第8話地下の探索

 危険な地域へ向かう準備をすっかり整えてから昨日と同じ排水溝にたどり着いた時には、既に昼時を大分過ぎていた。

 あと三時間もすれば日が落ちるだろう、暗闇の探検には心もとない残り時間だ。出来る限り手早く準備をしたつもりではあるけれど、実際、満足がいく準備が出来たかというとそうでもない。伝え聞いた泥翅の脅威に対するには、どれだけ準備をしても足りているという気にはなれなかったし、そもそも影は少なくともあと二体もいるのだから。

 結果として、準備は万全でもなく時間も黄昏時という、最悪のどっちつかずになってしまった。幸先は幾分悪い。


 アンマリアの憂鬱を、レギンは鼻で軽く笑い飛ばした――いつものマスクのせいで、それはあまりに聞こえにくい皮肉だった。


『それほど気にすることじゃあないだろう、僕らはこれから地下に潜るんだぞ? 太陽がどれだけ高く昇っても、或いは沈んでいても、大した違いは無いさ』

「そうかもしれませんけれど、やはり気にはなります。例え数メートルの地面に阻まれていたとしても、太陽光が頭上にあるのとないのとでは、安心感が違うというものです」

『朝でも夜でも墓は墓だし、地下は地下だ。太陽でダメージを受ける怪物を見た数と同じくらい、幽霊が日光浴をしている姿を見たこともある。強いて言えば雨さえ降っていなければ良い。雨で増水した下水道を歩き回るのは、鼠でさえ嫌がるだろう』


 言いたいことは解るけれど、アンマリアは別に、迷信じみた太陽信仰を持っているわけではない。事実として泥翅は影に潜んでいるのだから、出来るだけ光が届くところで姿を探したいと思うのは、どう考えても合理的な判断だろう。

 何なら下水道を一旦掘り起こして、日中晒しておけば良いのではないだろうか。這い出てきた泥翅なら、奇襲を気にせず妖精たちが倒すことが出来るだろう。


『面白い考えだとは思う、酒場で酔っ払いを喜ばせる冗談としては、だがね』

 手慣れた様子で排水溝を外しつつ、レギンはアンマリアの考えを切り捨てた。『妖精たちに『あなたたちの足元は極めて危険です、伝説の怪物がうろついているんですよ』と喧伝するのがどれだけ馬鹿げた判断か、まさか解らないわけじゃあないだろうな?』

「泥翅は妖精にとって致命的ですけれど、あり得ない脅威ではないのでしょう? 伝承も伝わっているようですし、存在だけで大規模なパニックになるとは限らないじゃないですか」

『ならないとも限らない。それにもし、全ての地下に太陽を当てるのが有効だと妖精たちが判断したらどうなる? 連中は楽しみながら、あらゆるところを掘り起こして回るだろうさ、地上がどうなろうと気にも留めずにね』


 それは、アンマリアでも簡単に想像できる未来だった。

 そして忘れるべきではない情報として、今現在の妖精界の落ち着き様は、結局住人たちの気まぐれでしか支えられていないということ。妖精たちがいつものように気が変わったら、儚く消える夏の夜の夢に過ぎない。


『僕らは薄氷の上で焚火をしているに過ぎないと、思い出すべきだな。結局のところ、地道な駆除作業が最も効果的だということだ』

「妖精界に渡った魔術師にしては、随分と堅実なご意見ですね」

『君も魔術師の家にいたのなら、大戦後の情勢を見ただろう? 堅実にやることが今後は必要になるさ、どこで生きるにしろね。それに、上位妖精の覚えが良くなれば、ここでの生活も多少は気楽になる。与えられる仕事は下水掃除だがね。さあ、行くぞアンマリア、世界を救う時間だ』


 アンマリアはため息をついた。危険で、しかも面倒な仕事ではあるけれど、確かに世界のためにはなる仕事だ。









 下水道に降りるなり、アンマリアは猛烈な吐き気に襲われた。

 考えてみれば当然の話だった。寧ろ自分の鼻の良さと、下水道に入るという意味を結び付けて考えていなかったのは、完全に自業自得でさえあった。


『大丈夫か?』

 アンマリアは黙って首を振った。『まあ、そうだろうな。少し待て…………良し、これでどうだ?』


 軽く杖を振ったレギンに言われて、アンマリアは恐る恐る口を押えていた手を外した。慎重に空気を吸ってみて、驚いた。不快の極みみたいな臭いは、そこから綺麗さっぱりと消えていたのだ。


「魔術というのは、本当に、便利ですね」

『本来は解毒用の魔術だがね。砲弾さえ受け止める防御魔術への対策として毒ガス兵器が強化された結果、清浄な空気を確保する魔術が発達したというわけだ。全く、戦争というやつは研究と開発の祭典だな』

「聞いてみたかったのですけれど、レギン様は従軍経験がおありなのですか?」

『無駄な質問だな、アンマリア。この百年間に生まれた魔術師は、魔女も含めてだが、戦争に関係しなかったやつはいない――庭弄りのミスター・フォーシーズンや色彩の魔女カメレオンでさえ、参戦しないために死力を尽くす羽目になったんだからな』

「カメレオンの名は知っています、王国の美術館で目玉として扱われている作品の作者として、ですが」

『戦争の結果、彼女は王国で最も多くの作品を作った作者になったよ。王国兵士の軍服全てに欺瞞魔術を掛けることが、彼女の安寧の代償だったからな』

 レギンは何でもなさそうに言って、アンマリアの手元を見た。『それより気分が落ち着いたなら、渡したお守りアミュレットを用意してくれないか?』


 アンマリアも、過去の戦争の思い出話より目の前の危険に対する備えを優先させることにした。

 ハンドバッグから取り出したのは、銀製の香炉。磨き上げられた鎖の先に、握りこぶしくらいの大きさの球が付いている。球は良く見ると板を丸めたわけではなく、蔦が絡み合ったようなデザインで、蔦同士の隙間からは常に回転している光球が覗いている。

 周囲に淡い光を放つその魔具を、あらかじめ教えられた手順で起動する。銀に薄緑色の光が走り、続いて、魔力の籠った白煙が雲のように香炉を覆っていく。


『問題は無いようだな』

「えぇ。あとはこの雲に注意すれば良いのですよね?」

『結局護身の道具でしかない、それも使い捨てだ。あまり過信するなよ、一瞬身を守れる程度だからな』

「奇襲を防げるのはありがたいですね、セラ様も、危険なのは初撃を防げないことだと仰っていましたから」

『全くだ。逆に言えば、最初の一撃だけ防げればあとは、何とでもなる――影の姿では泥翅は非常に素早く、音も無く移動するがね。一旦実体化してしまえばあとは、普通の怪物と変わらない。腐りかけの妖精だからな、動きは寧ろ遅いし、魔力を喰う割には魔術そのものへの耐性は全くと言っていいほど無い。実際、最初の一撃さえどうにかしてしまえば、妖精だって泥翅を撃退するくらいは出来るんじゃないか?』

「そうかもしれません。でも、泥翅は感染するというのがレギン様の予想ですよね?」

『よく覚えているな、まあ、そうだ。勿論全ては風に揺れる無人の藪、考え過ぎているだけで、僕が撃破した泥翅で全ては終わっているのかもしれないがね』

「終わっていないかもしれない、でしょう? そしてその危険がある以上、妖精は積極的に矢面には立てないというわけですよね」

『十体で泥翅に挑んで、五体が泥翅になったら最悪だからな。まあ、本体の居場所は把握しているというのが妖精側の話だろうし、数が少ない内に僕らで処理してしまいたいところだな』


 行くぞ、と先に進むレギンの後を、アンマリアも続いていく。


 セラ・キールの話の通り、下水道は単純に作っただけで灯さえも設置されていなかった。通路を掘り出して壁にレンガを填めこみ、水路と通路を用意していただけの単純な作りである。

 入口の穴から入ってくる光から離れるとそこはもう真っ暗で、何も見えない。すかさずレギンが杖を振るい、頭上に光源を生み出した。

 光る海月のような形のゴーレムで、ゆったりと回転しながら漂う姿は中々愛嬌がある。反響する足音が二人分より明らかに多いことから察するに、暗闇の中にもゴーレムを配置しているのだろう――話していた、魔力補充用のゴーレムたちが隊列を組んでいる様を、アンマリアは想像した。


『僕が泥翅を倒したのは、この辺りだ』

 歩き出して直ぐに、レギンは言った。『急に襲い掛かってきたんだ、あの時はただ、逃げ切れないと悟ったが故の反撃だと思ったが――恐らくは、同類たちを庇おうとしたんだろう。見たまえ、壁や床が劣化している。魔力で生み出された素材だから、魔力を奪う習性のある泥翅が移動しているせいで、周囲の同じ素材よりも激しく劣化しているんだろう』


 膝をついて地面を調べたレギンは、立ち上がると奥へと進み始めた。

 そのあとを慌てて追いかけながら、アンマリアは半ば好奇心、残りは不安への対策として質問を投げかけた。


「そういう知性があるのでしょうか?」


 実際に口に出してから、幾つかの魔術を併用するために集中しながら、猟犬のように痕跡を探って追跡している魔術師に声を掛けても無視されるかもしれないという、当たり前の想像にアンマリアは一層不安になった。

 だが幸いにもレギンは、勿論追跡の片手間とはいえ、アンマリアの質問に反応を示してくれた。


『知性、と呼べるだけのものではないと思うな。セラ・キールの話では、最初の一体だけが自我を保っていたんだろう? 彼から生まれた連中にそれほど強力な意識が残っているとは思えないね』

 実際のところ、とレギンは続けた。『戦った経験から言わせてもらえば、やつには極めて原始的な衝動があるだけだろう。野生の動物が群れの仲間や仔を守ろうとするように、手負いの一体が残りの二体を庇うために我が身を差し出しただけの話だ。自己犠牲、と呼べるかどうかも怪しいところだよ』

「庇うのなら、怪我をした個体を庇いそうなものですが…………」

『ある種の集合的意思決定能力があるのかもしれないな。ミード家――生物を専門とした魔術の大家なんだが――その分家に当たるある魔術師が、昆虫を専門とする研究の結果提唱した概念でね。虫には我々のような知能は無いが、その分、個人的な欲求より群れ全体を意識した行動を採るのだという。群れ全体を一つの生命体として考え、全体が全体のための意思決定を行っているらしい。そうした個を超越した上位意志を、泥翅も持っているんじゃないかな』

「種族を守る意識…………それだけ聞くと、随分崇高な生物にも思えますね」

『完全な独裁制と考えるのなら、その考えも変わるかな? 群れを一つの生命体と考えるなら、我々でいう脳に当たる個体の意思決定が指先の個体を操作するわけだ。蜂にも蟻にも女王が存在する、群れを導くリーダーさ。その他全てがリーダーのために行動するとしたら、健全さとは程遠いよ』


 なるほど、とアンマリアはセラ・キールの話を思い出した。

 始まりの一羽、輝きの妖精。彼は強く、それ故に強欲だった。その強欲さから生み出された怪物たちが何かの、集合意識とやらに従うのだとしたらそれは間違いなく、自分勝手に堕落して他の妖精を呪った輝きの妖精の意識だろう。同情はするけれど、認めるわけにはいかない。


 そこまで考えて、アンマリアはある予想にたどり着いた。

 だがそれを口に出すより早く、『そういえば』とレギンの方が口を開いた。


『これは別に嫌味や皮肉というわけじゃあなく、必要だから聞くんだが。君、?』


 その問いは、アンマリアにとって最も聞きたくない質問だった。けれども同時に、考えなくてはならない疑問でもある。


 というよりも現実的には、レギンとしては地下に入る前に聞いておきたいことだっただろう。死地に赴くに当たって、唯一の味方が敵に怯えるかどうかは重要だ。

 アンマリアは、立場が逆だったらと想像した。

 怯え、竦み、動けなかった誰かが後ろからついてきていて、果たして頼りにできるかといえば全く、できない。どうせなら置き去りにして一人で行く方がマシだと、アンマリアなら思うだろう。


 それでもレギンは、アンマリアを連れてきた。確信を問うのも、こうして奥まで入ってから、そういえば、という程度の気軽な調子で尋ねている。

 多分期待しているのだろう、大丈夫だとアンマリアが答えることを。死の影は所詮子供の頃誰でも見る悪夢に過ぎないのだから、こうして目の前に現れた怪物を相手に、自分の身を守ることくらい簡単にできますよ、という答えを望んでいるのだろう。


 それでも。

 少し考えて、アンマリアは首を振った。


「…………わかりません」

 求められている答えではないと知りながら、アンマリアはそう言うしかなかった。「泥翅は妖精界に古くからいる怪物で、妖精だけを呪っています。影の中を進んでくるし、光を怖がるのなら、私が見た――母様を殺した死の影とは全く別の怪物だと思います。でも…………あまりにも、その姿は良く似ているんです」

『…………』

「理性に尋ねれば、大丈夫だと答えるでしょう。あれは別な怪物で、レギン様がそうしたように倒せる相手なのですから。何でしたら蹴り飛ばしてやりますよと答えるでしょう。では、心は? 似た怪物を目の前にして、同じように怯えないとは多分、答えられないと思います」

『…………』

「自信が無いのです、レギン様。私の心は既に一度、理性を裏切っています。二度繰り返さないとは言い切れないと言いますか…………」

『…………』

「…………レギン様?」

『…………すまないな、アンマリア』


 え、と思うよりも早く、アンマリアはに気が付いた。

 周囲の魔力が消えていく。ゴーレムの足音が乱れ、香炉の雲が薄くなっていく。


『君の気持ちが落ち着くのを待つつもりだったが…………どうやら、克服は実戦の中で行ってもらうことになりそうだ』

「っ!!」

『考えようによっては、良い機会だ。自分の恐怖に向き合うにはね』


 来るぞ、という言葉とどちらが早かっただろうか――泥翅がぞわりと、暗闇から飛び出してきた。

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