第10話 鹿王
ライラックが鹿王の住処へ到着すると、中から子鹿が出てきた。
「あ、ライラック様。来てくださったんですね。こちらへ」
跳ねるように駆けていく子鹿について行ったライラック。中に入ると、長よりも二回りくらい小さく角には葉っぱが生い茂っているが、苦しそうに横たわっている鹿がいる。
「じじ様、ライラック様が来てくださいました」
じじ様と呼ばれた鹿王は応えられず、呻くばかりだ。鹿王の腹の辺りに、何やら黒いもやがある。ライラックは顔をしかめた。
「鹿王はいつからこんな状態だ?」
「3日前、外から帰って来たときには、みんなに支えられてやっと歩いている状態でした」
「それまでは?」
「全くいつもと変わらず、元気でした」
子鹿はべそべそ泣きながら話す。そこに長が人間の様な姿と服を着て入って来た。あのままの大きさだと住処に入れないからだ。その後ろには同じく人間の姿をした女性もいた。
「次期の長が泣くんじゃない」
「でも父様、じじ様が苦しそうで」
子鹿は鹿王の顔をペロリと舐めた。
「ライラック、どうだ。何か分かるか?」
「厄介なモノに憑かれたな。まぁ、まだ3日ならなんとか…」
と、ライラックは手のひらに弓を出現させた。そしてその弓の弦を引っ張り離した。すると辺りがパァッと光に包まれる。そしてその弓を鹿王の腹に当てると、光が収縮し鹿王の腹に入っていった。
しばらくすると、鹿王はゴホゴホ咳きこみ、腹の中のモノを戻した。
それは黒い液体だ。
「あ、触るなよ。触ると鹿王みたいになるぞ」
ライラックは黒い液体を土ごと風魔法で削り、外に持っていく。そして結界に閉じ込め、火魔法で一気に燃やした。何かの悲鳴が聞こえた気がしたが気にしない。跡形もなく消えると、鹿王のところに戻った。
戻ると、鹿王の呼吸が安定しており、目も少し開いている。
鹿王がライラックに気づくと
「はぁ…すまん、手を煩わせた」
「じじ様!」
子鹿が鹿王の顔をペロペロ舐める。
「何があったのかは、あとで聞くとして、長、薬を煎じるから材料を用意してくれ」
ライラックから材料を聞き取り、長の後ろにいた女性、子鹿の母が外に採りにいく。念のため護衛も付けた。母鹿が外から帰ってくると、手渡された薬草と自ら持って来た薬品を鉢の中ですり潰して混ぜ、布巾に入れて搾り、その汁をコップに入れた。
「特急で作ったからな。苦いのは我慢してくれ」
コップを差し出すライラック。長はそれを手に取り、鹿王の口に持っていった。
「うぇっ。まずっ」
と、悪態をつきながらも鹿王は飲みきった。飲んで少ししたら、体が楽になった気がする。
「これは栄養剤だ。胃や腸の不調も緩和させる。あとは腹の傷を治す塗り薬も作ろう」
「傷だと?」
長が初めて聞いたように驚く。
「あぁ、腹の少し上に引っ掻いたような傷がある」
「外を巡回しているときに、知らぬうちに草のトゲで引っ掻いたのは覚えている。いつもあることだから放っておいたが…」
鹿王はいつものように外を見回っていて、草のトゲで腹を引っ掻いた。川に向かい、引っ掻いた痕を洗おうとして川に入ると、何かが傷に入り込む感じがした、という。すぐに川から上がり、住処に向かい歩き出した。本当は走り出したかったが、腹が重くゆっくりとしか歩けない。やっとのことで、村の入り口付近に辿り着き、門番の鹿達に発見され支えられて、住処に着くと横たわったまま動けなくなったらしい。
食べ物も水も受けつけられず、どうしようかと思ったところに、今回の騒ぎである。長は狼王に助力を得るべく、ユグドラシルの元へ来たというわけだ。
「さっきも言ったが、厄介なものに憑かれたな。だが先程の飲み薬と、ユグドラシルの弓で体調は回復してくるはずだ」
「そうだ、先程の光はなんだったのだ?黒いもやと関係があるのか」
ライラックは鹿王の話を聞きながら、塗り薬を作り、鹿王の傷へ塗った。
「まぁ、程度は中くらいだが、呪いの類だ」
「呪い!?」
「ユグドラシルの弓と矢は、ユグドラシル自身の枝で作られている。先祖代々受け継がれたものだ。ユグドラシルのいる場所は聖域だ。知ってるだろう?」
と、ライラックは長を見た。長はどこにあるのかは分かるものの、中には入れない。許可はユグドラシルに認められた一族しか許されていないのだ。だから、外側から訪問の合図を出した。
「村にあるユグドラシルの若木にある程度は教えてもらっているが…今回も頼るなら狼王のところへ、と言われたのだ」
ユグドラシルの若木は何かを察知していたのだろう。賢明な判断だ。
「ユグドラシルが先に生まれたのか、聖域が先にあったのか分からないが、ユグドラシルには浄化の能力がある。それもまあまあな呪いなら治すほどのな。その分身である弓矢も同等な力があるから、それで、もやに当ててみたら、あの通りだ」
鹿王が吐き出した黒い液体。確かに触ったら危険だと分かった。
「今回は3日で済んだからよかった。これが日にちが経つにつれ、胃から腸、肺、脳に行き、最後に心の臓にまで黒いもやが広がると危なかったな」
そう言われて、鹿王と長はゾッとした。ライラックは傷に薬、綺麗な布を充てて
腹回りを包帯で巻き、母鹿を呼び寄せ
「1日1回、傷が完璧に治るまでこの薬を塗って、同じように綺麗な布を充てろ。傷に付いている薬は、別の布で拭き、拭いた布も取り替えた布も必ずその都度、燃やせ。呪いの欠片があってはいけない。治ったらまた私を呼ぶように、長に話せ」
取り替えるときも、取り替えた方の布に付いている薬に触らないように、とも伝えた。母鹿はしっかり頷いた。あとで鹿王の世話をするものにも必ず伝える、と約束した。
ライラックは鹿王に断りを入れ、母鹿と子鹿、護衛の鹿を住処から下がらせた。重要な話をするためだ。
「ライラック、何かあったのか?」
鹿王が徐々にはっきりした意識で、ライラックに質問する。
「1年ほど前、私は妹の子どもを保護した。
その子も腹に大きな傷を負い、黒いもやが体全体を覆っていた。鹿王、お前より重症だった」
「なんだと?」
「妹の加護があったから、私達の元へ来られた。でなければ、助けられなかったかもしれない」
「私が見た、ラースと共にいた子だな」
「ユグドラシルは最初、自分では手に負えないと言った。それほど深く濃い呪いだった」
「しかし、倅がその子を見たということは、助かったのだろう?」
「あぁ、5日も生死の間を彷徨ったがな。私もラースも寝ずの番だった」
ナスタが目覚めたとき、ライラックとラースはナスタと普通に話していたが、内心は疲れきっていたのだろう。
「これはもう駄目だろうと思ったとき、あの子が持っていた妹の形見が、バラバラになった。そしてあの子は助かったのだ。今は聖域の空気と私の魔法でほぼ治っている」
「ま、待て。妹の形見と言ったな。もしやアイリスは…」
「流行り病で亡くなったと。人間の夫と共にな」
そうライラックは静かに言い、鹿王は信じられないと目を瞑った。
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