第七章

第114話:二人の魂は分かたれる

 神月代櫻じんげつだいざくらのはるか頭上で美しい月がきらめている。


 白銀に輝く光が地上にあまねく降り注ぎ、すぐそばたたず優季奈ゆきな織斗おりとを優しく照らし出している。



 二人は路川家が用意した白装束しろしょうぞくに身を包んでいる。一週間の斎戒沐浴さいかいもくよくを済ませ、路川家をおとなうなり幽世かくりよに下るに相応ふさわしいしい礼装れいそうに着替えさせられたのだ。


 優季奈と織斗は一週間ぶりの対面となる。ここまでひと言の会話はない。



 佳那葉にいざなわれた優季奈と織斗の姿は、神月代櫻の結界境界線の外側、つまり現世うつしよ側にある。一歩進めば、もはやそこは幽世入口だ。



 少し離れた場所に二人の両親、鞍崎慶憲くらさきよしのり綾乃あやの沙希さき汐音しおんが控えている。


 誰も口を開かない。この場を支配する厳粛げんしゅくなる雰囲気がそうさせているのだろう。



 宮司ぐうじの衣をまとった路川橙一朗みちかわとういちろうが二人の前に立ち、念押しの確認をしてくる。



「改めて聞こうかの。幽世に下るに、ご両親から承諾を得られたということでよいかの」



 橙一朗は二人の顔色を見て、言葉を発する。



「得られなんだか。それでも決意は変わらぬか」



 優季奈と織斗が顔を見合わせ、どちらが答えるべきかの相談をしている。



諸手もろてを挙げて、とはいきませんでした。条件付きでの承諾といったところでしょうか」



 橙一朗は怪訝けげんな表情を浮かべ、目をもって続きを促す。



「俺のところは父が、優季奈ちゃんのところはお母さんの美那子さんと叔父の鞍崎さんが、それぞれの条件をむことで渋々ながら認めてくれました」



 利孝、美那子が出した条件と、鞍崎慶憲のそれとでは種類が異なる。


 前者は親として子を想うがゆえの条件であり、鞍崎慶憲は叔父おじとしては全面賛成ながら教育者としての譲れないそれだ。



「詳しくは聞かぬが。御三方おさんかたが出された条件は達成できるのじゃな」



 再び顔を見合わせ、今度は優季奈が答える。



「もしできない時は、私だけ幽世に残ります。残りの寿命を全て捧げます。だから、必ず織斗君を現世に戻してください」



 橙一朗でさえ驚愕すべき優季奈の発言だった。


 想わず織斗に問いかける。今度は言葉をもって直截ちょくさい的に。



「織斗君は今の優季奈さんの言葉に納得しているのかの」



 納得などしているはずもない。織斗は否定のために首を横に振る。



「それ以前の問題です」



 織斗は優季奈と橙一朗のみに聞こえる程度に声を小さくしてから続ける。



「優季奈ちゃんと一緒に幽世に下るには、父と美那子みなこさんが突きつけた条件を呑むしかありませんでした」



 ひと呼吸置いて、さらに織斗が言葉をつむぐ。



「俺は、守るつもりはありません」



 橙一朗が目を見張っている。優季奈もまた同じ反応だ。



「織斗君、待って。聞いていないよ」



 優季奈が抗議の声をあげている。


 織斗はあえて言ってない。言えば優季奈は確実に反対するからだ。



 両親の願いは優季奈と織斗がそろって無事に現世に戻ってくることだ。それ以外の望みなどない。だからこそ、厳しい条件をつけざるを得ない。


 美那子と利孝としたかがまるで示し合わせたかのように突きつけた条件は二つだった。


 一つ目は二人そろって期限内に現世に戻ってくること。


 二つ目は一つ目がかなわなかった時、優季奈の残りの命を犠牲にしてでも織斗を現世に強制的に戻すことだ。


 二つ目はもっぱらら美那子が出してきた絶対条件でもある。利孝もこの時ばかりは異論を唱えなかった。唱えたところで、美那子の意思は変わらない。確信していたからだろう。



 路川季堯すえたかの影響も多少はある。


 織斗には二人の女神の恩寵おんちょうが与えらえている。より上位に立つ伊邪那美命いざなみのみことは幽世をべる女神だ。その力をもってすれば幽世の外へ戻すことも可能だ。


 優季奈は優季奈で木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ寵愛ちょうあいけている。優季奈が自らの命を投げ打ってまで懇願すれば、その想いは叶えられるだろう。


 いずれも保証など皆無だ。にもかかわらず、美那子も利孝も迷いを抱いていない。



「どういうことじゃ。説明してくれるかの」



 橙一朗が厳しい視線を向けてきている。織斗は真っ向から受け止め、答えを返す。



「二人そろって現世に戻ってくる。期限内にです」



 幽世と現世では時の流れが異なっている。沙希が大人たちから預かってきた質問の一つだ。返答したことで、彼らが考えた末での条件を出したのだろう。



「期限とはいつまでじゃな」



 路川季堯の感覚として、幽世の一日は現世の一月ひとつきに相当する、と聞かされている。



「最大限引っ張ったとして、今年中に戻る必要があります」



 理由は問わずともわかる。


 沙希と同級生の織斗は優秀な学生だと聞いている。当然、一流大学への受験が視野に入っているだろう。鞍崎慶憲の懸念もこの辺りにあるのだろうと容易に推測できる。



「年内ともなれば、五ヶ月足らずじゃな。初代様の言葉を借りるなら、幽世に滞在できるのは、よくて五日程度といったところかの」



 五日という数字が大きいのか小さいのか、橙一朗にも判断できない。


 幽世に下って、現世に戻るための所要時間はもとより、女神が何を求めてくるかもわからないからだ。



「済まぬが儂からは助言もできぬ。全ては女神様の意思一つ、幽世に下るしかあるまいな」



 優季奈も織斗もその覚悟でこの場に立っている。


 話が終わったわけではない。優季奈の詰問が始まる。



「織斗君、ちゃんと説明して。私の想いはもう伝えているよ」



 幽世に下る前に解決しておくべき問題だ。織斗もはなからそのつもりだったのだろう。



「二つ目、美那子さんが出した条件は絶対に吞めないよ。万が一の時、優季奈ちゃんの残りの寿命を犠牲にして、俺だけが現世に戻るなんてあり得ないから。そうなったら俺も幽世に残るよ」



 優季奈が絶句している。



「俺も優季奈ちゃんに言ったね。どこに行こうとも、それが幽世かくりよであろうとも、ずっと一緒だよ」



 一切の迷いもない断言だった。


 織斗にとって、月下の誓いは絶対だ。月に御座おわす女神、月読命つくよみのみことの下で口にした言葉を反故ほごにするなどあり得ない。



「もし、もし、そうなったら織斗君は二度と沙織さおりお母さん、利孝としたかお父さんと逢えなくなるんだよ」



 それが何を意味するかは織斗も重々承知のうえだ。



「わかっているよ。だから、そうならないためにも必ず二人で一緒に現世に戻るんだ」



 どこからここまで強気の発言が出てくるのだろう。


 上目遣うわめづかいの優季奈は泣いていいやら、笑っていいやら、感情があまりに取り乱されて大変な状況になっている。



「そのための橙一朗さんの秘術であり、そして初代様が道案内までしてくださる。路川家の皆さんが優季奈ちゃんと俺を現世に戻すために尽力してくださる。そうですよね」



 織斗もあの場で浮かび上がった路川季堯の姿を視認したものの、両親たちとの会話は一切聞こえなかった。


 後から初代様であり、その名前も聞いたはずが、なぜか初代様という記憶しか残っていない。どうしても名前だけは想い出せないでいる。



(それは些末さまつなことだ。今は無事に幽世に下り、優季奈ちゃんと一緒に現世に戻る。それだけを考えていればいい)



 織斗に目を向けられた橙一朗は破顔一笑はがんいっしょう、大きくうなづいてみせる。



「そろそろ新月が天頂に差しかかる。頃合いじゃな。心の準備はできておるかの。儂が術に入れば、もはや後戻りできぬでな」



 おだやかでありながら、威厳のある口調だ。


 橙一朗の意気込みとでもいうのか、初めて行使する術ながら、絶対に失敗は許されない。全てはこの術にかかっている。



(儂が生きている間に、これほどまでの僥倖ぎょうこうに巡り逢えるとはの。まさしく感無量じゃ。この二人を何としてでも現世に戻さねばならぬな。儂の残り少ない命を全て注ぎ込もう)


 ある意味で両親をだますことになった織斗は心で沙織と利孝にびながら、優季奈は無事に戻ってこれることを心で祈りながら、二人そろって振り返り、両親と友人を見つめる。


 同時に首を縦に振る。



「では始めよう」



 今までにないほどの厳しい表情で橙一朗は精神集中に入っている。いつしかそばには黒猫が見守るがごとく鎮座ちんざしている。



古神道秘儀こしんとうひぎ十種神宝とくさのかんだからの御力をもって清浄なる魂をここに分かたん」



 橙一朗が両手を胸前に差し出し、複雑な印を結ぶ。



 優季奈と織斗の足元に置かれた二つの玉がゆっくりと浮かび上がっていく。



「ひふみ よいむなや こともちろらね

 しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか

 うおえ にさりへて のますあせゑほれけ」



 静かにくちびるが震え、歌うかのごとくしゅが流れていく。


 四十七文字を唱えた後、同じ呪を二度繰り返し、四十八文字目、最後の一文字を裂帛れっぱくの気合いと共に落とす。



「ん」



 月光の輝きの下、静寂が支配する空に呪が溶け込んでいく。



 優季奈と織斗の前では二つの玉、生ける玉と死せる玉がちょうど心臓部辺りで静止している。



≪いよいよだな。橙一朗の魂振たまふりの儀によって二人の魂が分かたれる。決してしくじるでないぞ≫



 黒猫こと路川季堯が見上げる中、橙一朗は秘儀を完遂すべく、最後の呪に取りかかった。

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