むらさき!

日暮マルタ

星空

 燦然と、と一口に言い切るのは、非常に勿体ないと感じる。だからといって、限りある語彙を尽くして、あれこれ宝石だの輝く川だのと例えるのも惜しい。言語とは非常に残酷なものだ。与えた言葉はその対象を、酷く縛ってしまう。眼前には暗く広い夜の空に秋の大四辺形と無数の星々が浮かび、月は桃色に光っている。今日の月はやけに大きく見えた。迫ってきそうな程に。そこには荒れた赤子の肌のような月面がある。

 いくつもの光を眺め、空に落ちるような感覚と共に、漠然とした思考に没頭した。

 物事に名を与えるということは、昔から行われてきた業のようなものである。いつか言葉を使う全員が、罰を感じる日が来るのだろうか。来ないだろうという諦観が強い。

 言葉の不安定さを知らずに使っている者も多い。特段、言語を下手に学んでいる者に多い。言語学者と呼ばれる者など最悪だ。自分が知らないということを知らない。ままごと遊びにも劣る。自分にとっては、軽蔑に値する。リノはそう思った。

 この時の彼は、宗教のように敬虔な気持ちで、ただ美しかった空を讃えたかった。その純粋な気持ちは早急に消え、何かを罵り叩きのめすことが、いつしか目的に成り代わっていた。リノの心中、その対象は次々と入れ替わる。

 今に始まったことではない。常に敵を探し、貶めることが、彼の日常であったため、既にその異常に気付くことが不可能な状態にある。否、本当は彼本人気付いている。ぼんやりと、自身の生きづらさに息を切らし始めている。ただ、その世界では誰もがリノと同じように、他者や物事を叩きのめすことによって生き残っていた。だから今更訂正することができない。彼の世界はそうだった。

 ただ一人、リノが対峙して、特別な思いを築いた少女がいるのだが。


 ピッピは来客用のお茶の用意をしていた。いつもの茶葉に、自分の農園で採れた葡萄を乾燥させた物を加えると、ほのかに酸味と甘みが加わり、飲みやすくなる。茶葉を濃く淹れるのが、ピッピの最近のお気に入りだ。古くなった掛け時計が、約束の時間を示した時、控えめに扉を叩く音が聞こえた。

「アリダ?」

「そう」

 名前を呼ぶと、扉が開かれる。外気が室内に入り込む。穏やかな秋の風とともに、身軽な印象の女性が立っていた。まだ少女のような隙がある。

 ピッピの目には彼女が緊張しているように見えた。前に会った時よりも、ずっと不自然だ。やあ、調子はいかが? なんてつまらない言葉を、少し吃りながら吐き出している。大丈夫かなこの子。幼く見える……。

「まぁ、入って。お茶を淹れるから」

「あ、ありがとう。今日はよろしくね」

 アリダはふわふわと柔らかい癖毛を揺らして歩く。ショートカットが微弱な風に靡く。彼女は風を纏っている。

 風の里の住民は排他的だが、優れた飛行術と風の加護を受けている。アリダはそこから家出してきた女性だった。家を出るときに浅緑色の編み上げブーツ、強い魔石のついた家宝を持ち去った。彼女はいつでも大仰な風の靴を履いている。その加護が彼女を守っている。

 ピッピの家は人をもてなすのに最適とは言い難い、狭い家だが、机や窓際に並ぶ雑貨の数々は人によっては愛おしい空間だと思わせてくれる。ピッピの一族は魔人の中では弱小と呼ばれる実力だったが、伝統があり、古くからこの地に住み続けていた。先祖代々から受け継いだ魔具や呪具、思い出の品、昔の流行り物など、とにかく物が多い。ピッピの配置は見事だった。賑やかで穏やかな、暖かい空間があった。アリダは机の上にある用途のわからない骨董品に見惚れた。

 アリダが勧められた椅子に座り、お茶を飲む。葡萄の香り……と、彼女はつぶやいた。

「それで、本題だけどさ」

 今日アリダは、新しい仕事の話をしにきた。のちに、この日の訪問を後悔する日が来るとも知らずに。


 二人の出会いは、住民の困り事をマルチに聞いてくれる役所だった。

 ピッピは先祖代々の葡萄農家だ。しかし、人間の国との戦争が長引いたせいで、果物という贅沢品が売れなくなってしまった。困った彼が訪れた窓口で相談を始めると、その内容を近くで聞いていたアリダが、「私! 立て直しの力になれるかもしれません!」と強引にピッピの腕を掴んだのだ。

 アリダも、仕事を探していた。

 唐突な話だったが、ピッピは一か八かに賭けた。今更、他のどんな仕事もできないような気がしていたから。そこでアリダを自宅に招き、現状を話す時間を作ったのだった。


 ピッピは自分用のお茶を片手で啜りながら、アリダを見下ろした。

「葡萄の値段を下げれば売れるのかもしれない。だけどうちは収穫できる量もそれほどないし、これ以上価格を下げれば維持ができなくなる。君ならどうする?」

 アリダは難しい顔をして少し唸った。

「まず、ピッピの葡萄を見せてくれないかな」

 彼はいいだろう、と答えた。

 アリダはピッピの淹れたお茶を一気に飲み下した。ピッピはアリダを連れ、外の葡萄畑に案内する。

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