第10話地下の大空間
煤で覆われた姿との対比で有名な【いと白き鐘楼】や【背伸びする時計塔】、博物館。多くのヒトが故郷について語る時と同じように、アンマリアが【煤と煙突の街】について考える時、思い起こすのは全て地上の事だった。
しかしもし仮に、アンマリアが今後妖精界からヒトの世界に帰還したとして、その思い出を語る場合は間違いなく地下での冒険が含まれることになるだろう。それが良い思い出になるかそれとも、顔をしかめながら服にしみ込んだ下水の臭い――今は魔術で無視できているだけで糸の一本一本にまでしみ込んでいるだろう――をどうにかする方法を探す、嫌な思い出になるかは解らないけれど。
そしてもうすぐ、答えは出ることになる。
下水道の道のりは進むにつれてどんどん簡略化していった。
全く明かりが無く、魔術で光るクラゲを頭の上に浮かべなくては足元も覚束ないという点を除けば、探検と呼ぶのさえためらわれるくらいに楽な道のりだった。思い出を美化するのなら『入り組んだ』と言うべきだろうけれど、それにもしかしたらその前に、非常に、とでも付け加えることさえ必要かもしれないけれど、事実は事実だった。
「…………前に読んだ小説の中に、地下通路を進む場面がありました。架空の、と言っても多分【煤と煙突の街】の一区画をイメージした街に潜むある種の古代種族が、地下に本拠地を作っているんです」
『あぁ、【這う者と笛の音】だったか? 確かにあの中の一場面と今の僕らの状況は良く似ている。僕もあのシリーズは好きだった、作者が生きていればもっと魅力的な冒険を見れたと思うと、全く残念だよ』
「魔術師の方と小説の話が出来るとは思いませんでした、かつての主人の工房には本棚がありましたけれど、そこには魔導書ばかりでしたから」
『こういうと失礼になるがね、ポー氏とやらは多分魔術師としては
先を行くレギンは申し訳なさそうに、けれどもはっきりと言った。
アンマリアの立場としては複雑だった――既に放逐された勤め先だし、【偉大なる】ポー氏には恩が確かにあるけれどその数倍恨みもある。けれども、母様はそんなポー氏に仕えていたのだから、あまり侮辱するようなことを言われるのも嫌だった。
けれども、アンマリアは結局黙った。レギンの口調にも背中にも、そこからは断固とした意識が感じられたからだ。魔術師というものに対する、意識的な無関心さ。目を背ける、気にしないようにする、そんな風に己を縛るような決意が彼からはにじみ出ていたのだ。
「…………その、小説では、地下通路はもっと複雑な仕組みでした」
『そうだな』
アンマリアとレギンは示し合わせたように揃って、その話題を捨てた。『実際の【煤と煙突の街】の下水も、あれ以上に入り組んでいる。地図を見たことがあってね。元から複雑だったが、地下鉄道の建設のせいで余計にこじれたことになったんだが…………なるほど確かに、ここはそういったものとは無縁だな』
「末端では曲がり角が多く、中心に近付くほど単純になる――異常なほどに、わかりやすいですね」
『それはそうだろう、この下水道の来歴を聞いただろう? 妖精には本来必要のないものなんだ、しかも、彼らの嫌いな暗い地下だぞ。形だけ真似て、必要な機能を備えてさえいれば、それ以上のことは求めてないし作る気も無いんだろうさ』
「機能、というのはその…………排せつ物を処理することですよね?」
『淑女にそうした話をさせるのは忍びないが、そういうことだ。集めて、運んで、処理をする。恐らくはこの中心部分で、何か分解する機構があるんだろう』
「そこに泥翅は潜んでいると」
『おそらくは』
「どうしてでしょうか。いえ、それは勿論、太陽の光が届かないというのは居心地の良い場所だというのは解るのですけれど…………」
『ふむ…………』
レギンは周囲を観察しながら、幾つかの仮説を頭の中で検討しているようだった。
魔術師らしい様子だった。自分の中に貯め込んだ知識と知識とを組み合わせて全く新しい答えを導き出そうとするのは、夜空の星々を結び付けて絵を描くのにも似た、神秘的で壮大な創作活動だ。
足を止め、思考に沈む姿を見るのは好きだ。純粋な探求心が輝く芸術作品のようで、いつまでも見ていられる。
持参した水筒の中身を飲みながら少し待っていると、どうやら答えが出たらしく、レギンは低く唸り声をあげた。
『…………なるほどな』
「レギン様? 何かお分かりになったのですか?」
『何となくはな。少なくとも、泥翅がこの先にいる理由の一つは見当がついたよ』
「流石ですね、レギン様! それで、どのような理由ですか?」
『あまり気持ちの良い話ではないが。それのせいだよ』
レギンの指が示した先を見て、アンマリアは顔をしかめた。
明かりの届く範囲で見る限り、彼が示したのは排せつ物の浮かぶ汚水だった。勿論それが流れる溝のことかもしれなかったけれど、彼の厭そうな口振りからして、多分汚水の方だろう。
「えっと、もしかして、泥翅はこれを食べるんでしょうか…………?」
『可能性の話だが』
「あまり、その、詳しく聞きたくはない気分になってきました」
『妖精たちが汚水の分解をどのように捉えているかにもよるが…………ここの食事は全て魔力が籠っているだろう? その排せつ物も魔力が含まれているんじゃないかと思ったんだが、魔術師として視ると、やはりその通りだったよ』
「詳しく聞きたくないって話、聞いていただけました?」
『泥翅は魔力を奪う性質を持っている。自動的に魔力が含まれたものが流れてくる暗闇は、相当に居心地が良いのだろう…………或いは』
「レギン様?」
『…………いや、この先はわざわざ言う必要は無いだろう。何しろほら、もうすぐ答えが解るんだからな』
言葉の通り、少し歩いた先で水路は唐突に終わりを告げた。一瞬行き止まりかと思わせる程急に通路は縦に折れて、真っ直ぐ下へと向かっていたのだ。
『おそらくこの下が終着点だろう。位置的にも、女王陛下の城が頭上に当たる』
「これも魔法でしょうか。垂直に曲がってるのに、水の流れが変わらないなんて」
『恐らくはそうだろう。ここまでの水路も流れは一定だったから、面倒だから下水道全体にまとめて魔法をかけたんだろうね。まあ、跳ねたりしなくて有難いが』
「下へ向かいますか? こちらに梯子があるようですけれど」
『勿論降りるが、それほど悠長なことはしていられないな…………それに、両手が塞がった状態というのもあまり望ましくない』
「確かに、降りているときに奇襲されるのは危険ですけれど…………ではどうするのですか?」
レギンは答えず、アンマリアの隣に歩み寄ってきた。
無言で近づいてくる魔術師という光景をみて、アンマリアの脳裏に嫌な予感が去来した。降りる、けれども梯子を使わないという宣言もまた、予感を強めている。
「えっと、レギン様?」
『申し訳ないがね、アンマリア。何しろここは敵地で危険な場所だ。突入するなら迅速に行うのが鉄則だし、結局、それが最も安全な手段なんだ』
「それは何となく解りますけれど、えっと、詳しい内容を説明して頂いてからでも遅くは無いのかなと思うのですけれど…………」
『難しいことは無いよ。君はただ、舌を噛まないことだけ意識してくれ』
「舌をって…………きゃあっ?!」
突然レギンに引き寄せられ、思わずアンマリアは悲鳴を上げた。
魔力で強化されているのか華奢な見た目以上に力強く抱き寄せられ、右手で腰を、左手で頭を支えられる。顔がレギンの胸元に埋まり、匂いが、鼓動が直ぐ近くにある。この体勢は、まるで恋び…………、
『行くぞ』
ふわり、と身体が重力から解き放たれる。
え、と思うより早く、再び重力の手がアンマリアを捕えて引きずりおろそうとする――落ちている、と気付いた時にはもう、風が全力で走っているときみたいに耳元を吹き抜けていく。
「きゃあああああああっ!!!!」
悲鳴を置き去りにしながらアンマリアたちは落ちていく。
どれくらい、少なくとも息が続く間叫び続けていた。それでもあらゆることに終わりは来る、主観的には一生分の落下の後、レギンが何事か唱えた瞬間に悪夢は終わりを告げた。
ゆっくりと地面に着地する。アンマリアの両足がきちんとどちらも地面に着いたのを確認して、レギンは素早く離れていった。
名残惜しかっただろうか? 激しく鳴り響く心臓を抑えながらアンマリアは自問してみたけれど、だとしても、あの落下がこれ以上続くのには耐えられないという現実的な結論が出ただけだった。
息を整えて、スカートの裾を直してから、アンマリアは先に立つレギンに冷静さを意識した声を掛けた。
「…………着いたのですか、レギン様?」
『そのようだ。こっちだ、来てみろアンマリア。多分君が思ったのと違う光景が見られるぞ?』
「どういうことですか?」
説明するより見る方が早いというのが、レギンの考え方のようだった。
言葉を尽くして覚悟を決めてから向き合いたい派のアンマリアとしては不満が残ったけれど、ついさっき淑女としては消し去りたいほど恥ずかしい絶叫を聞かせてしまったせいで、あまり物分かりの悪い様子は見せたくなかった。
渋々進んで、レギンの横に並ぶ。
そして、アンマリアは思わずぽかんと口を開け放ってしまった。
「これは…………」
『どうやら』
レギンは肩を竦めながら皮肉な調子で言った。『当たって欲しくない方の予感が当たったようだ』
目の前、下水道の終着点。
そこは光で満たされた空間だった。
まるで、神殿のような場所だった。少なくとも漂う空気には清浄な魔力が満ちていて、見渡す限り真っ白なだけで、十字架や聖人像などの
アンマリアたちが来た道とは別に五本、合計で六本の滝が等間隔で並んでいて、床に落ちても跳ねることなく再び直角に曲がり、水路に戻って中心へ向けて穏やかに流れている。
壁も床も純白の、見たことの無い素材で埋め尽くされていて、しかも顔が映るほど磨き上げられたそれらには一切の継ぎ目というものが無い。見えないくらい正確に敷石が填められているのか、それとも逆に、巨大な何かをくり抜いてこの場所が作られたのか。どちらでもあり得るとアンマリアは思った、何しろここは、妖精界で最も力を持つ妖精女王の城の地下だ。建築方法にも妖精が使える最高の技術を用いているだろうことは、想像に難くない。
そしてもし後者だった場合、元になった素材は恐ろしく巨大な何かだということに、アンマリアは思い至った。反対側の壁まではレギンの家が十軒以上建つほどの距離があるし、見上げてみれば、天井まではその倍はある。
城が丸ごと地下にも建つのではないかと思えるほどの空間だった。
そこを丸ごと照らしているのは、天井から吊るされた巨大なシャンデリアだ。レギンが使役する光海月を逆さにしたようなデザインで、四方八方に垂れた触手の先には魔力の炎が灯っている。
『気付いたか? どうやら炎は
同じくシャンデリアを見上げたレギンが看破した。『というより、触媒か。『炎がある』という概念を利用して、『明るい』という結果を顕在化しているんだろう。でなければただの炎で、これだけの空間を明るくすることは出来ないからね』
「空気に清らかさを感じます。妖精に神がいるかは知りませんけれど、そういった信仰に相応しい場所のようにも見えますね」
『左右対称なせいだろう。昔から神殿というものはある種の完全性が求められる、左右対称、広い空間、素材の統一感。神そのものがいなくても、上位存在を意識させる建築というものは研究されてきた――ふむ、とすると…………ここは儀式場か?』
「ですが、妖精の城ですよね? 妖精にそんな大規模な儀式場が必要なのでしょうか、彼らは息をするように魔法を使いますよね? 効果を高めたり負担を軽減する儀式場なんて、作る意味がないと思うのですけれど…………」
『おや、案外詳しいな。その通り、儀式場を作るのは魔術師が大規模な魔術を行使する補助のためだ。だが妖精にはその必要が無い。だとすると考えられるのは三つだ。一つ目は、妖精がただそれっぽいから作ってみたという説だが、これについては無視しよう。考えてもしょうがないし、そうだった場合特に何の意味もない。二つ目はここを作ったのが妖精ではないという説』
「魔術師が建築に関わったということですか? それは、可能性が低いように感じますけれど…………」
『僕も同意見だ。他の場所ならともかく妖精女王が自分の城を作る時に、魔術師の意見を求めるとは考えにくい。それにこの街では、獣人にも魔術師にも建築を許可されてはいない。それなのに城の地下にというのは、少々飛躍した論理だと思う』
ということは。
アンマリアの考えを読んだように、レギンは頷いた。
『僕としては三番目の可能性が一番あり得ると思っている、そしてその場合、もう一つの疑問が解けるとも確信しているよ』
「もう一つの疑問、ですか?」
『おいおい、僕らがどうしてこんな嫌な思いをしてまで地下に来たのか、まさかもう忘れてしまったのか?』
あっ、とアンマリアは口を押えた。
礼儀作法を知る王国淑女としては最大限の驚きに、レギンは重々しく頷いた。
『こんな明るいところに泥翅が潜んでいるわけがない。それなのに僕の魔術は、泥翅の居場所をここだと指定している――この矛盾を解く鍵は、賭けても良いが、この部屋の最も重要な部分にある。中央に置かれた、あの台座さ』
レギンに促された先、部屋の中心に当たる位置には確かに、六つの水路が流れ込む六角形の台座が一つ見えている。
『この部屋の全てがあの台座のためにある、そう僕には分析できる。行ってみるしかないだろう、アンマリア?』
「…………もう落ちないんでしたら、どこへでも」
差し出されたレギンの手を軽く握ると、二人は慎重な足取りで部屋の中心へと進んでいった。
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