第7話夜が明けて、光が満ちて

「う、うぅん…………」


 先ず鼻腔をくすぐる香ばしい香りで、アンマリアは目を覚ました。

 ベッドに横たわったまま天井をぼんやりと見詰める内に、とんとんとんとんと、包丁で野菜を刻む音が小気味いいリズムで聞こえてくる。


 階下で店主が下ごしらえを始めたのだろう。音と匂いが徐々に意識を覚醒へと導いていく、この時間がアンマリアは好きだった。かつて使用人だった頃を思い出すようで、ひどく居心地が良いのである。

 恐らく根っからの労働者気質なのだろうと、アンマリアは自己分析していた。やるべきことが目の前にあって悩まなくて良いというのは、実際とても気楽なのだ。


 だが、今は違う。


 アンマリアはもう【偉大なる】ポー氏の使用人ではない、誰かの命令に従う必然性が何もないのだ。

 何をするか、何をして生きていくか、何を許して何を許さず生きていくか。

 起きる時間でさえも、自分で決めなくてはならない。自堕落に生きることもできるし、誰が叱ってくれるわけでもない。アンマリアが選んだ行動の結果は全て、アンマリア自身で享受しなくてはならないのだ。


 夢と現実の狭間のような、この時間だけは、そうした苦痛を忘れることが出来る。まるで誰かに『とっとと起きな、この愚図』と言われているような、心地の良い切迫感の中で微睡むこの時間だけは。


 とはいえ、いつまでもぬるま湯に浸っているわけにはそれこそ、いかない。起きなくては、起きて働かなくては。

 働かざるもの生きるべからず。

 己を証明せよ、己の価値を証明せよ。でも、誰に?


「…………まずはシャワーでも浴びましょうか」


 ゆっくりと起き上がり、アンマリアは身支度を始めることにした。









 身支度を整えて階下に降りると、予想通り、銀熊亭店主のサリムが厨房に立っていた。彼は初老に差し掛かったくらいの熊人ベアーで、筋肉と毛に覆われた大きな身体を丸めながら、経験が可能にする丁寧な手早さで人参を刻んでいる。


「おはようございます、サリムさん」


 最早見慣れた光景に、アンマリアは心に温かな塊を感じながら声を掛ける。風の無い穏やかな午後、陽だまりで横になったような、じんわりと染みるような温かさだ――【煤と煙突の街】ではけして得られない温かさ、と言い換えることも出来たけれど、これだけ気分の良い朝にそれほど悲観的になる必要はなかった。

 サリムはぎょろりと、大きく見開かれた目玉を捻ってアンマリアに向けた。

 人生の大半を苦悩と挫折で彩られた老人特有の視線だった。大抵の相手なら委縮してしまうであろう視線だったけれど、アンマリアにとっては慣れ親しんだものだった。貴族の使用人として十年余りを過ごせば、こうした排他的な態度の同僚には大体慣れてしまうものだ。そして彼らは、自身の視線のこうした効能を理解してはいるものの、それは単純に自分ではままならないものとしか思わない。敵意に満ちているようで、実際、攻撃的なわけではないのだ。


「…………昨日は客が来てたようだな」

 サリムはじゃがいもと包丁を示した、皮むきを手伝えという、雄弁な無言のアピールだった。「ベランダに飛び乗ったようだが、獣人か?」

「妖精です、サリムさん。お城に勤めている偉い妖精です」

 アンマリアは軽く袖をまくると、手早く皮むきに挑んだ。「彼女の名前は、恐らく、全ての妖精が知っているでしょうね」

「はっ、そんな御方に窓から入らせたのか!」

 サリムは機嫌良く肩を震わせた。「上出来だな、お嬢さん。ようやく俺らの流儀が解ってきたんじゃないか?」


 アンマリアは曖昧に微笑んだ。

 サリムは典型的な労働者だ。詰まり反権威主義者ということだけれど、その嗜好は妖精界に来て随分と加速した様子である。名誉ではなく魔力で君臨する妖精女王は、彼にとっては格好の反乱相手なのかもしれない。

 もっとも、彼は別に暴力的なわけでも、あらゆる妖精に対して差別的なわけでもない。どちらかと言うと王国紳士らしく、抑圧的な為政者に対して上品な侮辱をぶつける方が好みなようだった。そして妖精たちにとっても、サリムのユーモアを含んだ批判的な言動は興味深いものらしかった。


「彼女はもてなしに満足して帰られましたよ、勿論、窓からですけれど」

「はっはっは、実に愉快だな! 夜に集まる連中に聞かせてやってくれないか、お嬢さん。報酬はステーキでどうだ、良い鹿肉が入ってるんだが?」

「それは…………状況によるかもしれません、サリムさん。うまくディナーの前に帰ってこられたら、良い取引だとは思いますが」

「ふん、仕事の話か。まさか、また妖精女王に良いように使われてるんじゃあないだろうな?」

「どちらかというのなら、使わざるを得ないという雰囲気ですね。妖精だけで解決できるのなら、それに越したことはないという態度でしょう」

「ほう。そんな傲慢な連中が、わざわざお前さんに手を貸してくれと言いに来たのかよ?」


 アンマリアは頷いた。

 じゃがいもは三つ目をこなした。


「妖精連中じゃあ手に負えないと、獣人の力が無くちゃあ、どうにも立ち行かないような状況ってわけか?」


 アンマリアは頷いた。

 サリムの包丁はいつの間にか動きを止めている。


「人目を避けて、お偉いさんが窓から出入りして。詰まりはそれだけ内密に動かにゃあならんような事態ってわけか?」


 アンマリアは頷いた。

 籠の中のじゃがいもはもう残っていない。


「まさかとは思うが。この【白金の城】の危機ってやつか?」

「いいえ、サリムさん。

最高だなバッダス! おっと、失礼、お嬢さん。だが、ふん、あの我が物顔の連中が自分たちの危機に獣人の助けを必要とするとは! 絶対に話をしてもらわないとな、こいつは間違いなく傑作だ!」

「話せるようなことがどれくらいあるかは解りませんよ? 少なくとも今のところ、情報だけでパニックが起きかねないんですから」

「ますます最高だ、その辺りは任せとけ、お嬢さん。お前さんが意味ありげに沈黙するだけで、観客は勝手に想像を膨らませて興奮していくもんだからよ。そこに俺の料理と酒が加われば、はっ、こりゃあ盛り上がるぜ」

「では、報酬の上乗せをお願いしてもよろしいでしょうか、サリムさん?」

「おっと、随分な成長だな。教え方が上手すぎたかね…………で、何が欲しい?」


 アンマリアはにっこりと、太陽のように微笑んだ。









「で、このパンか」


 数十分後、レギンの家にて。

 少々自堕落なところのある魔術師が目を覚ましているかは不安だったけれど、幸いなことにレギンは既に起床していた。

 それどころか、既に身支度を整えてさえいた。スーツに身を包み、椅子に腰掛けながらお茶の準備までも済ませている様は、アンマリアが知るあらゆる魔術師とは全く異なる姿だった――もっとも、通された居間は実に乱雑な様子で、昨日掃除を終えた筈の床には幾つもの書物や呪文が書かれた紙切れが散らばっている。


 アンマリアは不快感を極めて上品な所作でレギンに示した。眉を寄せて見せたのだ。それはあまりにも上品な仕草だったせいか、魔術師には全く通じなかった。彼はさっさと自分用の椅子に座ると、残ったソファーを友人に勧めて、くつろぐ姿勢をとった。


「昼食だとすれば中々有難いね。とはいえ機密情報の代償としては、いささか安すぎるようにも思えるが」

「サリムさんのホットサンドは最高ですよ」

「君の下宿先だったな。評判は聞いているが、女王陛下の内密な依頼を無碍にするほどじゃあない。君もそう思ってくれるだろうと、僕は思っていたんだがね」

「私は何も話していませんよ、レギン様。と言うより、言えるような情報を何も持っていないというべきでしょうけれど」

「当たり前だ。君がこの、茹でた鶏肉とほうれん草をマスタードソースで和えた具に屈していたら、僕は即刻君の口を縫い留めてしまうよ。勿論、焦げ目の付いたパンに屈していても同じことだが」

「とにかく、先ずは食べませんかレギン様? 『世界一の軍勢には世界一のシェフが要る』というでしょう? 食事は重要ですよ」

「まあいいだろう。実際、先ずは情報の共有から始めたかったからな――君の話は勿論だが、僕の話も聞いてもらいたかった」

 レギンはカップを口に運び、顔をしかめた。「…………不味いな。適切な動作をゴーレムに再現させた筈だが。何しろまあ、量だけは充分にあるからな」


 差し出されたカップを受け取り、代わりにサリムから貰った『グリーンナイト』――彼が起源を主張するホットサンドの名前だ――を差し出す。合法的ではあるけれど不釣り合いな取引にも思えたけれど、それはこの後、レギンがどのような話をするかにかかってはいた。


「…………ふむ。なるほど、これはなかなか悪くないな」

 パンに嚙り付くと、レギンは感嘆の声を上げた。「土地に見合わない店だと聞いていたが、同意するね。これは金の地区にあってもおかしくない味だ」

「丁寧な仕事が必要なんだと、彼は良く言っています。サリムさんの料理はどれも、魔法を使わない手作業で作られているんです、それが本物の味を生むのだと信じているようですね」

「正しい信仰だな。秩序神教会が勝手に綴った聖典などよりも、よほど信じる価値がある」

 レギンは自分が淹れた紅茶を口に運んで、ため息を吐いた。「…………まあ、紅茶をゴーレムに淹れさせる僕が言うことじゃあないが」


 アンマリアは若干の好奇心で、自分の分の紅茶を口に運んだ。そして直ぐに、首を傾げた。


「それほど不味いとは思えませんけれど。普通のお茶の味がしますよ、ゴーレムは正しい動きをしたのでは?」

「だとするのなら、君は普通以上に紅茶を淹れる能力を持ち合わせているのだろうな。誇った方が良いな、少なくとも僕は、君が普段淹れてくれる紅茶の方が遥かに美味しいと感じるよ」

「それは…………どうも」

「…………余分な話だな、忘れてくれ。覚えておいてほしい話はもっと別にあるんだからね」

「報告があるというお話でしたね」

 アンマリアは床を見詰めた。「資料が必要なお話のようですね?」

「まあ、そうだな。実際君が来るのは思ったよりも遅かったと言えるだろうね、アンマリア。事態の緊急性を思えば、セラ・キールの話が終わり次第僕の下へ跳んでくるものかと思っていたよ」


 おかげで思索の時間が充分に取れたがね、と嘯きながら、レギンは二つ目のパンを手に取った。もしかしたら昨夜から、ろくなものを食べていないのかもしれない。


「夜が危険だと教えられたもので。レギン様もその類まれな観察眼があれば、夜の闇が極めて危険だと理解しているかと思っていましたが」

「あいにく、僕は昼夜関係の無い場所にいたものでね」


 意味ありげなレギンの言葉の真意をアンマリアが察するまでに、レギンは二つ目のパンを食べ終えていた。


「まさか、?!」

「僕なら下水道と呼ぶね、その方が苦労が伝わりやすい」

「危険だとは…………言われていなかったかもしれませんが! 想像するくらいは出来たでしょう? 言われてはいなかったでしょうけれど!」

「当然だろう、それだけ危険な存在の居場所が解っているんだぞ? しかも、丁度良く手負いの状態だ。追い打ちをかけない理由があったら是非とも教えてほしいね」

「…………怪物の能力については不明な点が多かった筈です、手負いとはいえ、その傷が私たちと同じくらい足枷になるのかどうかは、解らなかった」

「分の悪い賭けだとは思えなかったね。セラ・キールは僕の怪我を見て真っ先に消毒を試みた。即ちあの怪物に関して知識があったということだ。だが、僕に対して即刻の退去を命じなかっただろう? ということは、怪物はあの時点で僕に攻撃できるような余力はないだろうと、知識のある妖精様が判断したというわけだ。攻撃が出来ないのなら、何を恐れる必要も無い。排水溝から踏み込んだ時僕が気にしていたのは、せいぜいが臭いくらいのものさ」


 レギンの言うことは全く筋が通っているように思えた。

 けれど、それは想像上の理屈に過ぎないとも思えた。少なくとも命を賭けるに当たって、全幅の信頼を寄せられるものではないだろう。


 レギンは肩を竦めた。


「君の心配はもっともだよ。その点については僕にも譲歩の準備がある、だが、その前に聞いてくれ。僕は君らが去ったあと念入りに魔術を準備して排水溝に挑んだ――魔力を喰う習性は、手負いであればあるほど強化される恐れがあったからな。ゴーレムに自己崩壊の命令を準備スタンバイさせておいたんだ。周囲の魔力が無くなったら直ぐに構造を分解して、瞬間的にだが、魔力を辺りにばらまくようにね」

 レギンは、狩りの成功を自慢する貴族のように上機嫌だった。「これは適切な対処法だったと思うよ。予想通り潜って直ぐに怪物は僕に襲い掛かってきた。決死の反撃だったろうね、怪物の側にどれだけの勝機があったのかは知らないが、僕の対処法が上をいったわけだ。魔力を奪って喜色満面といった風情の怪物は、ゴーレムの生み出した魔力を利用した僕からの反撃を全く予想していなかったのだ」

「倒したのですか、泥翅を?」

「そういう名前なのか? 図鑑にでも載せておこうか、討伐済みの判子と共にね」

「妖精にとってひどい脅威だと聞きました。討伐の暁には充分以上の礼をするとも」

「はは、ならばとうとう君も、自宅を持つ羽目になりそうだな。妖精界の危機を二度も解決した君を、獣人の食堂の二階に下宿させておく理由は彼らには無いだろうからね」

「冗談じゃあありません、レギン様。私は自分の家なんて、落ち着けない場所は要りません…………それに、そんな気分にもなれませんよ。下手をしたら三体も、妖精が犠牲になっているんですから」

「…………なに?」


 俄かにレギンは雰囲気を変えた。

 眉を寄せ、紅茶を飲み干すと、不機嫌をあらわにした声色でアンマリアに話を促した。


 アンマリアは動揺しつつも、なるべく正確にセラ・キールの話をレギンに伝えた。青年魔術師は見る見るうちに気分が落ちていくようだった、新たな情報を幾つか自分の数式に嵌め込んで、変化した答えが好ましくない方向に進んでいることを理解し始めているのだろう。


「…………というわけですが、レギン様?」

「…………何てことだ」

「レギン様?」

「僕の油断だ、全く言い訳の仕様もないな。くそっ、確かにそうだ。手負いの怪物が逃げるのではなく迎え撃った理由なんて、一つしか無いだろうに!」


 レギンは立ち上がり、大きな声で独り言を言いながらぐるぐると居間を歩き回っている。彼のブーツが幾つかの本を踏み締めたけれど、魔力の自動的な浪費のおかげで直ぐに直っていく。


「どういうことですか、レギン様。怪物を退治したのでは、無いのですか?」

「勿論それはその通りだ、アンマリア。僕は間違いなく怪物――妖精の流儀に従って泥翅と呼ぶがね――を始末した。だが、それは一体だけの話だ」

 レギンは心底悔しそうに、頭を掻きむしった。「行方不明の妖精は三体。怪物の伝説には感染性が認められる。手負いの怪物は必死に僕を、入り口で押し留めようとした。簡単な推測だろう、アンマリア」


 まさか、とアンマリアは呟いた。

 まさかさ、とレギンは頷いた。


「間違いない、僕の推測が正しいのなら――

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