ピッピの葡萄
ピッピは片足を引きずっている。それがアリダの目にはひどく目立って見えた。
「先の大戦の傷?」
アリダは言ってから、無遠慮だったかな、と少し唇を噛む。
ピッピは目を伏せた。
「いや……先天的なものだ。これのおかげで僕は戦争には出ずに済んだ」
「それは……」
良かったのか、悪かったのか。流石のアリダも言い淀む。先程自分の口の軽さを悔いたばかりだったので、余計に。
二人はゆっくりと葡萄農園まで歩いた。家の裏に小規模な農園がある。黒葡萄ばかりが実を成していた。今日は実にいい天気で、穏やかな日光を浴びて葡萄達も艶々と黒光りしていた。葡萄だらけの天井の、隙間から陽光が射し込んでくる。目の位置に粒がぶら下がる。
(……小粒だな)
「適当にこの辺の葡萄、もいで、食べていいから」
アリダは一瞬ピッピと目を合わせて、そっと葡萄に手を伸ばした。葡萄の実を一つ、二つともいで口に運ぶ。甘い。とても甘い実だ。糖度が高い。
「美味しいですね」
アリダが少女らしくあどけない表情で夢中になって食べているのを見て、ピッピも思わず頬を綻ばせた。
「ありがとう」
愛情をかけて育てている葡萄を褒められることは、ピッピとしてはとても喜ばしいことだった。
「でも……皮が厚いですね」
だから食べにくい。それは、ピッピも気付いていた。ここ数年採れるのは皮が分厚くて可食部が少ない葡萄ばかりなのだ。
「困っててね……最近そうなっちゃった」
気候の変動もあるだろう。ピッピの意図したことではない、と彼はアピールした。
「これはチャンスだよ、ピッピ」
アリダは無邪気にも口元を葡萄の汁で赤く染めながら、目を輝かせて言う。
「聞いたことない? これだけ甘くて、小粒ってことは、成分が凝縮されてるってことだ。これはワインに使われる葡萄の特徴なんだよ」
「ワイン……かぁ」
ピッピは寝耳に水といった風にその単語を繰り返す。
「ワインを造ろう。ここの葡萄で!」
アリダは穏やかな風を辺りにそよがせながら両腕を広げた。その華奢な腕に夢いっぱいの未来を抱きしめるかのように。希望を顔に浮かべて。
ピッピの不安はその暖かな光景にとけて消える。いつの間にやら、頷いていた。
「仕事が決まったんですよ」
アリダは兎が飛び跳ねるような足取りでリノに報告した。リノは淫魔と魔人のハーフだ。側頭部に一本だけ歪んだ角が生えているのがアンバランスで、リノはそれがコンプレックスだった。しかしアリダはそんなところもまた魅力的なんだよな、と思っている。鎖骨辺りまで伸びた茶髪に、ワインレッドの瞳が妖しい色気を放つ、大人の男性だった。
よく手入れされた靴を履き、いつも身だしなみに気を使い、仕事も毎日立派にこなし、家出娘にも優しい。アリダはリノのことが大好きだった。
「どんな仕事?」
リノはアリダの勢いに苦笑しながら続きを促す。
「リノから、ワインに使える葡萄の話を聞いていたから、ワイン造りをすることにしたんです」
「それはまた突飛な……というか、君がワイン? 飲めたっけ?」
下戸なのに、と彼は付け加える。
「下戸でも、きっと大丈夫です! ワイン好きのリノさんがいますから!」
「ああ……最初から俺があてにされてるわけね。俺にも仕事があるんだけどな……」
ああ、とアリダが弁解しようと口をぱくぱくさせる。完全にあてにしていた。
「まあ、俺でできることなら。ワインは好きだしね」
リノは余裕のある笑みを見せた。ホッとしたアリダが自作の計画書を机に広げる。二人は同居しているが、どちらも片づけられない性質なので、机の上の物を雑に寄せて一部床に落ちた。気にかけられることもない何かの書類だ。
「そこで、前から持ち掛けていただいてた融資の話なんですけど……」
「ああ……そうだね。どのくらい? …………それだけでいいの?」
「最初は、小規模から始めようかと思ってて……」
アリダがそう言うと、リノは強硬に反対した。
長期的に見ると、初めに全て機材などを揃えてしまった方がいい、と大金の融資を持ち掛けてくる。
「ちゃんとお金返せるかな……」
融資とは、事業のためにお金を借りる借金である、とアリダは理解していた。ピッピから成功報酬を受け取ったなら、その全ては利息をつけて返済できるだろう。だが、本当にそう上手くいくだろうか。アリダは頭を抱えた。
「大丈夫だよ。アリダなら、上手くやれるって信じてるよ」
「そう……ですかねぇ」
リノは蠱惑的に微笑んだ。アリダはまだ悩んでいる。
物事が進む方向は決まっている。アリダはリノを信頼している。リノの知識も、ワイン造りに不可欠になるだろう。ここではアリダの意思は必要のないものだった。
「よろしくお願いします」
今日からアリダとリノは、ビジネスで繋がった。
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