第125話:賢いのか愚かなのか

 織斗おりとは頭を上げられないまま、どのように行動すべきか決断が下せないでいる。



風向かざむかい織斗よ、我は貴様をここまで導いた影だ。我は貴様を気に入った。その褒美ほうびとして、一つだけ助言を与えてやろう≫



 突然、織斗の脳裏に野太い重低音の声が響き渡る。織斗は慌てて振り返ろうとしたところで、声に制止された。



≪振り返るでないわ。それに貴様に我の姿はとらえられぬ。そのまま聞いておれ≫



 幽世かくりよべる伊邪那美命いざなみのみことと変わらない威圧感が伝わってくる。


 何ものなのかと考える暇もないまま、次なる言葉が飛びこんでくる。



≪そもそもだ。貴様のいる現世うつしよの常識など、この幽世かくりよでは一切通用せぬ。全ては主たる伊邪那美命いざなみのみこと様の意思一つなのだ≫



 織斗は承知しているとばかりに心の中で小さくうなづく。



≪主が貴様に何をさせようとしているかは我にもわからぬ。そして、貴様の意思を優先させるつもりなど毛頭ない。賢明な貴様なことだ。主に逆らえばどうなるかなど、わかっているであろう。決して主の言葉にいなとなえるな。それが我にできる貴様への唯一の忠告だ≫



 織斗には絶対に譲れない願いがある。


 それをかなえられる可能性があるからこそ、幽世かくりよくんだりまで下りてきている。全ては優季奈のためだ。



≪忠告をありがとうございます。重々承知のうえで、俺は否を唱えるかもしれません。それがおろかだと笑われようともです。優季奈ちゃんのためになる命令なら俺は一も二もなく、伊邪那美命いざなみのみこと様のお言葉に従います≫



 頭を下げたままの織斗の背中を眺めながら、素戔嗚尊すさのおのみこと口角こうかくを上げている。



≪愚かだと笑われようともか。貴様は誠に面白いと言わざるを得ないが、主の真の恐ろしさを理解しておらぬ≫



 一喝いっかつとどろきとなって織斗の脳内をけ巡る。



幽世かくりよにおいて、貴様など吹けば飛ぶような存在にすぎぬ。主が軽く息を吹きかけるだけで、貴様は永久に幽世の住人と成り果てるのだ≫



 織斗の意思は固そうだ。素戔嗚尊すさのおのみことにもそれが見通せたのだろう。



≪もう一度だけ貴様に問おう。それでもなお、否を唱えるかもしれぬと言うのだな≫



 織斗は即答だった。



≪はい。覚悟のうえです。伊邪那美命いざなみのみこと様の怒りを買って、俺が幽世の住人になったとしても、それで俺の想いが、優季奈ちゃんが少しでも長く現世うつしよで生きられるのなら≫



 堂々と言い切った織斗に、素戔嗚尊すさのおのみことは何とも言いがたい表情を浮かべている。



≪貴様は賢いのか愚かなのか、わからなくなってきたわ。仮に貴様の願いが叶い、あの小娘が生き永らえたとして、貴様は現世に戻れぬやもしれぬ。それをあの小娘が喜ぶとでも想っておるのか≫



 まさしく、それこそが織斗の最大の懸念点けねんてんだった。素戔嗚尊すさのおのみことは見事に痛いところを的確に突いてきたわけだ。



≪そ、それは≫



 織斗の言葉がここにきて初めて淀む。



(俺はそれを望んでいるのか。俺のいない世界で優季奈ちゃんは。いや、優季奈ちゃんさえ幸せになってくれるなら)



 本当にそうなのだろうか。


 優季奈の望みもまた織斗と共にいることだ。少なくとも織斗は信じている。


 何よりも、二人の間には月下の誓いがある。うぬぼれでも何でもない。織斗は二人で残りの人生を歩もうと誓ったのだ。一人が欠ける人生はあってはならない。



≪承知しています。優季奈ちゃんは悲しむでしょうね。優季奈ちゃんは幼い頃からずっと病で苦しんできました。わずか十五年に満たない人生です。いろいろとやりたいことがあったでしょう≫



 言葉をつむぎながらも、織斗の瞳から涙があふれ出している。



≪この先も生き永らえられるなら、これまでできなかったことを、全てしてほしい。そこに、たとえ、俺が≫



 涙で言葉が詰まる。



≪俺が、いなくても、優季奈ちゃんが≫



 これ以上は言葉にできない。


 織斗は涙があふれた瞳をぬぐいながら、必死にれ出す嗚咽おえつこらえている。



 冷気と霊気に満ちた黄泉殿よみでんには、織斗の小さな嗚咽以外、音が消え去っている。


 静寂が伊邪那美命いざなみのみことの鎮座する御簾みすの周囲を包んでいる。素戔嗚尊すさのおのみことも沈黙を守ったまま動かない。




「困ったおのこだこと」



 伊邪那美命いざなみのみことの美しもこごえるような声が静かに流れていった。


 いつの間にか御簾みすが回転している。


 織斗を見据みすえるのは白虎びゃっこの妖しく輝く二つのまなこだ。今にも襲いかかってきそうなほどの迫力に満ちている。



「風向織斗、そなたは賢くもあり、また愚かでもある。そなたのあの娘に寄せる想い、嫌いではない。よくぞここまで昇華させた。賞賛にも値しよう」



 いつしか、素戔嗚尊すさのおのみことも織斗同様、片ひざを落としてこうべを垂れている。


 伊邪那美命いざなみのみことげんを守って、そこから一歩たりとも動いてはいない。



「我が息子よ、最後まで見届けるつもりはありますか。そなたの忠告を受けてなお、風向織斗はおのが信念を貫かんとしている。この私、伊邪那美命いざなみのみことに逆らうことも覚悟のうえで」



 素戔嗚尊すさのおのみことは頭を垂れたまま、想いを言葉に変える。



「幽世の主にして我が母上殿に申し上げます。我は風向織斗を、この者の魂を気に入りました。最後まで見届けとうございます。お許しいただけるでしょうか」



 可愛い息子の頼みを伊邪那美命いざなみのみことが断るはずもない。


 御簾の奥から滅多めったに見せない微笑を浮かべ、素戔嗚尊すさのおのみことに許しを与えた。



「我が息子よ、風向織斗のすぐ背後まで近付くことを許します」



 それが何を意味するか、素戔嗚尊すさのおのみことに分からないはずがない。


 例外中の例外だ。素戔嗚尊すさのおのみことは改めて伊邪那美命いざなみのみことうかがいを立てる。



「母上殿、風向織斗に、我の加護を与えてもよろしいのでしょうか」



 一陣いちじんの冷たい風がほおを叩く。御簾みすの中から伊邪那美命いざなみのみことが軽く手を振ったのだ。



「私はそう言いました。さといそなたのこと。聞かずともわかっているでしょうに」



 姿は見えずとも、素戔嗚尊すさのおのみことには見えている。


 微笑は浮かんだままだ。機嫌は悪くない。悪ければ、これしきでは済んでいない。身体の至るところが引き裂かれているだろう。


 素戔嗚尊すさのおのみことは慌てて、ひざまずいたままの織斗に視線を送った。無事な姿を見て、溜息ためいきを一つつく。



 織斗は織斗で何が起こっているのか全くわからないでいる。


 何しろ御簾の三面目、白虎ににらまれ、身体がすくんでしまって全く動けない。振り返りたくともできないのだ。



(伊邪那美命いざなみのみこと様が息子と呼ぶ影の主は、まさか素戔嗚尊すさのおのみこと様なのか)



「母上殿は、風向織斗に何をさせようとしておられるのか、教えていただいても」



 伊邪那美命いざなみのみことが深く息をき出している。微笑が苦笑に変わっている。



「そなたは相変わらずですね。これから風向織斗に直接話します。そなたも共に聞きなさい」



 そこまで言われれば、素戔嗚尊すさのおのみことに返す言葉はない。


 おもむろに歩を進め、織斗のすぐ背後まで近寄っていく。


 素戔嗚尊すさのおのみことは立ったままで織斗の背中に視線を落とした。手を伸ばせば触れられる距離だ。


 さて、どうしたものかと想ったのも束の間、伊邪那美命いざなみのみことが口を開いた。



「そなたの剣をもって、風向織斗に加護を与えなさい。それが済めば、私が何をさせようとしているかがわかるでしょう」



 逆らう手はない。


 加護を与えなければならないほどに危険なことをさせようとしているのだろう。



 素戔嗚尊すさのおのみこと躊躇ためらいなくさやから神剣しんけん天叢雲剣あめのむらくものつるぎを抜き去った。


 輝く剣身けんしんが黄泉殿の冷気と霊気を吸い込み、特徴ある紋様もんようを描き出していく。まさしく、八岐大蛇やまたのおろちそのものだった。



 素戔嗚尊すさのおのみこと八岐大蛇やまたのおろちの浮かんだ剣身を織斗の右肩にえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る