第124話:織斗最大の失敗

 どれほど進んだのか全くわからない。前に行っては後ろに戻る。何度繰り返したかもわからない。それがようやく終盤を迎えようとしている。



「確かに送り届けた。ここからは貴様一人で行くがよい。もはや二度と逢うこともあるまいな。さらばだ」



 異形のものの姿が薄まっていく。用事は済んだとばかりに、早々に消え去ろうとしている。


 織斗おりとはたまらず声をかけていた。



「待ってください。お礼をまだ言っていません。ここまで連れてきてくださって、ありがとうございました。俺一人では、絶対に無理でした」



 頭を下げてくる織斗に異形のものは、わずかに興味がいたのかもしれない。薄まっていく影の揺れが微妙に変化していた。



「なるほどな。確かに、これは」



 どうせ、この先の言葉はないのだろう。織斗は先ほどの一件で実感している。頭を上げた織斗に異形のものが最後の言葉をかける。



「早く行くがよい。これ以上、お待たせするでないわ」



 いよいよ、影そのものが見えなくなってきた。織斗は影に向かって再び頭を下げる。頭を上げた時には、影はすっかり消え去っていた。



 目の前に広い一本道が果てしなく続いている。織斗は覚悟を決め、一人で足を踏み出した。



 織斗の姿が見えなくなったところで、消え去ったはずの影が再び濃度を増していく。



≪ここまでの案内、ご苦労でした。あなたから見た、あの者はどうでしたか≫



 伊邪那美命いざなみのみことの声を受けて、影は明確な形をまとい、徐々じょじょに実体へと変わっていく。



≪魂に負の部分が多く刻まれているにもかかわらず、あの一途な想いはどこから来るのか。常人では考えにくい。特別なにおいがしたのも、特殊な理由があってのことなのでしょう≫



 異形のものは、ここまで織斗を導きつつ、入念な観察をおこたらなかった。


 実体化によって明らかになった、炎のごとく輝く二つのまなこはあらゆるものを見通す。



≪我の眼をもってしても見抜けないものがあるとなれば≫



 それ以上は言葉にしない。


 危ういとは感じている。それも含めて、する意味はない。



さとい子は好きですよ。ここまで大儀でした≫



 言葉の中に多分にねぎらいがめられている。


 異形のものから、るべき実体に戻った男は堂々たる体躯たいくを折り曲げて最大限の礼を尽くす。



≪黄泉殿の主たる母上殿が何をなさろうとしているのか。あの面白き男の行く末と共に我の神眼しんがんで見届けましょうぞ≫




 今、織斗の眼前にはこれまで見たこともない空間が広がっている。


 黄泉殿内部とは信じがたい。清浄かつ静謐せいひつ、それでいてりんとした冷たい気が満ちあふれている。


 果ての見えない空間には、現世うつしよで言うところの畳状たたみじょうのものが敷き詰められている。


 畳ではないと確信できる。嗅覚でも特有の匂いはとらえられない。



(この材質はいったい何だろう。現世にあるものじゃなさそうだ)



 織斗は踏んでみたり、実際に手で触れてみたりもした。不思議な感触に戸惑うばかりだ。しかも、空間上には何も存在しない。



 織斗は立ち止まったまま、次の行動に移せないでいる。



≪風向織斗、よくぞここまで辿たどり着きました。そなたを歓迎します≫



 伊邪那美命いざなみのみことの声が脳裏に響いてくる。


 何もなかった空間に様々なものが現出げんしゅつしていく。


 織斗の位置を起点にして、正しく百歩先に小さな正方形の部屋が浮かんでいる。文字通り、宙に浮かび上がっているのだ。


 天地がどうなっているかは確認できない。残った四面には、色の異なる御簾みすが下ろされている。織斗には部屋の中がどうなっているか全く見えなかった。


 部屋へと至る道があらわになり、一定間隔で道の中央部に香炉こうろが置かれている。全部で四合よんごうだ。それぞれが既にくゆっている。



「部屋の前まで来ることを許します」



 伊邪那美命いざなみのみことの声が初めて聴覚を通して伝わってくる。


 脳裏に響く声と同じながら、より明瞭でつややかさを感じる。


 一つ一つの言霊ことだま神気しんきが宿っているのか、聴覚を経て全身へとみ渡り、浄化されていくような感覚だ。それでもまだ足りないのだろう。



 織斗はゆっくりと進みながら、一合目の香炉から薫る香気の中へ入っていく。香道こうどうに明るくない織斗には、上品な線香の匂いとしか表現できない。


 さらにそこから二合目、三合目と進むにつれ、匂いの強さが薄まっていくにもかかわらず、全身で感じる匂いは強まっている。



 最後の四合目、香気を吸い込んだ織斗はこれまでに沁み付いたあらゆるものが洗い流されていくような感覚を味わっていた。



(これはいったい何だろう。まるで丸裸にでもされているような、少し気味が悪いな。そういえば、最も有名な香に蘭奢待らんじゃたいってあったよな。あれって、どんな香りなんだろう)



 蘭奢待は正倉院に収蔵されている名香木めいこうぼくで、本来の正しい名称を黄熟香おうじゅつこうという。


 蘭奢待は雅名がめいで、それぞれの漢字に東・大・寺が隠されているのは有名な話だ。織斗もその程度は知っている。



聞香もんこうしたいですか」



 思わず、はいと答えそうになった織斗は何とか踏みとどまった。


 織田信長たちが欲した香木で、今では誰も聞香などできない代物しろものだ。できるものならしてみたい。


 安易に飛びついて、後の祭りになったりしないだろうか。



(伊邪那美命いざなみのみこと様は何もおっしゃらない。俺の意思に委ねているようにみえて、実は俺を試しているんじゃないか。万が一にも願いを叶えるのは一度だけ、といった条件があるなら、聞香ごときで台無しにするなんてあり得ない)



 じっくり吟味しなければならない。


 織斗は高速で思考を何度も繰り返していく。既に結論は自分の中で出ている。それを確認するためだけの思考だ。



「いえ、遠慮しておきます。俺の心から望みは一つしかありませんから」



 御簾の中から、衣擦きぬずれの音だけがかすかに聞こえてくる。声の主、伊邪那美命いざなみのみことがまさしくそこに座している。



「聡い子は好ましい。風向織斗、御簾より十歩の距離まで近付くことを許します」



 四合目の香炉を越えたところに立つ織斗から御簾までは三十歩といったところか。


 十歩ともなれば目と鼻の先だ。織斗に悪意はないながら、そこまで女神に近付いてもよいのだろうか。


 織斗は伊邪那美命いざなみのみことの言葉を頭の中で反芻はんすうする。



 ゆっくりと歩を進め、最大限の敬意を表するため、床に両ひざをつけ、平身低頭の姿勢を取った。



「私は十歩の距離までと言いました。そなたは何故なにゆえにその位置でとどまったのか」



 御簾越しの伊邪那美命いざなみのみことは多分に疑問口調だ。



「十歩よりも手前で止まるべきと判断したからです。十歩はあまりに近すぎます。俺は害意など持ち合わせていません。たとえ持ったとしても、何もできないのは明白です」



 伊邪那美命いざなみのみことは思案しているのか、少しばかり首をかしげ、視線をあらぬ方向に移している。


 織斗に伊邪那美命いざなみのみことの姿が視認できているわけではない。御簾の中に浮かぶ、柔らかな影の動きを追っているだけだ。



「そなたは思慮深い。幽世かくりよに呼び入れたことは間違いではなかった」



 ひとり言のようにつぶやく。



「風向織斗、そなたを見込んで頼みがあります。これこそが、そなたを幽世に呼んだ理由でもある」



 おだやかな声ながら、突き刺すような圧を感じてしまう。御簾より放たれる女神の気とでもいうのか、呼応して四面をいろどるそれぞれの色が輝いている。


 幽世かくりよべる女神の頼みだ。それは頼みという名の命令にも等しいだろう。


 織斗に拒否権があるとも想えない。だからこそ、織斗は勇気を振り絞って、伊邪那美命いざなみのみことに問う。



「内容によっては、断っても構わないでしょうか」



 それだけの言葉を口にするだけなのに何と重いことか。


 御簾の奥から感じられる圧が一気に強まる。同時にすさまじい冷気が伝わってくる。こごえそうなほどの寒さに織斗は身体をふるわせた。



「そなた、よもや断れるとでも想っているのか」



 女神を御前にした織斗は、言霊の力だけで圧し潰されそうになっている。


 発すべき言葉を間違った。織斗は瞬時に悟った。織斗の命は伊邪那美命いざなみのみこと掌中しょうちゅうだ。



 いつの間にか、御簾が九十度回転している。先ほどまではくれないきらめく御簾だった。それがあいの御簾に変わっている。



「風向織斗、よく聞くがよい。御簾の四面には私が使役する四神しじんが宿っている。先は紅の朱雀すざく、今は藍の青龍せいりゅうだ。四神を見た者は、あまね幽世かくりよの住人となる」

 


 それが何を意味するか、考えるまでもない。恐怖のあまり、織斗は伏したまま動けなくなっている。


 四神のうち、朱雀と青龍の姿が視覚を無視して、直接脳裏に刻み込まれていく。二神の力が織斗の心臓を鷲掴わしづかみにでもしているのか、呼吸が苦しくなっていく。




 伊邪那美命の意識が織斗を通り抜け、織斗が入ってきた空間入口付近に向けられる。



≪手出し無用です。私の息子とて、許しは与えません≫



 手を出すつもりはない。命令に逆らおうなどとも想っていない。



≪母上殿、我はこの面白い男を気に入りました。直接手は出さずとも、助言を与える許しを頂戴できればありがたく≫



 片膝をついてこうべれる。



≪これは珍しい。我が息子、偉丈夫いじょうふたる素戔嗚尊すさのおのみこと現世うつしよの者を気に入るとは。いいでしょう。言霊ことだまを与えてよろしい。ただし、そなたは一歩も動いてはなりません≫



 丁重に礼を述べた素戔嗚尊すさのおのみことは立ち上がると、織斗のためだけの言霊を飛ばした。

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