第122話:黄泉殿

 魂のみの状態で神理鏡しんりきょうを通り抜けた織斗おりとは、何もない闇の中に放り出されている。


 取り戻したはずの五感も再び失せてしまっている。


 このままとどまっていても何も始まらない。だからと言って、季堯すえたかの案内も期待できない状況では、闇雲に動き回ったところで確実に彷徨さまようだけだ。



(優季奈ちゃんが待っているんだ。何が何でも戻ってこないと)



 織斗の心に浮かんだのは、誰よりも大切な優季奈ゆきなだった。魂の中の感情だけは誰にも邪魔させない。織斗の強い意志がもたらす賜物たまものに違いない。


 想いと行動は全く別もの、簡単にはいかない。


 幽世かくりよでは現世うつしよの常識が通用しない。五感全てを失うなど、現世で日常を生きる限り、滅多にあることではない。


 織斗は現世で生きている意味を今さらながらに痛感している。



(俺に五感を超える第六感みたいなものがあればいいんだけど。ないものは仕方がないし)



 考えあぐねているところで。織斗の魂が急にふるえた。まるで、何かがすり抜けていったかのようだ。


 表面に触れられたのではない。内部に直接入り込んできている。触覚がないにもかかわらず、直感的に感じ取っていた。



(何だろう、今のは。幽世に住まうものたちなんだろうか)



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの導きで、朔玖良さくら神社に連れられて行くまでの道中、女神が我が子と呼ぶ、幽世の住人たちを見てきた。


 人とは全く異なる異形いけい、それらがここにいても不思議ではない。


 肉体を持たない今の織斗の状態は、とても生者とは言えないだろう。それならば、彼らに襲われる心配もない。


 織斗は五感を失った中で、まされた直感とでもいうのか、いつも以上に冷静な思考が展開できている。



 次なる変化が生じる。


 今度は魂が二度、三度とはずんだ。たとえるなら、心臓の鼓動に近い。音もないのに、なぜか大小と強弱を伴っていることがわかる。


 続けざま、魂の内側がたまらなく熱くなっていく。これもまた五感でとらえているわけではない。


 むしろ、それ以外の感覚とでもいうのか、五感を超越した何かが織斗の魂を突き動かしている。


 熱さはなおも増していく。魂ごと焼き尽くされてしまいそうなほどだ。



(このまま、こんなところで。まさか、この原因は鏡の前で見たものと繋がっているのか。俺には何の関係もないことなのに、理不尽な目にってたまるものか)



 織斗がここにいる理由は、何をおいても優季奈のためだ。優季奈と共に生きられる時間をできる限り長く伸ばしたい。その一念のみで幽世まで下ってきている。


 織斗の強い想いは、また別の熱を生み出していた。魂のもっと深い部分、織斗が織斗であるための核から湧き上がってきている。


 織斗はまさに想いの、意志の力だけで、得体の知れない熱を自らの熱でねじ伏せていった。



(俺は優季奈ちゃんのもとに帰るんだ。こんなところで負けていられるか)



 強い想いは大きな力となる。五感がなかろうとも、織斗の魂は織斗だけのものだ。他の誰にも、たとえそれが女神であろうと、決して介入はさせない。


 織斗の優季奈に向けるひたすらな想いがあらゆるものを凌駕りょうがした時、魂を焼き尽くさんとしていた熱が嘘のように消えた。



 まぎれもなく試されている。織斗は明確な事実として受け取っている。神理鏡を抜けたところからが、この試練の本番なのだ。



(試されるのは好きじゃないけど、それが優季奈ちゃんのためになるなら、俺はどんなことでも耐え抜いて、乗り越えてみせる)



 鋭い直感で織斗は一つの確信に至っていた。ここまでの三段階は、五感のうちの三感を取り戻すための試練だと考えれば納得できる。



 魂内部へのすり抜けは、触覚のためのものだ。


 魂の弾みは心臓の鼓動のごとく、そこに大小や強弱があることから、聴覚のためのものに相違ない。


 熱の導きは温度による高低差の感知から視覚に該当するだろう。赤外線のようなものととらえれば理解も簡単だ。



 その証拠に、織斗には進むべき方向が何となく認識できるようになっていた。織斗の魂が目を向けている方向、そこだけが熱源にでもなっているのか、他の空間とは様相が異なっている。



(この熱源に沿って進め、ということなんだろうな)



 早く動いた方がいい。時間の経過は全く感じられないものの、一秒たりともむだにはしたくない。


 織斗の魂は熱源を辿たどりながらゆっくりと進み始めた。



 熱源はどうやら一定の間隔で並んでいるようだった。進み具合で感知できる温度が違っている。熱源に近ければ熱くなり、遠ければ冷たくなる。


 さらに、もう一つの導きもある。


 鼓動にも似た魂のふるえだ。最初の熱源を通り過ぎていく際、魂が一回弾んだ。二つ目で二回、三つ目で三回と、弾む数が増えていく。逆に震えは弱くなっていく。



(これで十回、どれぐらい進んだのか全くわからないけど、震えは止まった。ということは、ここが終着点なのか)



 織斗の疑問に即座に答えが返ってくる。



≪そのとおりです。よくぞ、ここまでたどり着きました。風向織斗の魂を歓迎します≫



 直接魂に語りかけてくる。


 この場でそれが可能なのは一人しかいない。幽世をべる女神にして唯一無二の存在、伊邪那美命いざなみのみことだ。



≪ここからは、私が導きます≫



 おだやかで優しげな口調でありながら、威厳に満ちている。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが包み込むような母なる慈愛なら、伊邪那美命いざなみのみことは自ら進んでこうべれたくなるような絶対的支配者としての慈愛だ。


 織斗は伊邪那美命いざなみのみことの言葉を前にして、全く動けなくなっている。



≪そなたには少し強すぎたようです。この地において、現世うつしよの者と会うなど、何千年ぶりになるでしょう≫



 すなわち、加減がわからないということなのだろう。



≪これならどうでしょう≫



 圧が格段に弱まった。


 解放された反動なのか、織斗の魂は大きくね飛び、元の位置に戻ってくる。



≪三感を取り戻した今、問題はないでしょう。風向織斗、ついてきなさい≫



 伊邪那美命いざなみのみこと自らが案内してくれるとは、何たる僥倖ぎょうこうだろうか。これで路頭ろとうに迷う心配もなくなった。



 魂の目を通して、織斗の前には一本の細長い通路が上に向かって延びている。


 闇に包まれていながらも、完全な漆黒しっこくではない。道の両端に常夜灯じょうやとうのようなもの整然と並び、それらがかすかなあかりを発している。まるで、命の揺らめきのようでもある。



 朔玖良さくら神社を除けば、幽世かくりよは深い闇が支配する領域だ。対極に位置する光など、存在そのものが許されない。



≪そなたにとっての時は、動き続けています。急ぎなさい≫



 織斗はうながされるままに、幾本もの常夜灯を後にしながら、ひたすら一本道をのぼっていく。


 魂だけの状態は不安定すぎて、方向感覚がうまくつかめない。そんな織斗の魂を不甲斐ないと想ったか、あるいは気の毒と想ったか、伊邪那美命いざなみのみこと言霊ことだまをもっていざなっていく。



 ようやく最後の常夜灯を越えた先、そこに信じがたい光景が広がっていた。



「こんなことが。これって、寝殿造庭園しんでんづくりていえんと呼ばれていたかな。確か、今の日本には現存していなかったはずだけど」



 いつしか、織斗は実体化している。


 先ほどまでに取り戻した三感に加え、嗅覚きゅうかくも備わっている。花や草木に土、水といった匂いがほのかに漂っている。


 その中において、ひときわ目を引くのが庭園中心部に建つ美しい寝殿だった。



≪風向織斗、黄泉殿よみでんにようこそ。幽世かくりよべる伊邪那美命いざなみのみことが歓迎します≫

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