葡萄畑
「そうそう、昨日出し忘れたんだけど、こんな感じの赤ワインを造れたらいいよねと思って」
翌朝、ピッピはワインを片手に葡萄農園へ来た。とっくに集合時間だったが、フラストはまだ寝ている。最近まで夜型の生活をしていたせいか、朝起きる気は全くなかったらしい。
「わぁ、お酒。ありがとうピッピ……」
アリダは顔を引きつらせた。
「一人来てないけど、今日は、皆で悪いことしちゃわない? 飲みながら収穫したりしたら嫌?」
アリダはバッと頭を下げた。ひよこ色の髪を飾る極彩色の羽根が揺れる。
「ごめんなさい、私下戸なんです」
「……えっ? てっきり、好きなのかと……」
「匂いで卒倒する自信があります」
「そう……」
ピッピは見るからに気落ちしていた。なんだか、何もかもうまくいかないな。なんだか僕は可哀想だな。とすら思っていた。自己憐憫の念、それがピッピは人より強かった。
「フラストは、喜ぶと思いますよ」
「……そうかい」
収穫は時間との戦いだった。それと、雨雲とも。
三人は、収穫した葡萄を除梗破砕機に入れて稼働させながら、連日葡萄の収穫を行った。収穫した葡萄を軽く水で洗う作業もある。
いつも足を引きずるピッピ一人で行っていた収穫作業だが、三人の人手があれば面白いくらいに早く終わる。農園が小規模だったこともあり、数日で終わりそうな予定になった。
収穫したての葡萄を洗う時は、洗いすぎないように気を付ける。味がぼやけるのだそうだ。ピッピがそう言っていた。
今日中に収穫を終える、と宣言したその日、雨を呼ぶと言われる魔物アメフラシが近付いてきた。
亀とナメクジを混ぜ合わせたような見た目の、小さな手のひらサイズの魔物だ。そしてその呼気は紫で視認性があり、集まると雨雲を生成する厄介なやつだ。ピッピが嘆く。毎年この時期、商品を台無しにされることが時々あるのだそうな。
「雨が降ったら葡萄の味が台無しだ……」
あともう少しで収穫が終わる。だというのに、紫の雲が頭上を覆っている。これは何匹か集まっている証拠だ。
「この忙しい時に!」
アリダが葡萄を両手に持ったままアメフラシを遠くへ蹴飛ばす。ぐにょ、と不快な感触がした。アメフラシは紫の粘液を吐き出して遥か遠くへと飛ばされていった。アリダの家宝の靴が光り輝く。
「うへぇ気持ち悪い!」
アリダがその場でぴょんぴょんと跳ねた。感触を消そうとしている。
「いいぞ、その調子でどんどん蹴り飛ばしていってくれ。こっちは二人でなんとか終わらせるから。な、フラスト」
「えっ私が!? わかった!」
フラストは聞こえるか聞こえないかくらいの小声で返事をした。必死に葡萄を狩っていたからだ。そんな態度もピッピには面白くない。
対してアリダには好感を持っていた、というわけでもない。フラストを連れてきたのはアリダなのだから、アリダが働かせるべきだと思う。何事にも一所懸命に取り組んでくれるのは、そこは好きだけれど。
アリダは風の靴で次々アメフラシを蹴り飛ばしていった。服に粘液が飛び散る。時折アメフラシの体が空中で四散したりした。アリダは蹴るたびに足から伝わってくる不愉快な電気信号をこらえた。
「アリダ! もういい!」
葡萄がすべて収穫された時、アリダの自慢の靴は紫に染まっていた。
「靴が……私の靴がぁ……」
アリダはリノの私室に帰ってきた。長年暮らした第二の故郷がリノの家なのだ。愛着がある。だが、正しく言うなら、帰ってきたのではなく、「遊びに来た」のだ。
「アメフラシを何度も蹴るだなんて、重労働だね」
リノは艶のある笑みを見せた。彼はいつも人を魅了する目をしている。
「靴はこんななっちゃいましたけど、でも順調ですよ! 収穫最終日、全部終わった後に雨が降って。除梗破砕もほとんど終わったようなものです」
ほとんど終わった、というのは誇張した表現だった。
リノはアリダの靴に目を落とす。
「預かっていてあげようか? 綺麗にしてあげるよ」
「えーいいですよ、誰にも触らせるなっていう家訓だったので」
「そんな、あんな実家のこと忘れなよ。アメフラシの体液って毒じゃないっけ?」
「えっ毒なんですか!?」
アリダは靴を磨いていた手を止めてじっと見た。生臭い匂いがする。手の皺に紫の染料が潜り込んだような感じだ。痺れなどはない。痛みも。
慌てるアリダを眺めたリノが、クスクスと笑う。
「……なんてね。無毒だよ」
「なんだ、気持ち悪いだけかぁ」
それもそれでどうなんだ? とアリダは思った。
アリダは丁寧に靴を磨く。それをリノはじっと見ていた。
「昔のワイン造りといえば、足踏みでワインを潰していたそうだけどね」
「らしいですね。でも、不衛生じゃないですか?」
「なんだかロマンを感じない? ふふ」
リノは自身の唇に指を当てて笑った。
その仕草にアリダは大人の匂いを感じ取り、思わず目をそらした。
「ロマンはわからないですけど……そうだ、今度醸造所に遊びに来てくださいよ。融資した立場なら、気になるんじゃないですか? そういうの」
「そうだねぇ。それもそうか。いいよ、遊びに行くね」
「やったぁ!」
アリダは無邪気に喜んだ。リノを親のように慕っているのだ。
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