第118話:誕生日祝いと幽世の秘宝

 朔玖良さくら神社本殿に向かう木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの歩調に呼応して、さくらの花びらが舞い落ちてくる。


 後に続く季堯すえたか優季奈ゆきな織斗おりとの頭上にもみやびに降り注ぐ。



(そうか。そうだったんだ。だから、俺は)



 織斗の心の想いは、そのまま木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめに伝わっていく。



風向かざむかい織斗、ようやく気付きましたか。そなたにしては、随分と時間がかかりましたね」



 柔らかな微笑を浮かべている木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは全てを見通しているのだろう。


 織斗は並んで歩く優季奈の横顔を見つめた。熱い視線を寄せられ、優季奈がいささか居心地悪そうにしている。



「お、織斗君、そんなに見つめないで。恥ずかしいよ」



 ささやき声になっている優季奈がいとおしい。織斗は慌てて謝罪する。



(俺、そんなに優季奈ちゃんの顔を凝視してたのか。でも、仕方がないよ。優季奈ちゃんなんだから)



「仲がよくて結構です」



 朔玖良神社全体が薄桃色はくとうしょくに満ち、輝いている。


 現世うつしよではあり得ない光景が広がり、二人を圧倒している。



「ここには私の許しを得たものしか立ち入れません」



 朔玖良神社内は、たとえるなら女神の聖域だ。足を一歩踏み入れた時から優季奈と織斗は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの力によって守護されている。


 二人にもようやく実感できたのだろう。ここまでの緊張が嘘のようにけていった。



「私は本殿に入り、用事を済ませてきます。季堯、あなたも一緒に」



 取り残されそうになっている優季奈と織斗は戸惑いの色が隠せない。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは二人に視線を転じ、信じがたい言葉を発する。



「ここにある全ての櫻樹おうじゅは、現世うつしよにあるものの親樹しんじゅです。そなたたち人は、それを神月代櫻じんげつだいざくらと名付け、鎮魂ちんこんの櫻樹としておそれ、うやまい、いつくしんでいる」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは慈愛のこもった眼差しをもって、佐倉優季奈、風向織斗、と二人の名前を呼ぶ。



「あの時に果たせなかった約束を果たすに、よい機会となるでしょう。満開の櫻樹たちも、そなたたち二人を歓迎しています」



 想いもよらぬ言葉に、優季奈も織斗も思考が停止しているのか、立ち尽くしている。



「しばし、二人でゆっくりなさい」



 黒猫の季堯を伴って木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの姿が本殿内に消えていく。




「織斗君」


「優季奈ちゃん」



 優季奈と織斗は咲き誇る櫻樹に目を奪われながら、同時に互いの名前を呼んだ。



「織斗君から先に言って」


「優季奈ちゃんからどうぞ」



 またも言葉は同時だ。二人は顔を見合わせ、場違いにもき出していた。



幽世かくりよに下って、こんな体験ができるなんて、想いもしなかった」



 織斗のこぼしたつぶやきに優季奈もうなづくしかない。全く同じ想いだった。



 現世うつしよでは二度と叶わない約束だ。


 一度目は優季奈の死によって断たれた。


 二度目は現世に戻れたらの話だ。可能性は残されているとはいえ、優季奈の一年という寿命が尽きる先、神月代櫻が満開になるかは誰にも分からない。



「満開の神月代櫻の下で優季奈ちゃんの誕生日を祝いたい。でも、そんな願いも、あの日を境に永遠に奪われてしまった」



 この三年間、織斗の心からその願いが消えたことはない。たとえ奪われても、想いは決して失われない。



「それが今、ようやく叶ったよ。しかも、幽世で、神月代櫻の親樹の下でね」



 互いに握り合った手に力がこもる。


 織斗は大胆にも優季奈を抱き寄せ、腕の中に包み込む。



「優季奈ちゃん」



 いとおしい人の名前を優しくささやく。


 織斗の胸に顔をうずめている優季奈が小さく頷く。



「遅くなってしまってごめんね。十五歳の誕生日、十六歳の誕生日、十七歳の誕生日、そして十八歳の誕生日、おめでとう」



 優季奈は小さく肩をふるわせながら涙を流している。それは織斗にも伝わっている。



「織斗君、ありがとう。本当にありがとう。私ね、とても幸せだよ」



 優季奈も織斗も、ずっとこのままでいられたらと願わずにはいられない。



 優季奈は十九歳の誕生日直前に寿命が尽きる。


 それを考えるだけで、胸が張り裂けそうだ。けるすべがあるなら、たとえどんなことであろうともやりげてみせる。



 織斗は優季奈を抱きしめながら固くちかった。



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 本殿内で優季奈と織斗を見つめていた木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが何度もうなづいている。


 黒猫姿だった季堯すえたかは青年期の姿をまとい、数歩離れた後方で片ひざをついて控えている。



「季堯、先に申したとおり、私は満足しています。この二人をよくぞここまで連れてきてくれました。私のできうる限りにおいて、そなたの望みを一つだけ叶えてあげましょう」



 かしこまったままの季堯が神妙に応える。


 女神なら、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめなら、季堯の一番の願いを知らないはずもない。


 あの時の後悔は、今なお引きずっている。二度と口にしてはならない。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、私も先に申し上げたとおりでございます。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様にお逢いできたこと以上の望みなど、この季堯にはございません」



 柔らかな微笑の中に、これまで見られなかった冷たさ、怒りといったものが感じられる。


 季堯は即座に己の言葉があやまちだったことに気付いた。平身低頭する季堯の上から言葉が降ってくる。



「季堯、私がそなたの一番の望みを知らないとでも思いましたか。現世うつしよにおいて、謙虚さは人の美徳でもあるのでしょう。それも度が過ぎると滑稽こっけいかつ無礼千万ぶれいせんばんです」



 季堯は己の浅慮せんりょを呪うしかなかった。一度口に出してしまった言葉は、なかったことにはできない。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、誠に申し訳ございません。浅慮のあまり、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様の御心みこころを傷つけてしまいました。この大罪はいかように罰せられようとも、甘んじて受ける所存でございます」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは手にした鈴を軽やかに振った。み渡った清浄な音色が本殿内に広がっていく。



 季堯は驚愕きょうがくの声を上げていた。


 つい今しがたまで存在しなかったものが本殿中央部に出現している。



亡失鏡ぼうしつきょうです。その名のとおり、既に失って久しいものを映し出します。幽世かくりよの秘宝の一つで、本来ならば、悠久を過ごす神々にしか扱えません。季堯、そなたは私にとっても特別、一度だけ私の権限において許しを与えます」



 縦長楕円だえんの鏡面は漆黒に包まれ、何も映し出されていない。鏡の周囲は材質さえ分からない金属のようなものでふちどられ、鈍色にびいろに輝いている。



「私が今一度、鈴を打ち鳴らせば、鏡面の漆黒はせます。そなたが鏡面の前に立つことで、失って久しい、最も大切なものが映し出されるでしょう」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが何を見せようとしているのか、分からない季堯ではない。


 季堯は恐ろしかった。ここで最も逢いたかった者を見てしまうと、もはや二度と忘却ぼうきゃくできなくなる。


 そして、もう一度、さらにまた一度と、逢いたい気持ちが際限なくふくれ上がっていくことも容易に想像がつく。



「一つだけ忠告しておきます。映し出されるものは、そなたの記憶の中にあるもの、すなわち虚像きょぞうです。これもまた幽世かくりよ摂理せつりなのです。あの時であれば、私の力をもって。今さら詮無せんなきことですね」



 季堯は全く動けなくなっている。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの言葉でようやく正気に戻ったものの、決断できないでいる。



「季堯、いずれかを選ばなければなりません。決めるのはそなた自身です」



 逢いたい。最愛の亡き妻に心から逢いたい。


 その想いは強固で、迷いはない。問題はその後なのだ。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめを待たせるわけにはいかない。


 それに、外にいる優季奈と織斗のことも気がかりだ。むしろ、今回の主役は二人であり、季堯は脇役に過ぎない。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、多大なるご厚情こうじょうに心より感謝申し上げます。亡き妻に逢いたい。私の想いは永遠に不変です。そのうえで、妻には逢わず、現世うつしよに戻りたく存じます」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは分かっていた。季堯がその道を選ぶであろうことが。


 同時に視えている。還魂かんこんの秘術は非常に強力な術に違いない。それも女神の目から見れば、決して未来永劫えいごうの効力など持ち合わせていない。


 黒猫の体内で生を維持する季堯の魂は近いうちに消滅を迎えるだろう。そうすれば季堯はおのずと幽世かくりよの住人になる。



「それがそなたの決断なら、私は何も言いません」



 その言葉の中に様々な想いがめられている。



「季堯、そなたほどの者なら気付いているでしょう。かなしいですね」



 今この時に逢えずとも、既に千年以上も待っているのだ。いずれ、その機会は訪れる。


 唯一いだいていた危惧も、木花之佐久夜毘売の言葉で現実のものとなってしまった。それでも、季堯には一切の後悔もなかった。



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが鈴を下に向けて軽く打ち鳴らす。


 亡失鏡ぼうしつきょう忽然こつぜんと姿を消していた。



「佐倉優季奈、風向織斗、二人を本殿に招き入れます」

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