第4話死の影、黄金の灰

 影は一息に伸び上がり、瞬く間に二階のひさしにまで達していた。

 威嚇する蛇をアンマリアは連想した。細い体を精一杯反らして頭を持ち上げ、長い舌を震わせているあの姿。あながち遠い連想だと彼女は思わなかった、少なくとも幅の細さと、致命的な危機を知らせているという点では良く似ている。


集まり、阻めギャザー・トゥギャザー!」


 警告を発するよりも早く、レギンは自分の杖を構えていた。それどころか素早く呪文を唱えている、間違いなく自分の身を守るための呪文を。


 アンマリアは突然、実のところレギン・ブレンデッドの事を良く知らないという、ひどく当たり前の事実に直面していた。何しろ彼との出会いは出会い方こそ衝撃的ではあったけれど、時間としてはほんの一年前からでしかない。時間はヒトの関係を深める唯一の方法というわけではないけれど、相手を知る機会に恵まれるためにはやはり時間は必要となる。

 間違いなく今まで、アンマリアは魔術師の友人がどれくらい戦闘行為に慣れ親しんでいるのかを知らなかった。先の事件で彼が果たした役割といえば専ら頭脳労働で、ヒト世界で流行っていた小説に出てくる名探偵のように駆け回る兎少女の話を聞いて、その都度、次に駆け回る場所を示すコンパス――どころか順序立てて手順を示したレシピを材料も含めて置いておくような、微に入り細を穿つ正確さで解決までの道筋を与えてくれていた。


 矢面に立つのは基本的には自分だった。だからアンマリアは勝手に、レギンが戦いに慣れていないものと勘違いしていた。けれども、魔術師は見事に対応した――追跡しようとした相手からの予期せぬ反撃に応じて、瞬間的に防御の魔術を展開したのだから、全く大したものだろう。もしかしたら、ほかの多くの魔術師と同じように彼も、七大国を巻き込んだ世界大戦に参戦していたのかもしれない。

 アンマリアの想像は実際のところ当たってはいなかったけれど、大外れというわけでもなかった。レギンは単純に魔術を研究するばかりではなく、それを実践的に活用するタイプの魔術師であった。


 だから――

 彼女は考えるべきだった。これなら大丈夫と足を止めるのではなく、もう少し慎重に考察するべきだったのだ。


 と。


「っ!!」


 選択が間違っていたと最初に気が付いたのは、他でもないレギン自身。

 当然と言えば当然だ、防御のために発動させた魔術は反射的ではあったが故に自分が最も慣れ親しんだもの。その成立過程に異常が生じれば、それがどれほど些細な異常であったとしても絶対に気付く。


「…………?」


 次いで気が付いたのは、アンマリア。

 彼女の鼻が嗅ぎ分けたのはレギンの魔力の匂い。肌を焼く日差しと乾ききった強い風に晒されて砕ける寸前の岩のような匂いの魔力が、彼の唱える呪文に応じて渦を巻きながら杖へと集まり、そして――


 そして影が、気付いたかどうか。

 意思疎通を許さないその異形は、振り上げた拳をそうするように、伸び上がった身体を勢いよく目の前の青年に叩きつけた。相手が防御しているかどうか気にした様子の無いためらいの無さは、まさしく怪物の所業だった。


「くそっ!」

「レギン様っ!?」


 ドン、という重低音と共に、レギンの身体が沈む。

 膝をついた彼を横殴りの追撃が襲う。

 背中から壁に打ち付けられたレギンの顔からマスクが弾け飛び、露になった口から、ごぼっという異音と共に血の塊が吐き出される。宙を舞う鮮血がやけにゆっくりと放物線を描いていく。自然とその動きをアンマリアは目で追って、


 


 正確にそれが眼なのかどうか、アンマリアにはわからなかったけれど。

 ヒトならば目があるであろう位置に二つ開いた穴が、呼吸でもするように交互に蠢く虚空がぎょろりと、アンマリアを見た。

 単なる反射だったのかもしれない、不規則に動く穴がたまたま適当な位置と角度をもって、アンマリアにありもしない視線を感じさせたのかもしれない。けれども兎人の少女の世界の中で、確かに影は彼女を見たのだ。


 息が詰まる。

 足が凍る。

 心臓が大きく深呼吸して、全身から血を奪っていく。


 あれは無。あれは影。あれは死。


 視界が色を失って、耳から音が消えていき、脳裏に幾つも重なった母様の死に顔が繰り返し繰り返し、埋められては掘り起こされていく。

 過去の記憶が鎖のように身体中に巻き付いて、それが何倍にも膨れ上がってアンマリアは一切身動きが出来なくなっていく。


 動かなくちゃとは、アンマリアにも解っている。レギンは動けず、魔術は使えない。身を守る手段が無い魔術師の友人は、影がその気になればいつでも八つ裂きにされるような位置にいる。この路地には自分たちしかいない、助けられるのはアンマリアしかいない。彼女の脚が動かなければ、レギンの心臓も二度と動かなくなるだろう。解っている、そんなことは勿論解っている。


 だけど、あれは死の影だ。


 母様は死んだ、あの影に捕まったから。あの、枯れ枝のような両手に包まれて、母様の命の灯は消えたのだ。あぁ、あぁ、あれが死なら。鎌を構えた死神の、その影だというのなら、どうやって逃げ出せばいいのだろう?


 脚は動かない。

 アンマリアが動けないことを見て取ったように、影は再びレギンへと興味を戻す。壁に半ば埋まった彼はそれでも果敢に杖を掲げたけれど、臨戦態勢となった影の周囲には全く魔力が残っていない。魔力が無ければ魔術は使えない。魔術が使えなければ――魔術師の死の運命は避けられないだろう。


 明確に差し迫った危機にアンマリアは思わず目を閉じた。

 それから耳を澄ます、影の一撃がレギンの命を消す、その瞬間の音を聞こうとするように。


「『照らせ』」


 代わりに聞こえたのは、短い、けれども底知れない力のこもった言葉。

 次の瞬間。

 何も無かった路地に黄金の魔力が吹き荒れた。









「…………え?」


 開いた目に映ったのは、奇跡と呼ぶしかないような光景だった。

 壁は壊れレギンは磔にされているけれど、その首を刎ねる寸前だった影は跡形も無く消えていた。

 路地にはいつもの魔力が戻っていて、どこからか妖精たちの談笑も聞こえてくる。あっという間に日常が戻ってきていた。痕跡は当人たちの傷とそして、


「何とか、間に合いましたね」


 


 彼女はいつものように、白い灰の匂いを漂わせていた。

 純白の、シンプルなローブをすっぽりと被った小柄な妖精。アンマリアの半分くらいの年齢にしか見えない童顔と体格だけれど、実際にはもっと年上であることを、アンマリアは既に知っている。


【竜の骨】のセラセラ・キール様…………」

「ごきげんよう、アンマリア嬢」

 セラは肩越しに軽く頷くと、優雅に微笑みかけた。「無事なようで何よりです。全てが無事というわけではありませんが、貴女が無事というだけでとても、喜ばしい」


 咳き込むような音が、抗議のように鳴り響いた。

 ゲホゲホと血の混じった息を吐きながら、支えが消えて瓦礫と共に地面に転がっていたレギンが、大儀そうに身体を起こしている。


「レギン様! 生きてますか?」

「待ってください、アンマリア嬢」

 慌てて駆け寄ろうとしたアンマリアを遮ると、セラはレギンの少し手前まで移動した。「『泥』が残っている可能性がありますから」

「どろ、ですか?」

「あれに殴られていましたよね、となると、汚染されているかもしれませんから――

「…………勘弁してくれ」

 よろよろと、レギンが起き上がった。

「おや、もう起き上がれるのですか? えっと…………」

「レギンだ、レギン・ブレンデッド。こう見えてそれなりの魔術師でね、魔力が復活しさえすれば傷くらいは治せます、女王陛下の側近たる貴女の手を煩わせることはありませんよ」

「あら、失礼。以前お会いしたことがありましたか?」

「…………いいえ。貴女の見た目と、友人が呼んだ名前を聞いて解らない魔術師はこの街にいないでしょう、ミス・キール」


 レギンはコートの裾と帽子の汚れを払い、お手製の鴉顔を再び被る。その所作には遅滞が無く、汚れを除けばいつもと変わらないような身のこなしだった。セラは僅かに驚いた様子で、半透明の六枚羽を瞬かせた。


「なるほど。ヒトは結構脆いと思っていましたけれど、こういった呪いには強いのですね」

『呪い、か。妖精の呪いならお手上げだが、妖精『への』呪いならこんなものですよ。とはいえ、あのまま殴られていたら危なかったがね。実際助かりましたよ、この偶然に御礼を申し上げるべきでしょうね?』

「お気になさらず、魔術師さん。貴殿を助けたのは単なるついでですから」

『えぇ、そうだと思いました』

 レギンは肩を竦めると、ついっと顎でアンマリアを示した。『詰まり彼女は、君を探していたようだ、アンマリア』

「えっ?」

「察しが良くて素晴らしいですね。事態の重みも解ってくださっていると期待しますけれど、ブレンデッドさん」

『…………君と二人きりで話をしたいそうだ、アンマリア。僕はここの後始末をしていくから、その間に話を聞いてきたらどうだ?』

 レギンは何気ない素振りでアンマリアに近づくと、そっと耳打ちした。『…………状況が状況だ、他の妖精たちを混乱させるようなことを広めないことが一番だぞ、いいな?』


 なるほど、とアンマリアは頷いた。

 あの影は正しく妖精に害を為すものらしい、妖精女王の片腕と名高い彼女が動いているということは詰まり、相当の事態ということ。


『場合によっては、口留めもあり得るということだ』


 思わず、アンマリアは息を呑んだ。

 レギンは、まるで冗談だったかのように肩を震わせながらさっさと背を向けて、崩れた壁を直すべく杖を構えている。


「では、行きましょう」


 そんなセラの言葉にうすら寒いものを感じるくらいには、アンマリアには効果抜群の冗談だった。









『…………ふん』


 セラ・キールの魔力が充分遠ざかったのを確認してから、レギンは不愉快を吐き出した。勿論助かったことは助かったが…………それを偶然だと片付けるには、タイミングが完璧に過ぎた。

 間違いなくこの辺りに、あの上級妖精は何かあると張っていたのだ。さもなければあれだけ良いタイミングで、救世主よろしく登場することが出来るわけない。


 そして、アンマリア。


『彼女に用ということは間違いなく面倒ごとだろうが…………とすると、出発点はどこだ?』


 セラ・キールの忠節ぶりは、気ままさを美徳とする妖精たちの中ではとりわけ異質で話題になっている。彼女は生まれてこの方ずっと妖精女王に忠誠を誓い、彼女のためにあらゆることをするともっぱらの噂だし、それが単なる流言飛語ではないということを先の事件からレギンは知っていた。

 となると話の始まりは間違いなく妖精女王だが――そこにアンマリアを絡める理由は思いつかない。


『影を吹き飛ばしたのは黄金の魔力だった、だがセラ・キールの魔力は白灰だ。竜の骨の妖精だけあって格別の魔力だが、影に対抗するにはやはり女王の魔力を使ったのだろう』


 詰まりは、女王には影への対抗策があるということ。

 それを振るえば問答無用に影には対処できる、となると、そんな妖精界にとって致命的な事情をわざわざ獣人の少女に説明するわけがない。


『…………女王の懸念は、影ではないかもしれない、か…………』


 だが、それは。

 


『思ったより、まずい事態かもしれないか…………やれやれ』


 レギンはため息を吐いた。どうやら我が友人は今回も、ろくでもない話に巻き込まれつつあるらしい。そして最悪なことに、レギン自身もその渦に巻き込まれつつあった――少なくとも、命の危機にはこうして晒されている。

 壁を直しながら、魔術師は頭の中で幾つもの術式と必要な道具をリストに並べ始める。嵐の前に、備えは出来るだけしておくべきだということは、ヒトにも魔術師にも共通する金言の一つだとレギンは勿論知っている。


 重要なのは、アンマリアが知っているかどうかだが。


『…………』


 壁を直すと、レギンは軽く呼吸を整えた。

 それから手持ちの触媒と使える魔術を数え上げながら、道端の何気ない排水溝のことをじっと睨みつける。

 魔術師はそのまましばらく動かず、やがて、ある呪文を唱えた。

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