第119話:女神の美と優季奈の嫉妬心


 優季奈ゆきな織斗おりとは迎えに来た季堯すえたかに案内され、本殿の片隅で大人しく控えている。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの姿は見えない。緊張の時が過ぎていく。



「織斗君、今から予想できる展開ってやっぱり」



 優季奈が遠慮がちに問いかけてくる。


 ささやくような声でありながら、たちまちのうちに残響が本殿内に広がっていく。


 二人の背後には、実体をともなった季堯が見張りのごとく仁王立ち状態だ。


 青年期の季堯は精悍せいかんな顔立ちで、当時の男としてはかなりの長身痩躯ちょうしんそうく、それでいて筋肉質だった。術を極めるために、厳しい修行を積んできたことが容易に想像できる。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様がいらっしゃらぬ場で言葉を発するでない。それに、幽世かくりよに下りきるまで言葉を発してはならぬ、と申し付けておったであろう≫



 想わず声を出そうとした優季奈の手を織斗がそっと押さえる。



≪それでは、この本殿こそが≫



 織斗の端的たんてきな問いかけに季堯は満足げにうなづいてる。



≪そうだ。この朔玖良さくら神社本殿こそ、幽世を下りきった最終到達点、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様がお住まいになられる場でもある≫



 言われるまでもなく理解できる。


 幽世にあって、それほどまでに異質で、荘厳そうごんかつ神秘的な空間になっている。現世うつしよでさえ、これほどのものは存在しないだろう。



≪幽世において、言葉を発するのは女神のみなのだ。それが摂理でもある。そなたらも、ここに来るまでに見たであろう。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様が、私の子たち、とおっしゃったものたちをな≫



 視覚でとらえた異形いぎょうのそれらは、確かにひと言も発しなかった。季堯の言葉から察するに、それらはもはや言葉を持ち合わせていないのだろう。



≪季堯様、織斗君と私は、これからどうなってしまうのでしょうか≫



 季堯に答えるすべはない。たとえ、あったとしても、答えるわけにはいかない。この先、優季奈と織斗かどうなるかは、まさしく女神のみぞ知る、なのだ。



≪私は先導役にすぎぬ。今この時をもって、その役目も終わった。ここから先、そなたたちがどうなるか、私にも分からぬ。ただただ、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様のお言葉に従うがよい≫



 厳しさの中に優しさを閉じ込めたような口調で季堯が優季奈に語りかける。


 優季奈も織斗も、それ以上は何も聞けないとさとったのだろう、ここまでの案内に対して、丁重に礼を述べるにとどめた。



≪季堯様、ここまで連れて来ていただき、ありがとうございました≫



 二人して頭を下げる。


 心のこもった礼を前にして、季堯は目頭を熱くしている。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが言ったとおり、やはり泣き虫な季堯だった。



「済まない。力になってやりたいところだが、私の力の及ぶ範疇はんちゅうをはるかに超えている」



 魂だけの存在とはいえ、生きて幽世に下りてきていること自体が奇跡と言っても過言ではない。


 どう足掻あがこうとも、現世の力をそのまま幽世で発揮するなど不可能なのだ。



 すずやかな鈴の音が本殿内に響き渡る。


 三人から見て、本殿最奥の左扉が音もなく静かに開き、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが姿を現す。


 先ほどとはまとっている衣が異なっている。白に淡い藤紫ふじむらさきを散らした衣も気品があり美しかった。


 今は朔玖良神社の象徴とも言うべき、薄桃色はくとうしょくに染まった衣の上を白や薄紅うすべにの花びらが舞い踊っているみやびよそおいだ。



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの美しさを知る季堯は無論のこと、織斗もひたすら目を奪われている。


 優季奈はわずかに嫉妬心をいだきつつも、こればかりは相手が相手だ。仕方がないなといったところだろう。


 織斗に対しては、やはり女心そのままに、強く腕をつねることも忘れていなかった。


 あまりの痛みに声を上げそうになった織斗が何とかこらえている。


 慌てて優季奈の横顔に視線を振った途端、そっぽを向いてしまう優季奈がたとえようもないほどに可愛く想えた。



≪優季奈ちゃん、ごめん≫



 あちらを向いてしまった優季奈のほおふくらんでいる。優季奈自身、大人げないと想いながらも、どうしても感情に引きずられてしまう。


 織斗がそうであるように、優季奈も織斗が誰よりも好きだからだ。



≪もう、織斗君なんて知らないよ≫



 織斗が言葉を継ごうとしたところで、再び鈴の音が打ち鳴らされる。いつの間にか、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめがすぐ目の前に立っている。



「我が愛し子よ、許してあげなさい。私を見れば、老若男女ろうにゃくなんにょ問わず、誰しもがそうなるのです。とりわけ男ならば。こればかりはどうにもなりません」



 まさしく女神の余裕というものなのだろう。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの視線が織斗にえられる。



風向かざむかい織斗、そなたから直接我が愛し子に言ってあげなさい。私の前です。言葉を口にして構いません」



 織斗の心の内は筒抜つつぬけだ。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの前では一切の隠し事もできない。


 織斗は深く一礼、身体ごと優季奈に向ける。



「優季奈ちゃん、俺を見てくれないか」



 織斗のはっきりした意思表示に驚きつつ、このまま意地を張っているわけにもいかない。



(織斗君に子供っぽいと想われるのはいやだし、嫉妬深い女だと想われるのはもっといや)



 優季奈は小さなため息をつくと、ゆっくりと身体を戻し、織斗と向き合う。



「俺の一番大切な人は、優季奈ちゃんだから。俺にとって、優季奈ちゃんだけだから」



 全然変わっていない。


 優季奈は入院当時のことを想い出している。あの時から、織斗は優季奈の目を見つめて、真っすぐに語りかけてくれた。


 顔立ちは少年から青年に変わっていても、本質はそのままだ。



「でも、でも、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様を見つめたまま、だらしない顔になっていたもの」



 これは完全に織斗を困らせてやろうという優季奈の意地悪だ。優季奈自身、わかっていながらも、言葉にせずにはいられなかった。



「ごめんね、織斗君、私、本当にいやな子だ。また我がままを言って、織斗君を困らせてる」



 口にしてしまってから後悔している優季奈を織斗は優しく見つめている。



「前にも言ったよ。俺にだったら、いくらでも言ってくれていいんだ。それもひっくるめての優季奈ちゃんなんだ。俺はそんな優季奈ちゃんが誰よりも大切だから」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめも季堯も沈黙のまま、二人の様子を優しく見守っている。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの視線が二人から季堯に移り、気づいた季堯はわずかに表情を崩した。



≪季堯、私は今でも時折想い出すのです。季堯は懸命に私に訴えかけてきましたね。私と季堯では住む世界は無論のこと、存在意義そのものが異なる。それでも、季堯はあきらめなかった。いつしか、私も季堯に応えたいと想うようになりました。人の想いとは、かくも強いものなのだと、初めて知ったからです≫



 季堯は無言で聞き入っている。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは、そもそも返答を求めていないのだろう。淡々と言葉をつむいでいく。



≪時に人の願いは強すぎるあまり、己の心さえ壊してしまいます。一時期の季堯も、そうでしたね。願いを全て叶えられるなら、叶えてやりたい。ですが、神々にもできないことは山のようにあるのです。時としてあやまちすらおかしてしまう≫



 季堯の表情が明らかに曇っている。驚愕というより、むしろ困惑の色が濃い。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、僭越せんえつながら申し上げます。神々が人の前で弱みをお見せになるなど、あってはならぬことと存じます。人にとって、神々という存在は、希望であり、救いであり、心のり所でもあります≫



 錯覚だっただろうか。一瞬で消え去っていた。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの顔によぎったさびしげではかない笑みは、もはやそこにない。



≪分かっていますよ。このようなこと、季堯の前だからこそ、私も口にできるのです≫



 絶句する季堯を楽しそうに見ている木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは、いつもの女神そのものだった。



≪この二人には辛い想いをさせてきました。我が愛し子には、女神として、また母として、できうる限りのことをしてあげたいと想っています≫



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめいつくしみの眼差まさざしで優季奈を見つめる。その両の瞳に映るのは、優季奈ただ一人だ。



≪風向織斗、立ちなさい。そなたには、今から別の場所へおもむいてもらいます。伊邪那美命いざなみのみこと様がお待ちです≫



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの言葉に、織斗は弾かれたように立ち上がる。


 いよいよ、この時がやってきたのだ。



≪その前に、私からの試練を受けてもらいます≫



 女神の視線に射貫いぬかれた織斗は、固唾かたずむしかできなかった。

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