第13話影の変容
ぽたりと影が一滴、空へと落ちた。
魔術師が術具を配して陣を描き長々と呪文を唱えて起こす呪詛が一とするのなら、およそ百を数えるほどの禍々しい泥の魔力がその、たった一滴には込められていた。
地に落ちれば闇を植え付け、風に触れれば疫病を運ぶ、災厄の種。
例えば【煤と煙突の街】に落ちれば、一日と待たずに生命が住める場所で無くなるような呪いの雫はしかし、アンマリアたちにここがどのような場所かを思い出させただけだった。妖精神殿。最も力ある妖精が自らの翅で創り上げた神秘の聖堂は、彼女たちだけを狙いすました呪いであっても尚、瞬く間に浄化せしめた。
闇は光に触れられない――古くから今まで連綿と続く真実の前では、いかに強力な呪詛と言えどもただ消し去られるのみだ。
ただし。
同じくらい古くから存在する真理がある。光は、闇を消し去ることは出来ない。
『…………まずいな』
レギンの呟きは、その場にいた全員の内心を代弁していた。
影の魔力が重力に逆らっていることはもう、誰も不思議には思わなかった――そもそも妖精界において、一方にしか流れない川の方が珍しいのだから。
それよりも問題なのは、こぼれる影の雫が一向に収まる気配が見えないことだった。しかもその感覚が徐々に、短くなっているような気がする。
『気のせいじゃない、間違いなく頻度が多くなっている。それに、一回にこぼれる量も増えているな』
「そんな、馬鹿な」
セラ・キールが悲痛な声を上げた。「陛下の封印が、解けるわけが…………」
『そうだな、解けるわけがない』
「え、でも…………」
現に箱から影の魔力が漏れ出しているのを、アンマリアは思わず指摘した。中に閉じ込めて置いたものが外に出ていることをこそ、封印が解けている、というのではないだろうか。
『まさにその通りだ、アンマリア。ところで今のところ、箱の中のモノは外に出てきているかな?』
「…………あ」
『そうだ。元輝きの妖精殿は呪いに成り果てたとはいえ、実体を持っている。魔女が死体を箱に入れた、と言っていたからには間違いない。だが実際今のところ、漏れているのは魔力だけだ』
レギンは杖を振り、雫を幾つかまとめて消し飛ばした。『箱自体に損傷も見当たらない。何しろ妖精女王の翅だからな、封印は未だ、まともに機能していると見ていいだろう』
「では、何故呪いが?」
『神代の魔術的な遺産を見る度にいつも思うことだが、結局のところ、完成された遺産を壊すのは後世の無粋な付け足しだ』
「水路の部分ですか!」
『ご明察ですよ、ミス・キール。最初の神殿は素材からして別格です。この妖精界の一角を支配する妖精女王が自らの魂とでもいうべき翅を使って、しかもあの伝説の魔女が関与したのですから、千年だろうが一万年だろうが劣化するわけがない。ですが、箱に魔力を注ぐ水路の部分は別です。あの接続しているパイプ状の部分も、素材や作りは見事の一言ですが…………やはり、他の部分と比べると見劣りしてしまいますね』
アンマリアは目を凝らしてみたけれど、パイプ状の何かは見えなかった。
兎人の眼は遠くのものを見るのに向いていないのだ。耳と鼻のおかげで日常生活に支障は無いけれど、眼鏡が無ければ数メートル先も見えないくらい。
まあ、レギンがあるというのならあるのだろう。アンマリアは諦めて視線を泥翅の方に向けた。
勤勉な怪物は自らの努力が実を結んだことに慢心せず、更なる成果を求めて箱の隅を齧り続けている。こちらに向かってこないのは有難いけれど、自我の存在を感じられないその懸命さは視界の隅をうろつく虫のように、不気味で不安だった。
「…………?」
ふと。
何か奇妙な感覚がアンマリアの心に芽生えた。ちょうど、箱の中にいるモノが未だに泥翅への影響力を持っているということに気が付いた時のように、自分が読んでいた本が上下逆だったことに今さら気が付いた時のように、解っていると思ったことが全く解っていなかったのではないかという、不安。
ちらりと、アンマリアはレギンの方へ視線を向けた。言うべきか、それとも確信を得るまで待つべきか?
レギンはセラ・キールと状況を分析することに集中しているようだ。ならば、とアンマリアは泥翅を見ることにする。この違和感をもう少し、考えているべきだろう。
『しかし問題は、この呪いが際限なく溢れていることです。呪いの浄化には魔力が使われる、ここの魔力と呪いのどちらが総量が上なのかは解りませんが、少なくとも魔力は消費され続けることになるでしょう。その場合、封印の方にも影響が出るのではないですか?』
「それは…………わかりません」
『そうでしょうね。前代未聞であることは間違いない、ですが、楽観視できる状況ではないでしょう?』
「…………」
『どうかしたか、アンマリア?』
「…………え?」
まさか自分に話が振られるとは思っていなかったアンマリアは慌てて顔を上げ、自分でもそう思うくらい、間の抜けた返事を返してしまった。
失望させただろうか、レギンはため息を吐いた。
『退屈させていたのならすまないがね。もし、何か気になることがあるのなら言ってくれないか?』
「えっと、大したことでは無いのですけれど…………」
『…………君が常々言う、もったいぶるな、という非難の正当性をようやく理解できたよ。友人が明らかに意見を持っているのに、それを聞かせてくれないもどかしさは中々きついものがあるね』
「貴方の人格矯正に少しでも役立てたのなら嬉しいですよ、友人としては」
『茶化すな、良いから話してくれ』
アンマリアはもう一度泥翅に視線を向けた。
それから、先ほどちらりと脳裏をかすめた予感を改めて観察する。その形、音、匂いで漠然と感じた違和感を他人と共有できる形へと変換するために。
「…………虫」
『ん?』
「以前に申し上げた通り、私はあの泥翅を怪物とみなしていません。少なくとも、『私の』怪物ではありません。では何かと考えた時に、私は虫だと感じました」
その結論には、間違いなくレギンの話も影響を与えているだろうけれど。
集団としての本能、個ではなく集団を維持するための存在。今もこうしてけして歯が立たない箱に対して、無意味と知ることも無く――考えることさえ無く、ただただ同じことを繰り返す不気味さを当て嵌めれるのならやはり、昆虫だろう。
使用人として過ごした日々の中で、芋虫やら蜘蛛やら蜂やら色々な種類の虫と親しんだ経験から、アンマリアは彼らに対して別に苦手意識を持っているわけではないけれど、好きなわけでもない。どちらかというのなら嫌いだ。不潔だったり、毒を持っているものもいるし、何より彼らが何を考えて行動しているかが解らない。お互いに理解不能な関係は少しだけ、死の影にも似ていた。
「そして虫の習性についてレギン様も仰っていましたよね、彼らは個を捨てて全体に奉仕するのですよね? そして奉仕ということは、それがどれだけ原始的であろうとも、いや原始的であればあるほど、見返りがあるのではないでしょうか?」
『…………なるほど』
思索の後、レギンは重々しく頷いた。『労働とはすべからく対価を求めて行われるものだ。労働者にとってだけでなく、適切な対価を与えることは雇用主にとっても重要だからだ――食事や外敵からの保護、そもそも子孫を産めるのが女王だけという種類の虫もいる。理想の主従関係とは、労働者は満足できる報酬を与えられて、主人は彼らの力を自分のために使ってもらう。報酬で従者は更に力を蓄え、主人はより便利に彼らを使えるわけだ』
「ということは、レギン様。泥翅もまた、彼らの生みの親から何らかの恩恵を受けているのではないですか?」
「それについて、私からも一つ気になる点を提示させてください、お二人とも」
『どうされましたか、ミス・キール』
「レギンさんの指摘された通り、あの怪物は新たに追加された部分である箱に魔力を注いでいる口を破壊しました。そして箱を破壊することは出来ていませんが、結果としては箱に穴を開けたのと同じことです」
ですが、とセラ・キールは緊張した様子で、滴り続ける影の魔力を見詰める。「完全に穴が開いているのだとしたら、今のところ、魔力のこぼれる量があまりにも少なすぎます。まるで…………」
「…………誰かが横取りしているみたいに?」
あとを引き取ったアンマリアの答えに、セラ・キールは震えながら頷いた。そしてレギンは呻き声を上げた。自分自身の発言でなければ、アンマリアも両方の反応をしていたかもしれなかった。
『時間があれば、とは思う。もっとじっくりと僕たちは考えるべきだった、泥翅の魔力喰いが魔力を消滅させているのかそれとも、名付けた通り、魔力を自身の中に取り込んでいるのか』
セラ・キールの喉が小さく悲鳴のような軋みを上げた。
それだけで耐え切ったのは彼女もまた、旧き力ある妖精の一体だという証明でもあった。並の妖精であれば大声で泣き叫ぶか、或いはそれすらもせずに、さっさと逃げ出していただろう。
『前者ならば危険ではあるが、その脅威は嵐や落雷のように自然現象のようなものだ。存在するだけで周囲の魔力を消すという、それだけの現象というだけだ。何故ならば、消すだけであり消費するだけであり、そこには発展性が無いからだ。どれだけ魔力を消されたとしても、泥翅を始末すれば済むだけの話だ――勿論それは、雲を消せば晴れる、程度の強引な解決策に過ぎないがね。それでも解決は、解決だ』
アンマリアは両手を所在なさげに動かしていた。
何か、護身用の道具は無かっただろうかと探していたのだった――パンを切るために持ってきたナイフが一本だけ、バスケットの中には入っているけれど、それが怪物にどの程度有効かどうか。試してみるしかないだろうけれど、その機会はすぐ目の前に迫ってきている。
『後者ならば、最悪だ。何故ならばそれは食事、詰まりは生命活動だ。ただ魔力が消える現象とは比べ物にならない、泥翅が生きていて、生き延びようとしていて、生き続けようとしているということだからだ…………生き続ける限り、生命は成長するものだからだ。成長する怪物というのはどれほど最悪なものか、何故ならば怪物とは本来『成る』もので、『成り果てた』ものだ。怪物がもし、何かへと『成っていく』のならばそれは、より悪い怪物に他ならない』
そして、レギンは。
淡々と目の前で起きている現象を分析しながら語る様は、学者のようであり教師のようであり、獲物の解体の手順を考える狩人のようであり、他の何よりも魔術師だった。
神秘という獲物を前にした魔術師は常以上に冷静だった。どれだけ危険で絶望的な状況かを語りながら、その瞳には絶望ではなく好奇心が色濃く浮かんでいる。
『振り返ってみると僕は、漠然とではあるが泥翅の脅威をただ前者だろうと予想していた。その成り立ちからして、泥翅には死という概念が付き物だ。性質として妖精に本来ない筈の死を与え、依り代として妖精の死骸を用い、起源として大妖精の呪いに満ちた死を紐づけられた。生まれから育ちまで全てが死なんだ、魔力という、言うなれば生命の雫を求めるのも反動だろうと分析していたんだ。そこに深い意味は無いだろうとね』
泥翅は。
死を与えられ死で操られ死に囚われた怪物は、それでも生を求めてあがいていた怪物は、ついに見返りを得ることとなった。
怪物は箱を齧っていたのではなく、箱に口をつけていたのだ――そこからこぼれ出そうとする始祖の呪いを、自分の変容の種となった影の魔力を、ひたすらに貪っていたのだ。
いや、或いは――それこそが、群れの長からの見返りだったのか。従者が満足する量の、従者をより強く、より従者らしく成長させる魔力を与えるからこそ、泥翅は懸命に尽くし、三体の内二体までもが足止めに命を散らせたのか。
アンマリアは束の間、彼らの徹底した精神性に感動の片りんを覚えた。仕える者と仕えられる者、それが徹底されることはある意味の幸福の形かもしれない――幸福かどうかを考えないことが幸福の一つであるのなら、だけれど。
『まさに痛恨だよ、大きな間違いだった。彼らは死を与え、死に纏わりつかれただけのただの生物だった――そう、先の僕自身の言葉をもって言うのならば』
泥翅が、立ち上がる。
その身体は以前の一回りも二回りも大きく強靭に変質している。
『今まさに、泥翅は――怪物に成ったんだ』
応じるように、泥翅が長い長い咆哮を上げた。
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