第117話:闇の中の光

 んだ鈴の音が高らかに鳴り渡る。


 音色は次第に強さを増していき、漆黒に染められた空間に浸透していく。最高潮に達した時、立ち込めていた闇は完全に払われていた。



 優季奈ゆきな織斗おりとは恐る恐る顔を上げた。信じがたいことに、二人は生者としてのあかし、肉体を認識できている。


 二人の視覚が空間に広がる光を、その先に立つ美しい女神をとらえている。


 美しい。


 そんな陳腐ちんぷな言葉で形容などできない。相応ふさわしい言葉がない。



「立ちなさい」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの声が聴覚を震わせる。脳が反応を返す前に、優季奈も織斗も放心状態におちいっている。


 女神を前にしているのだ。当然といえば当然だろう。



「お互いに深く想い合っている。重畳ちょうじょうね」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの視線がどこに向けられたのか。気づかない二人ではない。


 ずっと握り合っている手だ。


 触覚も戻ってきている。二人は互いの手をさらに強く握り合った。



 幽世かくりよにおいて、優季奈と織斗は五感の内、三感まで実感できたことになる。残るは二感だ。



「ついてきなさい」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは背を向け、静々しずしずと奥に進んでいく。


 彼女の口調は明らかに命令調だ。それでいて、威圧的なところが全く感じられない。



 黒猫のままの季堯すえたかを先頭に、優季奈と織斗は素直に従った。


 視界が戻ったためか、光の外側に広がる闇についつい目が行ってしまう。


 闇の中で、はっきりとしないものの、確かに何かがうごめいている。形容しがたい。異形いぎょうとでもいうのか、形も大きさも様々だ。


 一つだけ明確なことがある。それらの視線が一点に集中している。


 視線といっても、生者のように目があるわけではない。あくまで目のようなものだ。それにたとえあったとしても、優季奈や織斗には認識できない。



「恐れをいだいてはなりません。この者たちは等しく幽世の住まう我が子です」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは静かに立ち止まると、闇に向けて優雅に手を振ってみせる。



「ここに近づいてはなりません。しかと申し伝えましたよ」



 先ほどまでとは、いささか口調が違う。優しさに満ちていながら、厳しさが含まれている。


 大半のうごめきが、その言葉だけで波が引くがごとく去っていった。


 一部だけが、なおも闇と光の境界に近い闇側で残っている。それらが向けてくる視線には敵意が満ちている。


 無論、女神に対するものではない。優季奈と織斗、生者の二人に集中している。


 肌を刺すような痛みが感覚を通じて伝わってくる。優季奈も織斗も、初めて向けられるあからさまな害意に何もできないまま立ち尽くしている。



「困った子たちね。私の言葉が聞こえなかったのですか。二度は言いませんよ」



 厳しさの度合いが数段増した。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは闇に群がる蠢きに一瞥いちべつを向けると、鈴を鋭く振り鳴らす。


 先ほどとは異なる、おだやかながらもとがった高音がけ抜けていく。


 音色が光の中で広がりきった時、全ての蠢きが見事なまでに静止していた。もはや、優季奈と織斗に向けられていた敵意も消え失せている。



「さあ、戻りなさい」



 境界にいた蠢きが去っていく。


 息を詰めていた優季奈も織斗も、ようやく動けるようになった。



「私の子たちが迷惑をかけました」

 


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは振り返らず、言葉のみを残して光の中を再び歩み始める。



 柔らかな光は常に一定の明るさを保っている。


 当然、幽世に太陽など存在しない。光の元となるものがないのだ。


 呼吸ができているだけ、まだましか。それさえも必要となる元素が存在しているのかわからない。


 幽世は現世うつしよとは全く違う摂理せつりを有している。生者にとって、まさしく未知の世界なのだ。



 二人の心の動きを感じ取ったのだろう。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめが語りかけてくる。



「光の中は私の力によって現世と同じ環境になっています。五感が戻ったのも、呼吸ができるのも、そのためです」



 光は木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの歩みに応じて動いている。


 この状態で、もし光の外に放り出されたらどうなるのだろう。いやな考えが頭をよぎる。



「万が一もありません。しかしながら、そうなれば二人はそのまま幽世の住人になります。何を意味しているか、理解できますね」



 優季奈と織斗は、認識できるようになった互いの顔を見つめている。


 呼吸や五感が戻った際の安堵が一気に吹き飛び、さらなる恐怖感が押し寄せてくる。



おどしではありません。光と闇は表裏一体、決して忘れてはなりません」



 現世であろうと、幽世であろうと、優季奈の気持ちに、織斗の気持ちに変わりはない。互いの手を力強く握り締める。


 ただそばに優季奈がいればいい。織斗がいればいい。その気持ちだけが強くふくらんでいく。



季堯すえたか、この二人をよくぞ幽世に連れてきてくれました。この二人ならば、伊邪那美命いざなみのみこと様の。言葉が過ぎました。後ほど、季堯に礼を送りましょう≫



 季堯が尋ねるよりも先に、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは言葉を引っ込めてしまった。


 あえて尋ねておくべきか。迷ったわずかの時間できっかけは永遠に失われていた。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、私は礼を送られるようなことは何もしておりません。むしろ、このような機会を与えていただき感謝しております。何よりも、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様にお逢いできたことが私にとっての最高の褒美です≫



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめからの言葉はない。



 どれぐらい進んだのだろうか。一時的に五感が戻ったとはいえ、時間感覚は依然として失われたままだ。



 比べようもない光が突然押し寄せる。


 あまりのまばゆさに優季奈も織斗も想わず目を閉じてしまう。


 時の流れがわからないままに、目が慣れてきたところでゆっくりと開く。




 眼前に広がる光景が一転していた。


 視覚のみならず、残された五感の内の一つ、嗅覚をも刺激してくる。



すごい」



 優季奈も織斗も、感嘆かんたんの声しか出てこない。季堯でさえ同様だ。



「ああ、これは」



 季堯が見間違うはずもない。


 光の中に建つのは、疑いなく朔玖良さくら神社であり、全盛期の姿を威風堂々と見せている。



「季堯を驚かせることができてよかったわ」



 優季奈と織斗が恐縮しきりで木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの表情をうかがっている。


 二人の心情は全く同じだった。



(女神様でも、このような表情をなさるんだ)



 優季奈と織斗の視線もまた釘付けになっている。


 二人の目を奪っているのは朔玖良さくら神社ではない。


 荘厳そうごんな朔玖良神社を包み込むようにして伸びるさくらの巨樹群だ。



 今が盛りと満開に咲き誇っている。



 優季奈と織斗の嗅覚を刺激するにおいは、紛れもなくこれらの櫻からだった。

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