第126話:伊邪那美命の後悔

 刀身に浮かび上がった八岐大蛇やまたのおろちは、眠りから覚めたかのごとくうごめいている。


 八つの頭がそれぞれの顎門あぎとを大きく開き、刀身内をい回っている。



風向織斗かざむかいおりと、剣を置いた肩に痛みが走るであろう。心して備えよ≫



 言葉が終わるや、かすかに痛みが走った。これで終わりかと安心した矢先、比べようもないほどの激痛が一気に襲いかかってきた。


 息ができない。猛毒を持った生物にまれたら、こんな感じだろうか。これまでの人生で経験のない痛みが全身をむしばむ。


 織斗は意識を失いそうになりながらも、必死にこらえる。



≪優季奈ちゃん、優季奈ちゃん≫



 真っ先に想い浮かんだのは、誰よりも大切な優季奈の顔だ。



≪貴様の想いはその程度か。それでは到底、主の試練には耐えられぬ。ここで終わりにしてしまうのか≫



 抑揚のない口調ながら、熱がひしひしと伝わってくる。


 織斗はとりわけ素戔嗚尊すさのおのみことの神話が好きで、何度も読み返してきた。あくまで空想、書籍の中での話にすぎない。素戔嗚尊すさのおのみことの心の想いまで分かるとは言いがたい。


 あらぶる神とも呼ばれ、その粗暴さも際立つ。それでも素戔嗚尊すさのおのみことがどこまで純真で、強く優しい心の持ち主だと織斗は信じている。



(素戔嗚尊すさのおのみこと様の熱い想いが伝わってくる。そうだ。この程度の痛み、優季奈ちゃんを失って、両親に迷惑をかけ続けたあの長い年月に比べれも何でもない。俺は優季奈ちゃんと一緒に必ず現世うつしよに戻るんだ)



 二人の神に筒抜けでも構わない。織斗は心の底から想いを吐露とろした。



「俺は必ず優季奈ちゃんのもとへ帰るんだ」



 織斗の叫びは、身体を侵食していた痛みを瞬時に振り払っていた。


 冷たい床に両手をついたまま、肩が大きく上下している。聞こえてくるのは織斗の荒い息づかいだけだ。



≪よくぞこらえた。それでこそ、我が見込んだ男だけのことはある≫



 天叢雲剣あめのむらくものつるぎさやに納めた素戔嗚尊すさのおのみことは両腕を組んで、満足げに織斗の背中に目を向けている。



「風向織斗、見事でした」



 そこには様々な意味がめられている。伊邪那美命いざなみのみことがあえて口にする必要もない。織斗がさとい者だと承知している。


 察しているに違いない。察していないなら、伊邪那美命いざなみのみこと神眼しんがんに狂いが生じているということにほかならない。幽世かくりよにおいて、それは絶対にありない。



「我が息子よ、天叢雲剣あめのむらくものつるぎの加護は確かにこの者の魂に刻まれましたね」



 伊邪那美命いざなみのみことには間違いなくえていたはずだ。そのうえであえて確認を求めてきている。尋常ならざる事態に素戔嗚尊すさのおのみこともいささか戸惑いが隠しきれない。



「母上殿、間違いなく、確実に。この者の魂に加護の力は定着しております」



 御簾みすの奥でこれまで座していた伊邪那美命いざなみのみことが、ここで初めて立ち上がる。



「よろしい。それでは始めます。風向織斗、そなたにやってほしいことをこれから聞かせます」



 素戔嗚尊すさのおのみこと固唾かたずを飲んで、事の成り行きを凝視している。



おもてを上げなさい」



 織斗がおもむろに顔を上げ、御簾の奥に視線を合わせた瞬間だった。



≪まさか、母上殿、四神しじんを≫



 素戔嗚尊すさのおのみことの声が届く前に、御簾が最後の回転を終えていた。


 織斗の眼前には四面目が立ちはだかっている。そこに浮かぶのは四神最強ともうたわれる玄武げんぶの姿だった。


 四神を見た者は、あまね幽世かくりよの住人となる。伊邪那美命いざなみのみことの言葉だ。


 その言葉どおり、織斗は玄武の四つの瞳にあてられ、そのまま前のめりに倒れていった。



 黄泉殿よみでんが静まり返っている。


 これ以上ないというほどの澄んだ冷気と霊気が殿内を満たしていく。織斗は微動だにしない。



 伊邪那美命いざなみのみこと素戔嗚尊すさのおのみことも、黙したまま待っている。二人の神だけが理解する、その瞬間をだ。


 やがて織斗の身体にも冷気と霊気がまとわりつき、静かに包み込んでいった。



「我が息子よ、風向織斗の魂はそなたに託します。天叢雲剣あめのむらくものつるぎの加護がある限り、滅びる心配もないでしょう。私が必要とするのは、この者の身体のみです」



 織斗の心臓部分から静かに魂が浮かび上がってくる。素戔嗚尊すさのおのみことの力、天叢雲剣あめのむらくものつるぎの加護によって守られた織斗の魂はただよいながら、素戔嗚尊すさのおのみことのもとへ吸い寄せられていく。



「母上殿、しかと承りました。風向織斗の魂は我が預かっておきましょう」



 路川橙一朗みちかわとういちろうの秘術で魂を封じた死せる玉は、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめによる清浄せいじょう神酒しんしゅによって効力を失っている。今の状態はいわば丸裸、しかも本来の一割程度の存在でしかない。


 あまりに弱すぎるがゆえ幽世かくりよでは一瞬にして消滅してしまう。だからこそ、天叢雲剣あめのむらくものつるぎの加護が必要であり、伊邪那美命いざなみのみこと素戔嗚尊すさのおのみことに許しを与えたのだ。


 伊邪那美命いざなみのみことは幽世をべる女神だ。死者の魂は自らが扱う。


 生者せいじゃの魂はそうはいかない。仮に伊邪那美命いざなみのみことが生者の魂に触れたら、その時点で魂は幽世の仲間入りとなる。触れるわけにはいかないのだ。



「母上殿、お尋ねしてもよろしいでしょうか」



 何を聞きたいかなど、伊邪那美命いざなみのみことには当然分かっている。早々に済ませるべく、自らが答える。



「風向織斗の身体を用いて、ある者の魂を降ろします。我が息子よ、私は後悔しているのです」



 素戔嗚尊すさのおのみことは静かに目を閉じ、伊邪那美命いざなみのみことの紡ぎ出す語りに耳を傾けている。



「ある男がいました。男の想い人は既に幽世の住人となっていました。私にとっては、数多あまたいる中の一人にすぎません。気にもめていませんでした。偶然にも、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ櫻樹おうじゅによって新たに産み落とされた彼女は、現世うつしよで男と再び邂逅かいこうしたのです」



 伊邪那美命いざなみのみことが御簾を開き、音もなく床に足を下ろす。ゆっくりと織斗と素戔嗚尊すさのおのみことのもとへ近付いていく。



「そなたなら、櫻樹によって産み落とされた命がどのような運命を辿たどるか、承知しているでしょう。そして、延命のための唯一の条件もです」



 伊邪那美命いざなみのみことは表情一つ変えず、それでいながらわずかながらに瞳が揺れている。素戔嗚尊すさのおのみことはいささか驚きつつも、ゆっくりと首を縦に振る。



「もちろんですとも、母上殿。して、二人は幽世に下ってきたのでしょうか。この風向織斗のように」



 伊邪那美命いざなみのみことはただ一度だけ首を横に振った。



「女は方々ほうぼう調べた末にようやく朔玖良さくら神社に行き着きました。宮司に条件を教えられた女は早速男のもとへと急ぎ、その方法を伝える。男はそれを境に、ようとして消息がつかめなくなってしまった」



 素戔嗚尊すさのおのみこと憤慨ふんがいしている。声の調子が一段階低くなる。



「許せぬ。死に恐れをなして逃げ出したか。何という情けない男であろうか」



 伊邪那美命いざなみのみことがここにきて初めてゆがんだかのように見えた。



「私も最初はそのように思っていました。真実は違うのです。私がそれを知ったのは、男が幽世の住人になってからでした」



 せないとばかりに素戔嗚尊すさのおのみことかぶりを振っている。


 たとえ現世で添い遂げられずとも、幽世では伊邪那美命いざなみのみことあるいは上位神のはからいさえあれば、寄り添うこともできるはずだ。




 男は、女から聞かされた話に最初こそおののいたものの、この先でまた逢瀬おうせを重ねることができると大いに喜んだ。


 いや、逢瀬ではなく、今度は堂々と逢えるかもしれない。それを考えると男の胸は躍った。


 問題がないわけではない。


 幽世と呼ばれる死者の世界に二人して行かねばならない。その方法も奇想天外だった。


 男は今を生きている。もしかしたら、二度と現世に戻れないかもしれない。それを考えると、両親や仲間たちに別れの挨拶あいさつをしておかなければならない。


 そこで男は女に一両日の猶予ゆうよをくれと頼み込み、女のもとを離れた。



 幽世に下るには条件がある。


 斎戒沐浴さいかいもくよく新月しんげつだ。よっておのずと日が決まる。寿命を全うするまでの間に、幾度かの機会が訪れる。


 女はひたすら男の帰りを待ち続けた。



「いくら待っても男は帰ってきませんでした。男は一両日という約束を守り、女のもとへと急いでいたのです。ですが、不幸が男を襲った。男はしんぞうに病をかかえていた。この者、風向織斗と同じです」



 素戔嗚尊すさのおのみことが小さくうなり声を発している。



「男が戻ってきて、二人して幽世に下る決意を固めているなら、私は男に恩寵おんちょうを与えるつもりでした。女を伴って私のもとにやってきた木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめからも頼まれていましたからね。その前に男は亡くなってしまった」



 これが伊邪那美命いざなみのみことにとっての後悔なのだろうか。素戔嗚尊すさのおのみことはどうにも納得できないとばかりに首をかしげている。



「女は桜、男は忠光ただみつといいます。現世では桜姫と呼ばれていたようですね。これが朔玖良神社に残された真櫻樹伝説の正体です。書かれている内容は半分以上が間違っていますが」

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月下に桜花濡れて天使降る 水無月 氷泉 @undinesylph

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