒い妖精の拘束を強めながらレギンは、アンマリアの様子を静かに見つめていた。彼女の思い描く父親の顔、それが自分の想像とは違っていることを祈りながら。

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