第5話死の影の歴史

 路地からアンマリアの家まではそれほど遠くは無く、幽霊馬アストラルホースの二輪馬車を呼ばず歩いても、気まずい雰囲気にならない内にたどり着けた。

 徒歩で済んだのは幸いだった。【煤と煙突の街】由来と思しき幽霊馬の馬車は馬自身の静けさが魅力ではあるけれど、基本的には空を飛ぶ性質の彼らに重荷を背負わせて慣れない地上を走らせるせいか、荷物の側にはそれほど好評な乗り物ではない。


「『銀熊亭』……?」

 吊られた看板の文字を読み上げて、セラ・キールは首を傾げた。「自宅で店を営んでいるのですか?」

「いいえ、まさか! 二階の一室をお借りしているんです、というのも、もともと店主の方は宿屋兼食事処にしようとしてらしたのですが、妖精を泊めて騒ぎを起こされるよりは私のように、纏まった額を支払える獣人に部屋を貸す方が賢明だと考え直したそうです」

「まあ、真っ当な妖精たちは自分の家を持っていますからね。わざわざ宿をとるような者たちはよっぽどの物好きか、或いは、女王の求めるレベルで労働することの出来ない者たちです。詰まり、近寄らない方が良い者たちだということですね」

 セラ・キールはごく自然に、そうした者たちへの立場を表明した。「一階は食堂なのですね、あまり衆目を集めたくはないのですけれど……」


 上位妖精が指摘した通り、銀熊亭はいつものように賑わっている。店主のサリムは、ヒト世界での食文化を巡る争いに疲れた天才料理人である、といつも喧伝していたけれど、少なくとも料理の腕は確かであった。獣人たちは勿論、本来食事を遊びとしか捉えられない妖精たちでさえ、彼のシチューを食べるためだけに大人しく順番を待つのだ。

 もっと上等な、金眼地区には更に美味い料理屋が確かにあるだろうけれど、サリムの腕前は彼らの看板料理人に勝るとも劣らない段階だと、もっぱらの評判だ。それに金額だって、けして安くは無いけれどこの辺りの住人ならまあ、週に二度くらいは奮発しても良いような額なことも評判の一因と言えるだろう。


 そんなわけで、仕込みを終える昼過ぎから夕方頃まで、銀熊亭は大いに賑わう。あまりに繁盛しているため、暇なときにはアンマリアにも手を貸してほしい、と依頼が来るほどだ。今は夕方四時、まさに大混雑している頃合いだ。アンマリア一人でもすんなりとは店内を抜けられないくらいに店は混んでいるだろうし、そこにセラ・キールのような有名人が加わっては、客たちの興味を引かないわけがない。


「大丈夫です、私のような住人用の、特別な入口がありますから……ふっ」


 アンマリアは周囲を確認して誰もいないことを確認すると、一息に跳び上がった。兎人の強靭な脚は僅かな力を込めただけで、彼女の身体を空中高くに運んでくれる。二階建ての家屋のベランダに音も無く着地し、アンマリアはセラ・キールに合図する。

 セラ・キールはその上品な顔に何か、常識的な小言を言いたそうな気配を浮かべた。とはいえ、このルートは彼女の求める、誰とも会わずに部屋へ入れるルートであることについてだけは異論の余地が無いと気付いたようだった。諦めるようにため息を吐き出すと、六枚の翅を震わせて浮かび上がり、ベランダに降り立った。


「どうぞ、セラ様。部屋の中なら落ち着いて話が出来ると思います」

「えぇ。ありがとう、アンマリア嬢」


 窓枠を乗り越えて入るという入室方法についてはもう、セラ・キールからは何の反応も返ってこなかった。諦めたのかもしれないし、こういう入り方もあるのだと思ったのかもしれない。

 セラ・キールに続いて部屋に入り、彼女に椅子を勧めると、キッチンへ向かう。


 そこで、悩む。


 アンマリアは貴族のもてなしにこそある程度の自信を持っていたけれど、妖精の貴族をもてなさなければならない現状に対しては、それほど自信満々とはいかなかった。というよりも、妖精をもてなすことに自信を持つようなやつは相当の楽天家か或いは、実際には妖精と茶を飲み交わしたことなど一度も無いか、どちらかだ。そして、アンマリアはどちらでもなかった。


「お茶のご用意でよろしいでしょうか、セラ様? もしお酒をご所望でしたら、あまりお力にはなれないのですけれど……」

「どちらでも構いません、アンマリア嬢。私たち妖精にとってはどちらも同じことですから。寧ろ貴女は、精神的に大変な目にあったと想像しています、それを癒すために必要なものをご用意ください。私たちは結局、人間の精神を健全に保つ方法を熟知しているとは言えませんからね」

「……では、お言葉に甘えさせていただきますわ、セラ様」


 魔石炉に火を入れて、湯を沸かす。ポットを温めてから来客用の、魔力で生成したものではない天然物の茶葉を入れて、再び湯を注ぎ入れる。

 同じように温めていたカップに二人分の紅茶を注いだ頃、セラ・キールが不思議そうに口を開いた。


「借りてらっしゃるのはこの一部屋だけですか?」

「えぇ、そうです」

「少し手狭ではありませんか? キッチンとリビング、それに向こうにはベッドが見えます。生活に必要なものは全て揃ってはいるようですけれど、その分、スペースが不足しているように思えます」

 セラ・キールはカップを受け取ると、不安そうな目つきで見上げてきた。「事件解決に際し私たちは、女王陛下の名の下貴女に褒賞を与えました――私たちなりに充分な額を用意したつもりでしたけれど、もしかして、不足があったのでしょうか?」

「いいえ、そんな! 滅相もありません、セラ様。私は充分以上に評価いただきました」

 慌てて、アンマリアは首を振った。

「ではどうして? 実際私たちは、自分の家を持てる程度の額として貴女への褒賞金を決めたのですが」


 アンマリアはカップを口に運んだ。

 味と香りを楽しみながら、内心をまとめていく。


「…………まあ、あまり落ち着かないのです。私はヒトの世界では、単なる一使用人に過ぎませんでした。自分のベッドがあるだけでもマシだというのが、私たちの在り方でしたから、今さら自分の家を持て、と言われても持て余すのが目に見えていますわ」

「なるほど。家とは自分が落ち着くための場所ですからね、それで落ち着けないのなら、本末転倒というものでしょう。とはいえこういう、他人の目を気にした話をしたい時もありますから。出来れば慣れていただきたいものですね」

「内緒の話というのは、死の影についてですね?」


 話が本題に入ったことを感じて、アンマリアは居住まいを正した。

 レギンの脅しが俄かに蘇る。アンマリアたちが出くわしたのは恐らく、この妖精界において最も危険な存在だろう。うろついているということを、あまり大袈裟にしたくはないはずだ。


「私たちは、【泥翅どろはね】と呼んでいます」

 セラ・キールは感情を努めて排除した様子で話した。「妖精たちの翅は魔力の結晶であり、同時に、剥き出しの魂に近いものです。それを汚染されてしまう、危険な存在なのです」

「レギン様は、あれを妖精『への』呪いだと言っていましたけれど…………」

「あの仮面の魔術師ですね。的確な分析だと言えるでしょう、優れた魔術師である証拠でしょうね。【泥翅】の始まりをお教えしましょうか?」

「えぇ、ぜひ」


 アンマリアは母ハーリスの教えを思い出していた――知ることは恐怖を遠ざける。知れることは全て知りなさい、恐怖はどんな毒よりもしつこく正確に、貴女を殺してしまうから。

 母の教えが全て正解だったとは言えないけれど、大切にしたい思い出ではあった。


「どんなものでもそうでしょうけれど、始まりはたった一枚の翅でした。彼は妖精の中ではかなり古く、美しい輝きと強い個性を持っていました――妖精の言う『個性』というのは詰まり、他所からの干渉を受けにくいという意味です。彼の翅は真夜中でも太陽のように光り、彼の一族が集まった時には、『地上に太陽が現れた』といわれるほどでした。妖精にとって光とは、安全を与えてくれるものです。私たちの寿命が尽きることを『影に捕まった』と言いますけれど、光の中にいればけして影には捕まりません。彼は、永遠を手にした妖精の一匹だったのです」

 ですが、とセラ・キールは心底残念そうに言った。「彼の翅は、通常の妖精たちとは別の影に捕まることとなりました。多くの妖精たちを捕えていたのは『退屈』という名前でしたが、その輝きの妖精を捕えたのは――『強欲』でした」


 黒い感情は、妖精の翅を黒く染めるのですと、セラ・キールは言った。

 感情が大きく重いほど、妖精の翅は曲がり、折れて、やがて腐ってしまうのですと。


「輝きの妖精はもっと輝きが欲しくなった、もっと多くの妖精たちに褒められ、認められたいと思ってしまった。我らが女王が幾ら諫めても、もう聞く耳を持ちませんでした。それで…………」

「…………影に捕まった」

「自分の自慢の翅が腐り始めてようやく、輝きの妖精は自らの過ちに気が付きました。けれども真にその価値に気付いたのは、もう少し後のこと。助けを求めて他の妖精の住処を訪れた時です。『どうか助けてください、友人。私のこの翅を、綺麗に洗ってほしいのです』…………そう言われた妖精は本当に嫌でしたが、輝きの妖精はその頃既に女王と同じくらい力を持っていました。彼に睨まれていては、結局、黒々と粘つく翅を洗うしか道はありません。

 そして、悲劇が起こりました。妖精が黒い翅に触れた瞬間、輝きの妖精は自分の中から何か大きなものが、ごぼりと蠢いたように感じました。池に落ちた獲物に鰻が襲い掛かるように、危険な怪物が心臓から翅へと泳いでいったのです。

 輝きの妖精の名誉のために言うのならば、警告の仕様も無かったでしょう。闇は光と同じくらい早い、あっという間に影は気の毒な妖精を呑み込んで、全く別のものへと作り変えました。影を集めたような薄っぺらい姿。折れてしな垂れた翅に、何かを求めるように伸ばされた枯れ枝のような腕。両目と口は最早木ので、見えているのかいないのか、蠢くばかりでした」


 想像する姿は、アンマリアにとって馴染みのある悪夢だった。それは三年の時を経て、現実の恐怖として新たに記憶へと刻み込まれたのだ。


「輝きの妖精は悲鳴を上げました。自分が生み出したものがあまりにも醜悪で、致命的で、救いの無いモノだと気が付いたのです。そして鏡を見るまでも無く、自分がその同類だと気が付いたのです。自分が妖精を汚すモノになり果てたのだと気付いた彼は、それでも、まだ救いがあると信じていました。何故なら自分には意識がある、考える力が残っている。単なる怪物ではない、怪物の親だとしても、妖精に近いところに踏みとどまっている筈だと。そして自分の力でそうすることが出来たのだと考えた彼は、更なる力の助力さえあれば再び妖精の側へ浮かび上がることが出来ると、輝きの妖精は確信したのです。自分と同じだけの力。それを持つ者は妖精界でただ一体だけ…………我らが女王陛下です。

 妖精は助けを求めました。陛下の前で平伏して、自分の背に蠢く翅を、妖精界で最も美しかったものの痕跡を見せつけました。『慈悲を!』輝きの妖精の声は、喉に水が溜まっているように籠っていました。『私の翅は今や腐り落ちる寸前です、陛下、最も強く尊き御方! 全ての妖精にそうするように、どうか、私の翅に再びの輝きを与えてください!』

 自分勝手だと思いますか? 妖精とはそういうものです、私もあの訴えを聞きましたけれど、どうということも思いませんでした。、そして陛下は最も妖精らしい御方なのです」


 アンマリアは勿論、妖精女王に拝謁したことはないけれど――今後もその機会が有ってほしいとは思えなかった。目に浮かぶようだった、哀れを訴える大妖精に対して女王陛下が向ける視線の冷たさが。


「陛下は勿論、輝きの妖精を救いませんでした。既に彼は、他の妖精を汚す影の素に成り果てたのです。慈悲を示すのならば間違いなく、その汚れごと消えてもらうべきでしたし、陛下はそうしました」

「処刑を、したのですか」

「非常に珍しいことだったと、申しておきます。多くの妖精の未来を守るための決断だったとも。誰もが陛下の決断を支持しました、ただ一体の妖精を除いて」

「それが、呪いになったのですね」

「輝きの妖精の死体は、魔力に戻れませんでした。陛下や周囲の我々に向けて呪詛の言葉を投げていた彼の肉体は、心の黒さがあふれ出たように辺りに致死性の泥を撒きながら、ずぶずぶと沈んでいきました。私たちは封印を施しましたが、汚れた土地から一定周期で影の眷属が生み出されるようになってしまったのです。魔力を食らう怪物、妖精を呪う怪物が、陛下の魔力以外では怯みもしない怪物が、夜の闇の中をうろつき回るようになったのです。その大本は結局、今でも朽ちることも無く、地面の奥底で妖精たちへの呪いを呟いていると言われています」

「伝説の正しさは証明されたわけですね」

「陛下の対策により、ここ数百年は大人しかったのですけれど…………どうやら、新たに目覚めたようですね」


 そして、妖精女王はその解決を望んでいるというわけかしら。

 アンマリアの疑問に、セラ・キールは憂鬱そうに頷いた。


「先ほども申し上げましたけれど、あれは妖精に向けられた呪いです。魔力の汚染が致命的な妖精にとって、影との相性は最悪に近い。どうか、追い払うのに力を貸していただきたいのです」

「力を、と言っても私は、単なる使用人の娘です」

「しかし、ハーリスの娘です。彼女が妖精界の出身であることを、私たちは勿論知っていますよ」

「母様は、別に…………」

「彼女が貴女に何を残したのかは知りません。ですが、彼女は私たちに信用を残した。そして貴女は既に一度、その信用の正しさを証明しています。アンマリア嬢、事態は急を要しますし、しかも、大袈裟にはふるまえない。能力と分別がある存在が必要なのです。どうか、お力添えを」


 頭を下げるセラ・キール。

 その申し出を断るには、彼女の背後にいる存在は強力に過ぎた。それに――。


「…………【泥翅】と、言うのですね?」


 死の影の正体を知れるのなら。

 この恐怖から逃れられるなら。

 それは、どんな黄金よりもアンマリアの助けになるだろう。

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