介抱

 アリダはうーんと唸った。最近、靴の調子が悪い。やけに重いし、思った通りに歩けない時がある。ピッピが最後に顔を見せたあの時からだ。

 日常生活に支障が出るほどではない。だが、試しに空を飛んでみようと思った。

 いつか三人でピクニックに来た森へ、今度は一人で出かけた。三人でいる時はあんなに楽しかったのに、一人だと汗をかくだけだ。

 汗をかくと体が冷える。それが厳しい季節になってきた。地域によっては雪が降りだす頃だ。好みでショートパンツばかり履いているが、そろそろそれも難しいか。などと考えながら、開けた湖に到着する。

 靴で地面をトントンと叩く。ここなら落ちても水があるから、首の骨が折れたりはしない。そりゃあ、寒いだろうけど。

 よろしく頼むよ、風の靴。そう呟いて、宙へと身を投げる。ふわり、くるくると調子よく飛べる。なんだ、問題ないじゃないか!

 アリダは三人でここに来た時のことを思い出していた。あの時も気持ちよく飛べた。飛ぶのは気持ちいい。風が体を通り抜けていって、流されて、歯向かって。風とダンスをするのだ。

 しかし、調子に乗りすぎた。アリダの靴は突然飛行力を失い、落下する。その場所は、湖の端の岩山だった。

 あ、ヤバい。

 そう思った矢先、落ちるのはゆっくりに感じられた。しかし体が岩山に叩きつけられ、息が止まる。重い。ずっしりと、体に痛みが襲ってくる。

 ……帰らねば。

 靴はどうやら故障しているようだ。風の里まで帰れば直せるだろうか……いや、帰りたくない。どの面下げて今更……。

 アリダは鈍い動きで元来た道へ戻る。片腕がほとんど動かない。幸か不幸か、利き手ではない方だから、食事などは自分でとれるだろう。

 

 重い体を引きずって、醸造所まで帰ってきたアリダを迎えたのは、リノだった。リノは遠目にもアリダの様子を見て、尋常じゃない怪我だと感じ取り、焦って駆け寄る。

「アリダ! その傷は……?」

 リノは純粋に心配する気持ちもあった。ずっと家に置いていたのだから。

「なんか……靴、壊れちゃって」

 アリダがへへ、とリノに寄りかかる。同時にリノは歓喜した。靴が壊れた! あの憎い風の加護がついに!

 やっと、やっとこの娘に手出しができる。弟の仇をとるのだ。

「傷が治るまで、俺が面倒みるよ。アリダの部屋も掃除してあるから、今日からすぐにでも」

「いいんですかぁ、ありがとうございます。お言葉に甘えます」

 やっぱりリノは頼れるな。アリダはそう思った。

 蛇のようにニヤついた顔を、リノはアリダに見られないように袖で隠した。


 アリダがリノの元に身を寄せてから、早くも数か月が経過した。もうワイン造りの日々を思い出すこともない。アリダは毎日少しずつ死んでいく自己に絶望しきっていた。

 動かないままの腕を固定して歩く。リノはどこへ行くにもアリダを連れて行くようになった。横で曖昧に笑っているだけ、それだけの簡単な仕事だ。アリダもリノも、互いに依存し始めていた。いや、遥か前からずっと。

 その日はリノについて行くと、領主レアルコと対面した。ニコニコと何が楽しいのかずっと笑っている。太い針が何本も刺さった裸の人間が横に這っていた。家具のいくつかは原型を少し留めた人間だ。

 壊れている……この人は壊れている。

「アリダ、少し一人で仕事に行くから、レアルコに失礼の無いように」

「はい……」

 アリダを一人にすると、脱走を図ることが今まで多々あったので最近では見張りが付くようになった。しかし今回は人手が足りなかったのか、上司であるレアルコが見張りだ。

 レアルコはフレッシュハーブのお茶を淹れてアリダの前に置いた。アリダは曖昧な笑顔を張り付けたまま動かない。

「苦手だった?」

 そう問うと、小声で俯きがちに「飲んでもいいって、言われてないから」と返ってくる。

 レアルコは声をあげて笑った。

「飲んでよ。結構美味しいと思うんだ」

「いただきます」

 アリダはフレッシュハーブが浮かぶお茶を飲んだ。温かさに沁みる。今はリノがいない。笑う必要もない。ふと、お茶に雫が落ちて波紋が広がる。

「可哀想だね」

 レアルコの口癖が出た。

「助けてはくれないんですか」

 レアルコの言うことなら、リノも聞くだろう。しかし、リノは首を横に振る。

「リノも可哀想だからさ。私は平等に、何もしない」

 博愛主義者だから、とレアルコは胸を張った。

 この人はおかしい、リノもおかしい。周囲が皆おかしくなった。突然のことだ。もしかしておかしいのは自分なのか、とアリダは思った。

 遠くに行きたい……自分の行きたい所へ、自由に選択して、どこへでも好きなように……。

 短い自由だった。すぐに扉がノックされ、リノが帰ってくる。アリダは肩をびくつかせた。

「お、お帰りなさい」

「あぁ……」

 リノは急いで帰ってきたのか、一呼吸おいてからアリダの前に置かれたマグカップに気が付いた。

「まさか、レアルコにお茶を淹れさせたの?」

「ご、ごめんなさい」

 レアルコは猫のような目で面白そうに見守っている。

「客人にお茶くらい出すよぉ」

「レアルコ、あなたは自分でお茶を淹れるような身分じゃないでしょう」

 リノはアリダに、帰ったら「お話」しようね、と言った。震えあがるアリダの肩を抱いて、二人はレアルコに別れの挨拶をする。

「可哀想な子達だよ、本当に」

 でもそこが可愛いんだよな。と、彼は嘲笑った。

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