神様と星の子
鈴成
神様と生贄
どうせ逃げ切ることはできない。
無意味な抵抗だ。
きっと痛くてつらいことになる。
ぜんぶぜんぶ、分かっていたけれど、私は逃げた。狭い家に我が物顔で居座っていた神官たちを突き飛ばしてがむしゃらに足と腕を動かす。
この街から出ていかなければ。神官たちの、
「生贄が逃げたぞ!」
「追え! 絶対に逃がすな!」
神官たちの怒号が響く。実際に私を追いかけてくるのは神官たちに同行していた一人の兵士だ。失礼ながら、あまり機敏そうには見えなかった。この街の誰一人、もしかするとこの世界に生きる誰一人としてこんなことが起こるとは思っていなかったに違いない。
だって私だって今のこの瞬間まで考えもしなかった。
都市神様は嫌いじゃない。憎んでもいない。都市神様がいるからこの街――湖畔都市モーティス――は存在できてるんだってことはさすがに私でも知っている。もちろん、都市神様にその身を捧げられることがどれほど名誉なことなのかも。
「早く捕まえろ!」
「誰でもいい! あの女を捕まえろ!」
「傷はつけるなよ!」
大通りから裏路地へ。一体何事だと騒がしくなり始めた民たち間をすり抜けてひたすら走る。まだ息は苦しくない。人よりもちょっと丈夫な体に生まれて良かった。
「女はあの小路に行ったぞ!」
「やっぱり見られてるか」
次々に過ぎ去る視界の端に都市神様の『目』が映った。都市神様自身が見ているのか、都市神様の目を拝領した神官が見ているのか。今回はたぶん後者だ。
ぐちゃぐちゃの頭の中に街の地図を無理やり広げて行き止まりを回避しながら走る。待ち伏せされていそうな場所も避ける。それでいて街の大門へと進む。
私なんかには不可能そうなのに、何故かまだ捕まってはいなかった。
「っうわ! ごめんなさい!」
角を一つ右に曲がったところでフードの付いた外套を着た誰かと肩がぶつかった。誰かというには硬すぎた気がするけれど。大岩に強く打ち付けたようだ。
追っ手か否か確認している余裕はないので大声で謝るだけに留める。というかそれしかできなかった。それにしてもぶつかった場所が痛い。まあ問題なく動くし骨は折れていないようだからいいか。
「君はどうして逃げている?」
「どうしてって……え!?」
あまりにも自然な、落ち着いた問いかけだった。私が全速力で走っている状況でなければあることないこと喋っていたかもしれない。
「あなた誰!? 何してるの!?」
くすんだ黄緑色の目をした男が私の前に浮いていた。フードで隠れていても正面から見れば判別はつく。男は地面から少し浮き上がりながら、私の走りに合わせて移動していた。
後ろ向きに走っているのと変わらないのに壁や障害物に接触することはない。背中に目でもついているのだろうか。たくさんの『目』を持つ都市神様のように……。
呼吸が乱れていることをようやく自覚した。同時に手足が重くなる。私はどれだけ走ったのだろう。大門はまだ見えない。都市神様のおわす湖の上の大神殿はきっとまだ私のちっぽけな背にのしかかっている。
「あなたも神様……? よその都市神が攻めてきたの……!?」
「俺は君たちのいう神と似たような存在だが、都市神ではない」
息が切れる。もう喋るのも走るのも止めてしまいたい。でも私がそれを許していない。
「俺の質問に答えてくれ。君は都市神への生贄だ。それは君たちにとって喜ばしいことなのだろう? どうして君は逃げているんだ?」
神様は――男はどこまでも静かだった。その問いかけは私自身の疑問でもあった。どうして逃げているのか。どうして人間としての至上の喜びを拒んでいるのか。
余計なことに思考を裂いたのがいけなかったのだろうか。小石に躓き結構な勢いで地面に倒れてしまった。咄嗟に両手を前に出したものの額を擦ってしまった。顔面が地面に激突しなかっただけ良しとするべきだろう。
痛みに呻く時間はない。すぐに立ち上がって駆け出す。
男は距離を保ったまま私をじっと見ていた。返答を待っているのだ。私を神官たちに突き出すわけでも助けるわけでもない。奥歯を強く噛みしめた。
額と手のひらと足が痛い。でももう何か全身が痛い気がする。大人しく生贄になっていれば。綺麗な格好をして美味しいものを食べてふかふかの寝床で眠って、そしてみんなに敬われて死ぬことができたのに。
どうして君は逃げているんだ? 男の言葉が勝手に頭の中でぐるぐる回る。そんなの私が知りたい。違う。それは嘘だ。私はもう知っている。ただ、それを口に出すことが恐ろしいだけ。
「……死にたくないから」
「何?」
「死にたくなかったの! おかしいでしょ!」
ぜえぜえと血の味のする息を吐きながら私は叫んだ。霞み始めた景色に人だかりが見える。あ、だめだ。待ち伏せされてる。このまま走っても捕まっちゃう。引き返さないと。
「……はは」
自分の意思で立ち止まって振り返る。道は前方と同じく神官たちに塞がれていた。前からも後ろからもじりじりと迫ってくる。家の壁は私が乗り越えられそうな高さじゃない。
都市神様の赤い目が一つ二つ三つ四つ五つ。うんもう数えたくない。とにかくいっぱいの目が壁や地面から私を見ていた。
「…………ナイフくらい持ってくれば良かった」
普段は持ち歩いているのに。いくら何でも慌てすぎだ。そもそも何も持たずに街の外に出たって生き延びられるはずがない。獣や野盗に襲われるか大自然に軽く揉まれて終わりじゃない?
舌って私の力でも噛み切れるのだろうか。舌先を試しに噛んでみたところで男が言った。あ、まだいたんだ。いつの間にかフードを脱いでいる。
「なるほど。それは……俺にも理解できる理由だ」
男は目を細めた。今更だけど整った顔をしている。目つきが悪くてちょっと隈が濃い気もするけど。有り体にいうと不健康そうだ。ご飯はちゃんと食べているのだろうか。私だって人のこと言えるような食生活してないけれど。
「あの、逃げなくていいんですか? このままだとあなたも何かしらの罰を受けることになると思いますけど」
と言いつつ、神官たちは思いの外遠くにいた。先ほどと大して距離が変わっていない。明らかに人外めいた挙動をしている男を警戒しているのかもしれない。
それはそうだ。さっきは否定していたけれど、彼が真実別の都市の神だとしたら正直私の件が後回しになるくらい
不意に男が地面に下りた。そして私に近づいてくる。一歩、二歩、三歩。男の足は地面に信じられないほど深い跡をつけていた。え、足が地面にめり込んでない?
呆然としている間に男のすらりとした手が眼前に差し出される。考えなしに飛びつけられればどれだけ良かったか。
「……どういうことですか?」
「逃げたいんだろう」
男はさも私が愚問をけしかけたように返してきた。そんなことはない。ないはずだ。私の察しが絶望的に悪いとか、ないよね?
「…………その、まるで、あなたが私を逃してくれるように聞こえてしまうんですが」
「そう言っている。決断は早い方がいい」
男は私越しに神官たちを確認しているのだろう。私は私で男越しに迫ってくる神官たちが見えている。あと少しで捕まってしまうのは確実だ。
私は手を伸ばした。そして男の手を掴む直前で止まった。
「あの……あなたは……」
何なんですか、と尋ねようとしたが言葉が続かなかった。相応しくないと思ったから。
「あなたの……名前を教えてくれませんか?」
男を見上げる。透き通った瞳それ自体が光を放って輝いていた。夜空を飾る星のよう。人間の手に余る美しさだった。
「ユンシーだ」
「ユンシーさん」
「ユンシーでいい」
「……ゆ、ユンシー。私の名前はスピカです……だよ」
男の手に触れる。血と土に汚れたそれに眉をひそめることもせず、男は無造作に私の指を包み込んで引き寄せた。
「痛っ!」
「……ああ、なるほど?」
硬すぎる胸にゴツっと額をぶつけて思わず声が出た。ひどい追い打ちだ!
それにしてもこの感触……途中で肩をぶつけたときと同じだ。あれはユンシーだったのか。というか何か得心したように呟いていたけれど聞き逃してしまったな。
やはり硬質な腕が腰に回る。抱きしめられていると認識する前にユンシーは浮いていた。
「へ? え? は!?」
「喋らない方がいい。舌を噛むぞ」
耳元で囁かれる。背筋がぞわぞわしているのはそのせいか、それとも瞬く間に地面を離れ屋根を越え大門を見下ろす高さまで飛んでいたからか。
空から見るモーティスは整然としていた。実際はごちゃごちゃしてて汚いし危ないところもたくさんあるんだけど。湖の上の大神殿だってあんなちっぽけで……他の何もかもを忘れて私はただ見入っていた。
しばらくしてから、ユンシーが呟いた。
「君は運が悪い。出会ったのが俺でなければ……逃げた意味もあったかもしれないが」
「それってどういうこと?」
「いずれ分かる」
太陽を背にして影になったユンシーの表情は窺えなかった。
こんなに近くにいるのに。でも、不思議と怖くはなかった。ユンシーの平坦な声が少しだけ震えていたからかもしれない。
「……行こう」
「……うん」
どこに、とは言わなかった。行きたい場所も行くべき場所も私にはなかったから。
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