第121話:神理鏡が映し出すもの

 織斗おりとの魂は神理鏡しんりきょうを前にして、全く動かない。炎のような揺らめきだけを残して、その位置に留まり続けている。


 季堯すえたかには、織斗が何かに驚き、戸惑っているかのように感じられた。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、お尋ねしてもよろしいでしょうか」



 優季奈ゆきなを静かに床に寝かせ、問いかける。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは神理鏡を見つめたまま、言葉をつむぐ。



「神理鏡のことですね。伊邪那美命いざなみのみこと様のみが扱える非常に特殊な鏡です。魂に刻まれた、あらゆるものを映し出します。そう、あらゆるものをです」



 季堯は無意識のうちに復唱していた。



「あらゆるものを、それは、まさか」



 背後でひざを落としたまま控える季堯にわずかに視線を傾け、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが答える。



「季堯は物知りですね。ええ、そのまさかです。魂が有する全ての記憶、それらの姿もです。現世うつしよの者たちは、輪廻転生りんねてんしょうもしくは六道輪廻ろくどうりんねと称しているようですが」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめにしては珍しく、歯切れの悪い言葉の止め方だ。



「神理鏡からは決して逃れられません。季堯、見なさい」



 促された季堯が視線を上げ、神理鏡を、織斗の魂を見つめる。



風向かざむかい織斗の魂が揺らいでいます。果たして、何が映し出されているのでしょう。過去のものにもてあそばれなければよいのですが」



 季堯にとっても意外すぎた。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめにさえ、何が映し出されているのかはわからないのだ。


 改めて問うてみる。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様でも、神理鏡に何が映し出されているのか、おわかりにならないのでしょうか」



 表情一つ変えず、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめうなづくだけだ。


 幽世かくりよべる伊邪那美命いざなみのみことのみが扱える神理鏡は、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめも含めて、他の神々に対しては何の効果も発揮しない。


 神々の魂は生まれてからというもの、他の何ものとも交わらない、揺るぎないものだ。従って、神理鏡の前に立ったところで、己の姿以外に映るものなどない。



「風向織斗としての魂は、せいぜい十数年です。しかしながら、かの魂には、およそ千五百年以上の時を巡った分だけのものが刻まれています。未だ消滅していないということは、それほど悪くはなかったのでしょう」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの説明を聞きながら、季堯は何と残酷なことだろうと想うしかなかった。


 織斗が現世うつしよで生きる以上、前世や前々世などの記憶を知ることなど到底できない。まれに前世を想い出す人間もいるにはいるが、極めて少数だ。



「風向織斗は、過去の記憶あるいは姿を見て、恐れおののいている。だから魂が揺らいでいる。そういうことなのでしょうか」



 季堯も確信が持てないでいる。


 季堯の置かれた立場があまりに特殊すぎるからだ。彼は還魂かんこんの秘術を用いることで、黒猫の中に魂だけの状態となって千数百年を生きてきた。


 人間の寿命は、たかだた八十年程度にすぎない。



「そうです。風向織斗の魂は今まさに、二十人ほどでしょう、それらの過去を垣間かいま見ています。人が生まれてから死ぬまで、善人であり続けるのは至難のわざです。その中に極悪人、たとえば殺人を犯したような者がいたとしたら。魂がくだけたとしても、おかしくはないのです」



 あまりに残酷すぎる。


 極悪人がいるかいなかはわからないし、いたとしても、受け止め方は織斗の魂次第だ。


 あらかじめ予備知識を与えられていたら、備えることもできただろう。織斗は何も与えられないままに、いきなり神理鏡の前に立たされ、直面させられている。



伊邪那美命いざなみのみこと様は、いったい」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめに聞くべきものではない。


 幽世かくりよべる女神の真意など、たとえ木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめでもわからないのだ。



「神々の中でも、最上位に御座おわ伊邪那美命いざなみのみこと様の御心を推察するなど、あまりにも不敬です。伊邪那美命いざなみのみこと様は風向織斗に試練を与えられた。それが唯一の事実なのです」



 依然として、織斗の魂は神理鏡を前にして揺らぎ続けている。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは魂のようを注視しつつ、鈴を持つ手にわずかながらに力をめる。



「本来であれば、介入などしてはいけないのですが、風向織斗の魂が壊れる前に」



 鈴を持ち上げたところで、織斗の魂の揺らぎが止まった。



「ひとまずは大丈夫ですね。魂に問題がなければよいのですが」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが手を下ろしたところで、織斗の魂はゆっくりと神理鏡の中へ吸い込まれていった。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、風向織斗の魂はどうなったのでしょうか」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめはしばし沈黙を守ったまま、神理鏡を見つめ続けている。


 これまでとは全く違う。光を帯びた両の瞳は、鏡を通り抜けたその奥、黄泉殿よみでんへと続く魂の通路を透視しているかのようでもある。



「風向織斗の魂は旅立ちました。黄泉殿にて真の試練が待ち受けています。もはや、私の力も及びません。我がいとし子のためにも、無事に戻ってくることを祈るしかありません」



 季堯はこうべれ、無言で聞き入っている。



(幽世かくりよべる女神の試練、いったいいかなるものであろうか。あの者が戻らねば、この少女は悲嘆ひたんに暮れ、現世うつしよに連れ帰ることさえ難しくなる)



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは感謝してくれたものの、本当に二人を幽世に連れてきてよかったのだろうか。



「葛藤が見て取れます。季堯、後悔していますか」



 わずかに躊躇ためらい、季堯は言葉を返す。



「二人を幽世までいざなったこと、正しかったのかどうか、今の私にはわかりません。しかしながら、これは木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様が、さらには伊邪那美命いざなみのみこと様がお望みになられたことだと愚考ぐこういたします」



 もし、季堯が後悔するとしたら、二人のいずれかに問題が生じた場合のみだ。


 優季奈は少なくとも木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめいとし子、それはそのまま彼女の寵愛ちょうあいを受けることを意味する。


 一方で、織斗の運命は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの手を離れ、伊邪那美命いざなみのみことに委ねられてしまった。彼がどうなってしまうのかは、伊邪那美命いざなみのみこと以外の誰にもわからないのだ。



「思案していてもどうにもなりません。風向織斗に関しては、伊邪那美命いざなみのみこと様の御心次第なのです。さて、次は我がいとし子の番です」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは先ほどとは逆、左手に持った鈴をかろやかに振る。


 優季奈をしずめた音色とは好対照、通常の聴覚ではとらえられない極めて高い音が本殿内を満たしていく。



「我がいとし子よ、目覚めなさい」



 優季奈の目が静かに開く。時間感覚を持てない中、どれぐらい眠っていたのか想像もつかない。


 目覚めてすぐに探したのは織斗だ。姿を求めて視線を彷徨さまよわせる。


 季堯が木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめあおぎ見る。うなづきを待って、季堯は口を開いた。



「佐倉優季奈、聞くがよい。風向織斗は、飲み干した清浄せいじょう神酒しんしゅによって魂のみの状態となり、伊邪那美命いざなみのみこと様がお待ちになる黄泉殿へと旅立った。そこは木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の御力でさえ及ばぬ領域だ。今は無事に戻ってくることを祈るしかないのだ」



 優季奈は言葉を失っている。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめに眠らされたとはいえ、織斗を一人で行かせてしまった。一緒に行けなかった。しかも、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの力さえ及ばない場所だという。



 優季奈の想いは全て木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめに伝わっていく。



「心をしずめなさい。我がいとし子は黄泉殿に招かれていません。一緒に行きたくとも、その資格がないのです。わかりますね」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの言葉が心の中に染み入ってくる。それだけで優季奈は平静さを取り戻しつつあった。



「はい、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様。織斗君は、織斗君はどうなって」



 伏し目がちに木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが緩やかに首を横に振る。



「季堯が言ったとおりです」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは優季奈の深い愛を感じ取っている。



「重なってえます。我がいとし子、佐倉優季奈に試練を与えます」

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