第116話:幽世と女神

 黒猫に先導され、優季奈ゆきな織斗おりとが結界内に入る。踏み入れた途端、異様なほどの冷気に包まれる。



≪案ずるな。生者と死者を選別するためのものだ≫



 これこそが生者に忌避きひ感や恐怖心を抱かせる要因だ。神月代櫻じんげつだいざくらが持つ特性の一つとも言えるだろう。



 季堯すえたかの言葉に納得したのか、二人はうなづきながらも沈黙を守っている。


 幽世かくりよに下りきるまで、言葉を発してはならない。季堯に命じられている。



 いよいよだ。神月代櫻の幹のすぐそばに立つ。これをくぐり抜ければ、そこは幽世だ。



≪生者であるがゆえに様々な感情がある。それらを一切見せるな。よいな≫



 最初の難関、神月代櫻の樹内に入るための門では、感情の有無を確かめる。


 当然ながら、死者に感情はない。偶然にも結界内に立ち入り、あまつさえ生者の状態を維持できた者をここで容赦なくふるい落とす。



 優季奈も織斗も極度の緊張状態にある。


 入口でこの有様だ。先が思いやられる。季堯はため息混じりに、鋭い鳴き声を上げた。



≪何も考えず、堂々としておればよい。そなたたちがこばまれることはない≫



 そう言われても、思考と感情は全く別ものだ。



≪もう一つ忠告しておく。樹内に入るや、何ものかにれられるであろう。いわば通過儀礼のようなものだ。声を出すでないぞ≫


 小出しにしてくる季堯がいささかうらめしい。


 男の織斗でも良い気がしないのに、女の優季奈はなおさらだ。少しばかり嫉妬心しっとしんが出てしまったのだろう。



≪若くて結構だ。だが、その嫉妬心を向けるのは、娘だけにしておくのだ≫



 それはそれで問題だろうと想いながら、織斗は優季奈に視線を向けた。


 死を偽装しているため、肉体のあらゆる部分が動いていない。それでも優季奈の感情はしっかり伝わってくる。


 握った手に先ほど以上の力が入っているからだろう。織斗もまた握り返す。



(木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、貴女様の子供は立派に成長しております。今からお連れいたします)



≪参るぞ≫



 歩み始めた黒猫の姿が神月代櫻の樹内へと吸い込まれていく。優季奈と織斗も手を握り合ったまま、後に続いた。




 季堯が言ったとおりだった。


 全身に何かがまとわりついている。いくら死を偽装しているとはいえ、身体が反応しないとはいえ、得体の知れない不気味さと恐怖が感情を刺激してくる。


 優季奈も織斗も叫びたくなっている。


 季堯は一向に助けてくれない。それどころか、二人を置いて先に進み続けている。



(この薄情者はくじょうもの)



 声に出せない分、心の中で悪態あくたいをつく優季奈と織斗だった。


 それがこうそうしたのかもしれない。


 気がまぎれたせいだろう。気づいた時には、二人して神月代櫻の樹内に立っていた。先ほどまでの嫌な纏わり感はない。



 しばらく進んだところで、黒猫はこちらに目を光らせながらとどまっている。その姿を見て、二人は想うのだ。



(何だか、初代様の手のひらの上で転がされているみたい)




 優季奈と織斗は目的もわからないまま、ひたすら黒猫の後を追って歩き続けている。歩く、といってもその感覚はない。


 はたから見れば、大地の上をすべっている、という表現が相応ふさわしいだろう。



 幽世に下ってからというもの、時間感覚が全くない。どれぐらい歩いたのかもわからない。そもそも、疲れさえ感じていない。


 目の前はあらゆるものが黒塗りで、進むほどに色濃くなっている。


 時折、いびつに濃かったり薄かったりする部分が見受けられる。それが何を意味しているかは二人が知るよしもなかった。



 これが死者の感覚なのかも、と取り留めのないことを考えつつ、あちらこちらに視線を走らせる。何もかもが興味深い。



≪気になるのは仕方ないが、視線を固定しておくのだ。幽世の住人には勘の鋭いものもいる。疑いをいだいたら、奴らはどこまでもついてくるぞ≫



 おどしでも何でもない。幽世に下った経験のある季堯だから言えることだ。



≪急ぐぞ。私とてあまり長居ながいはしたくない。目的の場所まで、およそ半分といったところだ≫



 再び歩み始めた黒猫の後を急ぎ追いかける。


 優季奈と織斗は季堯の警告を守りながら、どうしても視線は動きがちだ。二人ともに好奇心が旺盛おうせい、しかも幽世という特殊すぎる世界で目にする全てが新鮮に感じるのだろう。


 惜しむらくは肉眼で視認できないことだ。



 時間感覚のない中、いったいどれほど歩いただろうか。


 優季奈も織斗も、恐怖心こそあるものの、感情に刺激を与えてくれる未知の世界のおかげで救われていた。




≪ここで止まるのだ≫



 季堯の声が響くと同時、これまで垂れ込めていた深い闇が急に晴れた。感覚的に漆黒が純白に変わった、といったところか。



≪まもなく女神様がご降臨こうりんなさる。お許しがあるまで、ひざまずき、こうべを垂れるのだ≫



 季堯は黒猫の姿で言葉どおりの姿勢を取っている。


 優季奈も織斗も素直に従い、その場で跪くと、頭を下げた。


 優季奈は両手の指を胸前で組んでいる。織斗は手を重ね、立てた脚の膝上ひざうえに置いている。


 二人が考えた女神への敬意の表れだろう。




 冷気が支配する世界に光が静かに降りてくる。


 光は次第に明るさを増し、それと共に冷気が弱まっていく。


 近づいてくる光に交じって、何かがこすれる音がする。優季奈も織斗も咄嗟とっさに想った。衣擦きぬずれの音だと。


 もう一つ、すずやかな音色が心の中に広がっていく。



(間違いなく女神様だ)



「正しく認識できているようで何よりです」



 疑いの余地はない。慈母じぼの声だった。


 闇の中における唯一の光、全てを失くしてしまった死者をなぐさめる唯一のぬくもり、それこそが女神の偉大なる力なのだ。



「季堯、久しいですね。ここまでの先導役、ご苦労でした」



 既に滂沱ぼうだ状態の季堯は言葉を完全に失っている。



「季堯は相変わらず泣き虫なのですね。再び逢えて嬉しいですよ」



 感涙かんるいむせぶ季堯はどうにか声を振り絞り、言葉にした。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様、このような姿で、誠にご無礼いたします。私も、私もお逢いできて、これ以上の僥倖ぎょうこうはございませぬ」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの目が季堯の背後で頭を垂れ、跪いたままの優季奈と織斗に注がれる。



「我がいとたる佐倉優季奈、伊邪那美命いざなみのみこと様の恩寵おんちょうけし風向かざむかい織斗、おもてを上げなさい」



 優季奈と織斗がそろって恐る恐る顔を上げる。そこに先ほど感じた、んだ美しい音色が強さを増しながら響き渡る。



「幽世によくぞ参られた。そなたたちを歓迎します」



 光と音の洪水がまたたく間に優季奈と織斗、黒猫の季堯をみ込んでいった。

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