櫂入れ

 ワイン造りは順調に進んだ。余分な茎は手回し機械で除けたし、葡萄の破砕も同じく機械で済んだ。手回し式なので、交代でぐるぐると回した。その後、潰れた葡萄を樽に移す作業をした。これは力仕事だったが、あとの発酵を待つ段階でも力仕事が待っていた。

 櫂入れ、という作業をしなくてはならない。一日に数度、樽の中に浮き上がってきた果皮や果肉、種などの層を果汁の中に押し込む作業のことだ。これでしっかりと色が移る。

 浮き上がった層は分厚くて重い。櫂入れはかなりの力を要した。時間帯ごとの当番制にしたが、本来女性のアリダには荷が重い。風の靴の加護があって、そのおかげでなんとかやっている。

 発酵が進むのにつれて、醸造所内は加速度的に芳醇な葡萄の香りで満ちた。下戸のアリダは匂いだけで頭がクラクラしてしまう。しかし、ワイン造りを言い出した張本人として、毎日慣れようと努力をしていた。

 マスクをして作業をしても、櫂入れをすると香りが飛んでくる。樽の上に登れるようにかけてある梯子から、足を踏み外しそうになったことも何度かあった。酔っ払いである。匂いだけでも、酔ってしまうのがアリダだ。

 彼女は自分の当番の時間帯はふらふらになりながら櫂入れを繰り返した。

 しかし、問題は起きてしまう。


 ある朝、醸造所内に怒声が響いた。音がよく反響する石造りの建物だから、それを聞いたアリダは何事かと慌てて見に行った。

「フラスト! 櫂入れをサボるなと何度言えばわかる!」

 お前のせいで葡萄が全部台無しになるかもしれないんだぞ、カビたらどうする。と、ピッピは声を荒げ続ける。

 そんなに大きな声を出すピッピを見たのはアリダもフラストも初めてで、言葉の内容よりも衝撃の方が強く、呆然としていた。

「僕はこの事業にかけているんだ……」

「ご、」

 フラストは謝ろうとした。しかし、その言葉を遮ってピッピが続ける。

「だから嫌だったんだ、こんなゴロツキもどき! アリダは何を考えてこいつを呼んだんだ?」

 人格否定ともとれる言葉を聞いたフラストは、ぎりぎりと奥歯を軋ませて、そのまま外へ走り出した。

「ま、待ってよフラスト!」

 アリダはフラストを追いかけたが、その前に一瞬ピッピの様子を伺った。腕を組んで二人を睨みつけている。

「ピッピ、ごめん」

 ピッピはアリダの謝罪は聞かずに樽に向かった。今日の櫂入れを済ませるために。


「フラスト! 大丈夫?」

 フラストは醸造所近くの川辺に座っていた。三角座りをして、顔が下を向いていて表情がわからない。

「一緒に謝りに行こうか? どうする、一人で落ち着きたい?」

「……俺さぁ」

 フラストは水っぽい鼻声だった。

「無理だったんだよ、まともな仕事なんて、俺にはさ」

 働いたことねーもん、ピッピと話せる話題もないしさ。盗賊ってバレちゃ、ダメだし。

 アリダはそっと繊細な硝子細工に触れるようにピッピの背に手を当てた。

 ぽう、と触れられた部分が熱を持つ。

「私の友達でいてくれるじゃないか」

 フラストは鼻を啜った。

 川辺には赤い太陽が沈みかけて、二人とも真っ赤に照らされていた。太陽の反対には早くも星が散りばめられている。日が落ちるのが早くなった。

 冬が、来る。

 薄着では肌寒くなってきた。アリダはフラストに肩を寄せ、暖をとる。すぐにフラストに引きはがされた。

「お前、そういうの控えろよな……」

「え?」

「あまり男にべたべたするなってこと!」

 泣き顔を見られたくないフラストは、膝から顔を上げられない。

「あっ、ご、ごめん……」

「もう子供じゃねえんだからさ」

 フラストがアリダに言った言葉が、そのままフラストに刺さった。もう子供じゃない。自分の行いに責任を持つこと、それが大人だということ。

 樽がカビたらどうするって? どうしようもない。ピッピとアリダが嘆いて、フラストが逃げ出して終わりだ、友情も何もかも。

「……明日、謝る」

 フラストはアリダに顔を背けて言う。アリダは黙って背に手を当て続けた。

 太陽が追いやられて星空が煌めく夜空になるころには、二人はいつものように軽口を叩き合っていた。

 様子を見に来たピッピは、二人が笑顔でじゃれているのを冷ややかに眺めた。


 翌日フラストは早起きをして醸造所内の掃除をしていた。それが済んだら、櫂入れを行う。この重い葡萄が全部金だったらなぁ、と思っていた。

「よく戻ってこれたな」

 ピッピが起きてきて、フラストを睨む。怒りはまだおさまらないようだ。寝起きということもあって、昨日以上に険のある物言いをする。

 同じく起きてきたアリダは、フラストがまた飛び出したりするのではないかとハラハラしていた。

 フラストはピッピにバッと頭を下げる。

「すみませんでした。ここで働かせてください」

 ピッピは予想もしていなかった言葉に面食らい、しばらくの静寂が訪れた。

「……気持ちを入れ替えて、良いワインのために頑張ってくれる?」

 そうピッピが尋ねると、フラストはもちろん、と頷く。

「……わかった。よろしくね」

 ピッピは呆れたようにため息を吐き、フラストはまた礼を言った。

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