第123話:織斗と異形のもの

 ここだけが全くの別空間と言っても過言ではない。暗き闇が払われ、神々こういごうしいばかりの柔らかな光で満たされている。


 優美でありながらつややかな声が聴覚を刺激してくる。声はすれど、姿は見えない。


 織斗おりとにとってはそれでよかった。その方がよかった。



(伊邪那美命いざなみのみこと様のお姿を見てしまえば、きっとここから引き返せなくなる。この声だけで既に惑わされそうになっているんだから)



 本音を言えば、姿を見たいに決まっている。見てはいけないと想えば想うほどにだ。



(優季奈ゆきなちゃんと比較なんてできないよ。俺にとっては、優季奈ちゃんが一番だし、他のどんな存在とも比べるつもりはない)



 それでも織斗は既に知ってしまっている。比較してはならない美は確かに存在する。その厳然げんぜんたる事実にだ。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの姿を見た瞬間、我を忘れるほどにとりこになった。


 伊邪那美命いざなみのみことは上位女神でもあり、同様に違いない。むしろ、はるかに上回っていると言ってもいいだろう。


 優季奈に強烈な嫉妬心を向けられようとも、こればかりはどうしようもないのだ。人としての、男としての性なのだろう。



風向かざむかい織斗、そなたは実に興味深い。誰もが私の姿を見たいと強く望む。見てはいけないなどと想う者は皆無に等しい。よろしい。そなたのいとしい娘のためにも、私は姿を見せないようにしましょう≫



 織斗の思考は筒抜けだ。


 幽世かくりよにある限り、全てが伊邪那美命いざなみのみことの意のままなのだろう。いくら秘めようとしても、思考に浮かんだ瞬間に見破られる。



現世うつしよのものたちは感情が強すぎるのです。感情は二つの面を併せ持ちます。そなたは、わかっているようですね≫



 織斗は眼前に広がる寝殿造しんでんづくり庭園の美しさに見惚みとれつつ、距離感が全くつかめないでいた。


 黄泉殿よみでんは透明度の高い巨大な池に囲まれている。黄泉殿よりも小さな寝殿が幾つも建ち、島や築山つきやま、滝なども点在している。


 黄泉殿がすぐ目の前にありそうで、途轍とてつもなく遠くにあるようにも感じられる。だからなのだろう。伊邪那美命いざなみのみことの声は遠くから聞こえているようでもあり、近くから聞こえているようでもある。



≪乗りなさい≫



 織斗の足元にまで迫った池のそばに、一艘いっそうの小舟がとまっている。織斗は言われるがままに、恐る恐る小舟に足を下ろした。


 織斗が乗り込むなり、ゆっくりと動き出す。


 水を切って進む音、水面みなもを渡る風の音などが聴覚を刺激してくる。同時に、水そのものが、島や築山つきやまを構成する土や植物が嗅覚を、目に映る全てのものが視覚を、それぞれ揺さ振ってくる。


 織斗は残ったうちの一つ、触覚を確かめるため、池の中に手を入れてみる。



(あとは味覚のみか。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の清浄せいじょう神酒しんしゅのように、黄泉殿よみでんでも試されるんだろうな)



 かすかに笑う声が聞こえたような気がした。



≪理解しているようで何よりです。もちろん、それだけではありません≫



 水の冷たさを感じつつ、織斗は手を引き上げた。きらめく水が手を伝って流れ落ちていく。


 現世うつしよでさえ、これほどの美しい風景に出逢うことはないだろう。



 小舟はゆっくりと進み、黄泉殿よみでんからやや離れた場所で音もなくまった。


 朔玖良さくら神社もそうだった。この黄泉殿よみでんからも同じ雰囲気を感じる。


 実際に現世うつしよに存在していた当時のままを再現したのかどうか、織斗にはわからない。確実に言えるのは、織斗が生きる現世うつしよにおいて、これほどまでの建造物を再現するのは不可能だということだ。


 まさに、女神の威光と呼ぶに相応ふさわしい。荘厳でありながら優雅、荒々しさの中に穏やかさが潜んでいる。建物自体が発光しているような錯覚さえいだいてしまう。



黄泉殿よみでん正門より入ることを許します≫



 正門から入る。それは黄泉殿よみでんの主より正式に招かれていることを意味する。


 織斗はそびえ立つ黄泉殿よみでんを見上げ、あまりの威容いよう感嘆かんたんの声を無意識のうちに上げていた。



「貴様が風向織斗か」



 ふいに名前を呼ばれ、織斗は視線を下ろす。


 目の前に異形いけいのものが立っている。


 姿は明らかに人のそれではない。五体の区別はなく、ただ薄い影が光の中で揺らめき、うごめいいているだけだ。黄泉殿よみでん顕現けんげんできているということからも、特別な存在だとわかる。



 織斗はただ首を縦に振ってこたえた。動作は伝わったのだろう。



「これより、貴様を黄泉殿よみでん中枢へと案内する。ついてまいれ」



 最後の言葉で、異形のものは己の立場を明らかにした。すなわち、異形のものが目上で、織斗が目下だ。


 正式に招かれているとはいえ、ここではそういった関係になるらしい。


 織斗には、もはや恐れも驚きもない。既にここまでの道中で十分すぎるほどに感じてきたからだ。



 異形のものが動き出したところで、織斗も後に続こうと歩を進めようとした。すかさず叱責しっせきが飛んでくる。



「正門中央部を通るでない。そこを通ってよいのは女神様のみぞ」



 織斗は慌てて足を引っ込め、正門はしに寄った。立ち止まった異形のものがにらみ付けている。実際に、人のように二つのまなこがあるわけではない。それでも織斗にはそのように感じられた。



黄泉殿よみでんは複雑極まりない迷路構造になっておる。外見とは似ても似つかぬ場所だ。我のそばから離れるでない。はぐれたが最後、貴様は確実に死ぬ。幽世かくりよの住人になりたいのなら、我はめはせぬがな」



 本気か冗談か、真意が全くつかめない。表情がないだけに予測もできない。織斗はたまらず息をむと、ただただうなづくしかなかった。



 正門の左端を慎重にくぐって、ようやく黄泉殿よみでん内に入る。


 足を踏み入れるなり、いきなり雰囲気が変わった。静謐せいひつでありながら、肌を切り裂くような獰猛どうもうな気が漂っている。


 じっくりと観察されているようでもある。少しでも変な素振そぶりを見せれば、たちどころに襲いかかってきそうだ。



 前を行く異形のものは振り返りもせず、一定の速度をもって動き続けている。


 迷路構造というだけあって、単純な道は一本たりとも存在しない。歩くたびに方向感覚が狂わされていく。


 織斗は何とか道を覚えようと試みたものの、早々にあきらめるしかなかった。何よりも、異形のものの移動する速度があまりに早すぎる。その背中らしき影を追うだけで精一杯だからだ。



 相変わらず、時間感覚だけは取り戻せないでいる。黄泉殿よみでんにおいては、いっそう顕著けんちょであり、時の流れそのものが存在していないかのようにも想える。



幽世かくりよ未来永劫みらいえいごう生きるものにとって、時の流れなど、ただただ無常むじょうに過ぎぬ。貴様には理解できぬであろうな」



 気のせいだろうか。声音こわね一抹いちまつの寂しさが感じられる。織斗が立ち止まると同時、異形のものもまた立ち止まっていた。



「一分一秒が大切な俺には理解できないかもしれません。でも、理解したいと願っています」



 神理鏡しんりきょうで見せられた魂に刻まれた過去、さらにはこの先、織斗も必ず幽世かくりよの住人になる。そのためにも知っておいてて損はない。


 異形のものの表情がわずかにゆがんだようにも想えた。もちろん、顔として認識できているわけではない。



「貴様は不思議なにおいがする。過去の魂にるものか、あるいは。我が知ることではないが」



 織斗は続きの言葉を待った。それが出てくる前に、異形のものは再び前に進み始める。



 織斗自身、自分の臭いなど感じ取れない。そのうえ、魂に起因するなどと言われても理解できるはずもない。にもかかわらず、二の腕辺りを鼻に当てて臭いを確認している。



「遅れるでない。たっとき女神様を待たせるなど、不敬にもほどがあるであろう」



 二度目の叱責を食らって、織斗は慌てて異形のものの後を追った。

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