第115話:大いなる力による秘儀の完遂
「
全神経を集中している橙一朗の額には、玉のような汗が幾つも浮かび上がっている。
「
繰り返される呪は次第に強さを増し、それに伴って二つの玉にも変化が生じていた。振り子時計のごとく、規則正しく左右に揺れ動く。
≪
黒猫の中で
決して失敗は許されない。遊離したばかりの魂は実に不安定で、少しの弾みで体内に戻れなくなる。慎重にも慎重を期さなければならない。
左右への振れ幅が大きくなっていく。
透明の玉がゆっくりと白色に彩られていく。
「
橙一朗の呪が続く。
明らかに二つの玉の濃度に差異が見られる。生ける玉が圧倒的に強い白色、死せる玉が弱い白色に染まっている。
≪二人の魂が無事に遊離し、それぞれの玉に収まったな≫
ここまでが第一段階だ。
いつしか橙一朗の唱える呪も静寂の中に沈んでいる。
「無事に遊離できたようじゃな」
橙一朗には二つの玉の様子が手に取るように見えている。玉の内部で魂が
「これで一安心じゃ。さて、秘術の仕上げといこうかの」
再び両手で複雑な印を結ぶ。先ほどとは印形が異なっている。
精神を集中、呪と唱えようとしたところでいきなり橙一朗の身体がぐらつく。
≪橙一朗、しっかりしろ≫
心の中に路川季堯の鋭い声が突き刺さる。
慌てて踏ん張り、身体をもとの位置に起こす。
≪呪が途中で乱れればどうなるかを知らぬお主ではあるまい。橙一朗ほどであっても歳には叶わぬか≫
最初は厳しい忠告、次いで落ち着かせるための冗談交じりの言葉に橙一朗は苦笑を浮かべつつ、再び精神集中に入る。
≪初めて行使する術なれど、絶対に失敗は許されませんでな。今一度、気を引き締め直し、呪にかかりますじゃ≫
今の橙一朗の体力、精神力は秘術の完遂までに切れてしまうだろう。それが季堯の見立てだ。
≪私の力を貸そう。
黒猫は右前脚を小さく持ち上げ、橙一朗の左脚に乗せる。
五感が震えるほどの力が脚から伝わってくる。熱いのか、冷たいのかわからない。何とも不思議な力だった。
≪初代様、面目ございませぬな。ご助力に
印を結ぶ。
橙一朗の目は優季奈と織斗を
魂の遊離を終えた二人は肉体のみの存在、目は閉じられ、もちろん意識はない。大地に倒れ込まないのは橙一朗の術中だからだ。
これから二人の前に浮かぶ四つの玉に呪を打ち込んでいく。
「
魂の配分は終えている。それが濃度になって現れている。
橙一朗は両手で結んだ印を変形させた後、左右に広げていく。
空間に光と闇が集う。光は陽で白、闇は陰で黒、互いに交わるようで交わらない。わずかに一部だけ、白の中に黒点が、同様に黒の中に白点が浮かぶ。
すなわち、描き出されたのは
印を解いた橙一朗の右手が
白と黒が
橙一朗が右手をゆっくりと引き戻す。その手には白と黒が溶け込んだ
「
右手の陰陽霊剣をもって、空間を縦と横の交互に縦四本、横五本に切り払う。印を結ぶ
空間を切る
早九字の完了と共に陰陽霊験は消え去っている。橙一朗は全身汗だくになり、肩で大きく息をしている。
「早く二人に死せる玉を
≪古神道と陰陽道の呪を極めし橙一朗だからこそ成就できた。見事であった≫
優季奈と織斗の生ける玉に手を伸ばし、
護布には
橙一朗は二つの生ける玉を懐に大切に仕舞い込んだ。
「後は死せる玉を二人の心臓に埋め込めば」
死せる玉を
全身から急速に力が失われていく。激しい
≪橙一朗、しっかりするのだ≫
遠くから
ここで橙一朗が倒れてしまえば全てが
≪橙一朗、立ち上がって死せる玉を掴むのだ≫
いみじくも季堯が言ったとおり、
万事休すだった。
≪季堯、次代の櫻守の叫びが届きました。一度限り、私が力を貸し与えましょう。二人には、必ず
この声を忘れるはずもない。
季堯の
≪
黒猫は大地を
≪橙一朗≫
季堯が呼びかけるのと同時、橙一朗は素早く立ち上がって死せる玉を掴み取る。
≪初代様、この力は。ご迷惑をおかけしましたな≫
「二人とも待たせてしまって済まぬな。もう大丈夫じゃよ」
両手にした死せる玉を優季奈と織斗、二人の心臓の真上に押し当てる。
「
最後の呪が橙一朗の
漆黒に染まった死せる玉が、ゆっくりと心臓の中へと消えていく。
これにて秘儀は完遂した。
肩に乗ったままの黒猫が天頂に輝く新月に向かって鳴き声を上げている。
安堵と歓喜、そして感謝だ。少なくとも橙一朗にはそのように感じ取れた。
≪橙一朗、よくぞやり
魂が肉体に戻ったことで、優季奈と織斗の目がゆっくりと開く。戻したと言っても、死を偽装するため、ごくごくわずかでしかない。
「秘術は無事に終わった。二人とも異常はないかの」
随分と苦しそうな橙一朗を見て、優季奈も織斗も言葉が出てこない。二人の表情から察したのだろう。
「儂は大丈夫じゃよ。それよりも身体に異変は」
言葉を
「頭を上げなされ。礼など不要じゃよ。儂は儂の役目を果たしたにすぎぬ。これより先は初代様が道案内をしてくださる」
肩から飛び下りた黒猫が優季奈と織斗の前で大きく背を伸ばす。
≪私の先導で幽世に下る。結界内に入れば、そこは死者の世界だ。そなたたちはあくまでも死者であることを忘れるな≫
優季奈と織斗は見の
そんな二人がしっかり手を握り合っているのが何とも印象的だった。
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