第1話ラヴィのアンマリア

 妖精界の空は今日も青かった。


 【煤と煙突の町】の悪名高き曇り空の下で育った兎人ラヴィのアンマリアは絵本の中でしか見たことの無いような、いわゆる抜けるような青空というやつだ。空に黒煙を吐き出す工場が無いからこれほど綺麗な青色になるのか、それとも、妖精たちの魔法で青くしているのか。他の国の空を見たことの無いアンマリアにはこの、美しい青空が本物か作りものかなんて、全くわからなかった。


 そうね、とアンマリアは思う。

 例えば妖精たちなら、『空を青くする』の無駄遣いとしか思えない魔法でも、きっと大喜びで使うだろう。何しろ妖精という生き物は、安物の偽造酒を三日三晩飲み続けたみたいに、楽しいことを大騒ぎしながらする連中だ。面白そうと思ったらどんな労力でも払うし、それが突飛な、馬鹿々々しいものであればあるほど、彼らは熱狂する。

 しかも、妖精には魔法がある――魔力で満ち溢れた妖精界においては、無限に油を注がれるランプのように、魔法の力には限りが無い。効能の幅広さと妖精の性格を併せて考えれば、火事にならないことを祈るばかりである。


 とはいえ治安が悪いかというとそうでもなく、少なくとも空は晴れていて、銀舌地区の目抜き通りも活気であふれている。果物や香辛料を売る獣人たちの出店や、それを真似する妖精たちので賑わう通りの様子は、大戦終結後の不況にあえぐ【煤と煙突の町】ではけして見られない光景だ。

 何しろ妖精たちは楽しいことが好きで、目新しいことが大好きだ。『波と霧の向こう』からやって来るヒトの世界の文化にここ千年くらいは首ったけで、特に商売というか、物品と金の交換というシステムに魅了されている。

 おかげで妖精たちは、『経済と政治を円滑に回す』という現実では机上の空論と一笑に付されるような目的に向けて、日夜精いっぱい楽しんでいるのだ。それを妨害する犯罪いたずらには激しい嫌悪と拒絶を示すし、あまつさえ『妖精騎士団』という警察機構が存在すると知った時には、アンマリアは思わず笑ってしまったほどだ。規律と秩序を守るなんて意識が、妖精の中に真似事でも存在しているとは全く驚きだった。


 まあ、所詮は飽きっぽい妖精たちの気まぐれ。

 あと何年この平和的なお遊びが続くかは解らないけれど――今のところアンマリアのような獣人たちにとっては、貴族の使用人が精々というヒト世界よりも遥かに居心地の良い世界となっている。


 通りのガラス窓に映る自分の姿を、アンマリアは眺める。

 深紅の鹿打ち帽子を乗せた頭には空へと伸びる長い耳に、素朴な栗色の癖毛。ヒトより少しばかりツンと突き出した鼻の上には銀縁の眼鏡が乗って、視力の弱い赤目が必要以上に険しくなることを防いでいる。

 そして、兎人らしく長い脚と、すらりとした体。助走なく身長の二倍以上跳び上がることのできる恵まれた肉体を包んでいるのは、彼女の出身地ではけして許されなかったであろう服装、詰まりはズボンにベスト、ジャケットという装いだった。王国では女性はドレスかスカートを履くことを強制されていた、使用人だったアンマリアも例外ではなく、毎日着るのに三十分以上かかる上に動きにくい作業用ドレスを着させられていたものだった。それが、ここでは服装は自由である。あの忌々しいコルセットを締める機会が永遠に失われたことだけでも、妖精界は全く秩序神教会が謳う天国のような場所だった。


 それに、帽子!

 アンマリアは鏡の中で、帽子の角度がしっくりきているかをじっくりと確認した。この鋭さと柔らかさを両立させたデザインの帽子の着用機会が紳士の狩猟用に限定されていると知った時のアンマリアが感じた身を焦がすような怒りは、使用人を顧みない傲慢な元ご主人様が、彼女のためだけにプディングケーキを用意させた程激しいものだった。


 それが今では自由。好きな時に好きな場所へ、好きなだけこの美しい帽子を乗せてやることが出来る。妖精界はまさしく天国以上だわと、アンマリアは思う。きっと神様の前では帽子は脱がないと失礼に当たるだろうから。


「…………ん?」


 うきうきと帽子の位置を調節し、その流線形が描く彼女にしか見えない光のラインを楽しんでいたアンマリアは、少ししてに気が付いた。

 最初は何か、シミか何かかと思った。反転した世界、きょとんと見詰める兎人の少女、その背後に広がる町並み、騒々しい通りの景色にぽつりと、黒が一滴存在している。家と家との間の小道にぼんやりと黒い影が立っているのだ――漆黒というわけではなく布に木炭をぐりぐりと押し付けたような、輪郭のはっきりとしない曖昧な、何となくヒト型に見える影。

 にじっと見詰められているとアンマリアが気付いた瞬間に、影は、ぬぐい取ったように姿を消した。


「…………」


 どっどっどっど、心臓の音が今さら聞こえてきた。

 鈍い痛みを伴う鼓動を聞きながら、アンマリアは自分が呼吸を忘れていたことにようやく気が付いた。

 それから、どうして、と呟く。

 


 あの、書き損じみたいな影が生活の端にちらつき始めたのは、アンマリアの母ハーリスがまだ生きていた頃だった。今の半分くらいの年齢だったアンマリアは、視界の端でちらつき、けれどもそちらへと視線を向けると跡形もなく消えてしまう影にひどく怯えていた。変なものだ、不思議だな、そんな感想を通り越して彼女は影に対して途方もない、掴みどころの見えない不安を覚えたのだ。


 他人にはどうやら見えていないということも、幼子の恐怖を煽った。

 いつも難しい顔をして難しい本を読んでいるご主人も、いつも母親をいじめる厭な奥様も、いつもこちらを馬鹿にしてくる魔術師のお嬢様も、使用人仲間も肉屋の配達人も郵便屋も誰も彼も、アンマリアの不安を共有してはくれなかった――いつも優しい母様でさえも。

 怯え震え泣き喚く娘に対してハーリスは慈悲深く、或いは忍耐強く接していたけれど、その恐怖の根本を理解することは無かった。彼女は生まれこそ妖精界だったけれど、魔力の代わりに煤に塗れた空気を吸い続ける内に神秘への適応力を失い、そうした奇妙な現象を認識することが出来なかったのだ。


 代わりにハーリスが得たのは、重篤な航海風邪だった。


 クードロンからの貿易船がもたらした流行病に感染した彼女は、周囲の――意外なほどの――献身的な看病をもってしても自らの運命に抗うことは出来なかった。

 徐々に弱り、肉体も魂も枯れ行く母親の傍らでアンマリアは更に、怯えを濃くしていた。影が、五年以上の間常にこちらの様子を遠巻きに窺うばかりだったあの影が、日に日に近づいてきていたからだ。

 今日は昨日より柱一本分。

 次の日、カーテンの隙間がいつもより広く開いている。

 その次の日、ドアが勝手に開いた。

 その次の次の日、その次の次の次の日…………影は音も無く、けれども一度目を離すとあっという間に、その距離を詰めてくる。その、顔に当たる部分にぽっかりと、影の中でも尚暗い穴が二つ開いていて、それが呼吸でもするように縮んだり広がったりを繰り返している様が見分けられる距離になった夜から、アンマリアは寝ることを止めた。


 眼を離さず警戒し、影の接近を拒もうとした。なんとなく、そう、本当に何となく。妖精界生まれの母から受け継いだ神秘に対する防衛本能が、『触れられたら終わりだ』と告げていた。

 脛をつねり、手のひらに爪を突き立てて、目の下にすり下ろした唐辛子を塗ってまで眠気に耐えた。

 そこまでやっても影は、瞬きの内に近づいてきた。そして――二年前のあの日、母様に影が触れた。


 次の日母様は目を覚まさなかった。そして、あの影はどこにもいなくなっていた。

 母親の死と同時に影が消えたことは、アンマリアに鈍い衝撃を与えた。あれほどしつこく追いかけてきた影が、もうどこにもいない。あれだけ一緒にいた母親が、この世のどこにももういないのと同じように。

 そのせいだろうか。

 棺桶の中に横たわる彼女の閉じた瞼の奥にあの、影より暗い影があるような気がして、アンマリアは、母親の死に顔を良く見られなかった。









「あれは、『死の影』でした」


 麗しき女王陛下の【白金の城プラチナム】周辺から二等級下がった銀舌地区の一角。大通りからだいぶ離れた、位置としては寧ろ銅骨地区に近いような土地にわざわざ居を構える変わり者の魔術師、レギン・ブレンデッドの家でアンマリアは、自らが見たものをそう呼んだ。


「死の影」

 レギンは、手元の本から目を離さずにそう繰り返した。「聞いたことが無いな」

「読んだこともありませんか?」

「それはもしかして皮肉のつもりか?」


 アンマリアは答えず、家人の性質を反映したように混沌とした応接間を注意深く抜けて、奥のキッチンへ勝手に入っていく。流しには使い終わった食器が山と積まれていて、少女にため息を吐かせた。


「ポットはどこですか、それと茶葉は?」

「水を沸騰させる道具なら、その辺りにある鍋を使うと良い。茶葉は、『ミトランジュ』に言ってくれ」

「水はちゃんと出ますよね?」

「一昨日は確か出た」


 もう一度、アンマリアはため息を吐いた。


 魔術師の家で勤めた経験上解ってはいたけれど、彼ら神秘の担い手はとにかく生活能力が無い。ほとんどの魔術師が貴族であり、詰まりは使用人を雇うことが当然であるから――だけではなくもっと根本的な部分で、魔術師はヒトとしての生活習慣を軽く扱いがちなのだ。

 魔術を磨くことが最優先で掃除や買い物なんかどうでもよい、そんな風に考えて実行する魔術師がほとんど。そもそも魔力によって肉体が活性化するからあまり腹が減らず、喉も乾かないのだとかつてのご主人は教えてくれた。曰く一流の魔術師であれば、人間的な欲求の全てを魔術の支配下におけるのだと。

 今では、ヒトの世界には魔力があまり残っていないから食事も必要だけれど、もっと昔、神様が地上にいた頃は魔術師ならばただ息をするだけで、簡単に何百年も生きていけたのだと、そんな風に話すご主人は誇らしげで、同時に寂しそうだった。


 そう考えるのなら、ここ妖精界では魔術師は生活をする必要がない――魔力で満ちた、それどころかほとんどの自然が魔力で出来ているこの世界において、彼らは風を飲み雲を食べて生きていけるのだろう。


「じゃあどうして皿を使うのかしら、洗いもしないのに」

「僕も一応は文明社会出身なのでね」

 結局様子を見に来たのか、のそのそと歩いてきたレギンは窓から手を伸ばし、直ぐに戻した。「魔力だけで生きていけるような魔術師はもう、人間という枠組みに入れることは出来ないような存在になる」


 そら茶葉だ、と一握りの葉をアンマリアに渡すと、レギンは積み重ねた食器に向き合い、いつの間にか手にしていた漆塗りの魔杖を一振りした。キイイイン、という耳障りな音と共に魔力がレギンの杖に集まり、そのナイフほどの長さの棒から振るった勢いで拡がると、怠惰な生活の痕跡を包み込む。


「『剥がれよディビルド』」


 魔力が泡となり、次の瞬間には弾けて消えた。同時に汚れも弾け飛んだようで、食器は新品同様の輝きを取り戻している。


「それが出来るのなら、なぜ洗い物を溜めるのですか?」

「出来るから溜めてるんだよ。皿の一枚だろうが十枚だろうが、労力としては大して変わらないんだから、出来るだけ多くを一度に片付ける方が合理的だ」

「それはそうかもしれませんが……汚れた物が家の中にある状態って気持ちが悪くありませんか?」

「…………慣れたよ。それより、ほら。ポットがあった」

「ありがとうございます。では、レギン様は向こうの部屋を片付けてください。あれではお茶会も出来ませんよ」

「向こうの部屋? あぁ、あれは充分片付いている」

「…………は?」

「魔導書も魔具も触媒も、全て使いやすいように置いてあるんだ。あれはあれで完璧な理論に基づいた最高効率の配置で」

「レギン様?」


 アンマリアの冷ややかな声が、得意げな魔術師に突き刺さった。

 それから、少女の鋭い視線がレギンの新緑色の瞳を射抜く。レギンは細い指を髪に当てたり黒樫の杖を指で回したり色々不審な挙動をした挙句、敗北を悟ったように大きく肩を落とした。


「…………わかったよ」


 疲労と不満を背負い、それらを諦めたような足取りの重さで戻っていくレギンの背中を見送ると、アンマリアは茶を淹れる準備に取り掛かった。

 茶菓子も必要だろう。これからあの魔術師には聞いてもらいたい話がある、しかも、それはけして短い話ではないのだから。

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