第120話:魂と肉体

 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめがゆっくりと近づいてくる。


 手にしている鈴はわずかな音もらさず、微動だにしない。それがいっそう織斗の緊張を高めていく。



風向織斗かざむかいおりと、恐れをいだいてはなりません。平静を保つのです」



 言うはやすく行うはかたしだ。この状況下で気持ちを落ち着けるなど、土台無理な話だ。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの視線が、優季奈と織斗の背後に立つ季堯すえたかに向けられる。



「季堯、こちらへ」



 呼ばれた季堯が首肯しゅこうと礼をもって、ゆっくりと歩み出す。


 直線的に進めば、あっという間のところを、あえて大きくを描きながら近づいていく。明らかに意図を持った季堯の動きだった。


 幽世かくりよは、言い換えるなら常闇とこやみの国、光のない場所に影は差さない。


 女神の聖域たる朔玖良さくら神社内には、まばゆいばかりの光が差すものの、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめにも影は存在しない。無論、女神だから、という理由が最も大きいだろう。


 それを理解したうえで、季堯は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめに影がある前提として歩を進めている。すなわち、女神の影を踏むなど、許されざる無礼な行為ということだ。


 大きく回り込んだ季堯が木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの斜め背後に控え、そのままひざをつく。


 両手をかかげ、手のひらの上に乗せたものを静かに差し出す。



「季堯、気をつかわずともよいのですよ」



 表情は変わらずとも、季堯に対する口調は柔らかく、いつくしみにあふれている。季堯は頭を下げたままで、決して顔を上げようとはしなかった。



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは季堯の手のひらからさかずきにも似たうつわを取ると、ゆったりとした動作で織斗の目の前まで持っていく。


 恐らくは、取れということなのだろう。織斗はそうはしなかった。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめから許可されない限り、自分勝手に行動してはならない。


 織斗は頭を下げたまま、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの言葉を待った。


 わずかに衣擦きぬずれの音がした。織斗には顔を上げずとも、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが笑みを浮かべたように感じられた。きっと、合格ということだろう。



分別ふんべつもありますね。風向織斗、器を受け取りなさい」



 横にいる優季奈は、織斗以上に緊張の面持ちで凝視し続けている。



「我がいとし子よ、風向織斗が心配なのはわかりますが、そなたも試練を受けなければならない身なのですよ」



 優季奈自身、織斗だけが試練を受け、自分は何もしなくて済むなどとはつゆほどにも想っていない。だからこそ、相応の覚悟はしている。


 優季奈は恐る恐る視線を上げ、小さくうなづく。



 織斗は両手を伸ばし、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの手から器を慎重に受け取った。


 物理的な重さは全く感じられない。それでいて、頭の中が異様に重い。器の中に意識が、感情が吸い込まれていくようだ。


 織斗の両手のひらに収まるほどの小さな器は、幽世の宇宙とでも言うのだろうか。引きずり込まれる速度が早すぎて、意識が途切れそうになる。



 刹那せつな、鈴の音が脳内に鳴り響く。


 織斗は、今度は清らかな音色に意識ごと吸い上げられ、ようやく覚醒かくせいする。目を閉じていたことにさえ気づかず、呆然ぼうぜん木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめを見上げる。



「底まで吸い寄せられていたら、そなたの命は尽きていました。幽世で命を失う。それは現世うつしよに二度と戻れないことを意味します。理解しておきなさい」



 手のひらに乗せたままの器を木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが取り上げ、季堯に差し出す。


 どこで用意してきたのか、季堯はよどみのない動作で、宝瓶ほうひんにも似た持ち手のない急須きゅうす状のものを用いて、液体を注ぎ込んでいく。器は、さながら水盆すいぼんといったところか。



 なみなみと満たしたところで、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは再び織斗の眼前に器を寄越よこす。


 そそがれた液体はこぼれ落ちることなく、なぎを保っている。


 織斗は液体をじっと見つめている。相当に粘度ねんどが高いのだろうか。季堯が注ぎ入れた際、液体は実になめらかに見えた。



「風向織斗、器を取りなさい。そして、飲み干しなさい」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは一切の情報を与えてくれない。どこからどこまでが試練なのか。考えたところで何も答えは出てこない。織斗は割り切るしかなかった。


 今しがた、季堯にも言われたばかりだ。ただただ、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様のお言葉に従うがよい、と。



 織斗は、恐る恐る木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの手から器を受け取った。


 見た限り、液体は澄み切った無色透明で、においもない。


 嗅覚きゅうかくは戻っている。咲き誇る神月代櫻じんげつだいざくらの親樹が放つかすかな芳香で証明済みだ。


 残る五感で確かめられていないのは味覚のみ、もし液体に味があるなら、そこでわかるだろう。


 器を持つ手がわずかにふるえている。器が揺れているにもかかわらず、やはり中の液体は全く動かない。何とも不思議な現象だった。



 織斗は腹をくくり、緩慢な動作で器を口元に近づけていく。得体の知れない液体を口に入れるのは、やはり躊躇ためらわれる。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめだけでなく、横からは優季奈、さらに季堯にまで凝視されて、織斗は想わず手を止めてしまった。



「怖いですか。毒などという無粋ぶすいなものは入っていません。それに、そなたを亡き者にしたいなら、ここまで連れて来たりはしていません」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめおくしたと想われるのは、織斗としても受け入れがたい。だから、形ばかりの抗弁こうべんはしておく。



「この液体を飲み干すことに抵抗はありません。覚悟もしています。手が止まったのは、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、季堯様、そして優季奈ちゃんに一斉いっせいに凝視されたからです」



 最初に優季奈が申し訳なさそうに視線をらす。次いで季堯も視線を落とした。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめだけは、織斗の言葉の意味するところが理解できなかったようだ。



「季堯、現世うつしよでは、そういうものなのですか」



 問いかけに、季堯が言葉を選びながら答える。



「見てはならないと定められているわけではございませんが、彼のような者が多いのもまた事実、注視されれば恥ずかしさも相まって、いささか抵抗も感じることでしょう」



 幽世に住まう者、また神々には現世のことなど知るよしもない。その現世に永らく生きる季堯が言うのだ。



「わかりました。では、私もできる限り、そなたを見ないようにしましょう。まずは飲み干しなさい。それをなさずしては何も始まりません」



 織斗は器を持ったまま、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの言葉にうなづく。


 もとより飲み干すつもりだった。たとえようもない不味まずさであっても、一気に飲み込めば多少は緩和されるだろう。


 何よりも、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは毒ではないと断言したのだ。迷う必要は、もはやない。



 織斗は器の端を口に添え、ひと息に液体を飲み干した。


 喉元もどもとを通り過ぎる際、わずかな刺激を感じた。現世で言うなら、微炭酸といったところか。そう想った瞬間、織斗の意識は深い闇の中に沈んでいった。


 突っ伏すようにして頭から落ちていく。


 ひたいが勢いよく床にぶつかる。相当の衝撃だったにもかかわらず、音が全くしない。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめはただもくしたまま、倒れた織斗を上から眺めている。



「織斗君」



 たまらず、叫び声を上げた優季奈に向けて、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめはわずかに右手を振る。


 これまでとは異なる鈴の音がかなでられた。重低音にも等しい音色が優季奈の心にみ渡っていく。



「我がいとし子よ、この鈴の音はあらゆる感情を心の奥深くに沈め、しずめます。眠りなさい」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは織斗に視線をえ置いたまま、優季奈に語りかける。


 優季奈の手が織斗に向かって伸びる。名前を呼ぼうとしたところで、優季奈もまた意識を失い、前のめりに倒れていった。


 床に打ち付ける寸前、季堯の手が頭を支える。ここが織斗との決定的差異だった。



「季堯、感謝します。我が愛し子は、我が命の一部でもあります。幽世でつけた傷は、現世に戻っても残るのです」



 優季奈の頭をかかえ、神妙しんみょうに頷く季堯が織斗の方に視線を移す。



「何も心配は要りません。風向織斗が口にした液体は、清浄せいじょう神酒しんしゅと呼ぶものです。私よりもはるかに高貴な伊邪那美命いざなみのみこと様のもとへ向かうのです。一切の不浄を消し去らなければなりません」



 季堯だからこそえている。清浄の神酒の効果は即座に現れていた。


 織斗の魂が肉体から分離し、浮遊している。現世からそのまま幽世に持ってきた肉体は、術を行使して死を偽装している。言うまでもなく、不浄のかたまりなのだ。



「風向織斗、私の声が聞こえていますね。そなたには、これより伊邪那美命いざなみのみこと様の御座おわ黄泉殿よみでんおもむいてもらいます。まずは、あちらに見える神理鏡しんりきょうを通り抜けなさい。それがそなたに与える二つ目の試練です」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの左手に導かれ、季堯と織斗の魂が本殿最奥中央に出現した鏡に吸い寄せられる。



「行きなさい。伊邪那美命いざなみのみこと様をお待たせするなど許されません」



 織斗の魂は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの言葉を理解したのだろう。


 肉体の上で何度か揺らめき、それから神理鏡に向かって移動を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る