快適な空の旅を

 唐突にユンシーが腰を上げた。


「では、モーティスに向かうぞ」

「今から!?」


 叫んだ勢いで私も立ち上がる。そろそろ日も傾き始めそうだし、晩に食べるものを探しに行こうと提案するつもりだったのに出鼻を挫かれてしまった。まさか今日中に突撃するなんて考えてもみなかった。

 しかしながらユンシーの中ではモーティス行きは決定事項のようで、畳んで置いていた外套が浮遊して私の頭の上に降ってくる。二回目だから前よりは冷静に着直せた。 


「フェックに発見される前に行動した方が優位に立てる。奴に何ができるのか不明だからここそ時間をかけたくない」

「……わ、分かったよ」


 フェックと交渉するのはユンシーだし、いざというときに戦うのもユンシーだ。大変なのは全部ユンシーなので任せきりの私がここで愚図るわけにもいかない。外套のフードを被って貰ったナイフがしっかり装備できているかを再確認した。


「準備できたよ」

「よし。行くぞ」


 と言ってユンシーは私に向かって両腕を広げた。どういうこと? 腕の中に飛び込んでこいってこと? でもユンシーがそんなことする? だってユンシーだよ?

 そして困惑しきりの私を見かねたのかユンシーが声をかけてくる。


「以前もしただろう?」

「あっ!」


 そういうことか、と呟いて。モーティスから逃げるときはユンシーに抱きしめられる形で空を飛んだのだった。今回もそうして飛ぶということなのだろう。あれ、だとすると。


「寝てるときみたいには運ばないんだ?」


 自分のことなのに移動ではなく運ぶと表現してしまった。実際に自分がはこ……移動しているところを見たわけではないけれど、合致しているのは運ぶの方だと思う。ユンシーに抱きしめられながら移動するのと自分一人で浮かされて運ばれるのだとどちらが恥ずかしいのだろう? 

 

「あれは飛行には適していない」


 なんて、悩んでいたけれどそう断言されてしまえば従うほかない。何度も深呼吸をしてユンシーに近付いた。地面とにらめっこをしながら進む。どうしよう。初対面のときよりも緊張しているかもしれない。ユンシーの足先が見えてくる。だけど、あと一歩前に踏み出せなかった。

 行くぞ、行くぞ。次こそ行くぞ。繰り返し心の中で呟いて自分を奮い立たせても足は動いてくれない。太ももを殴って気合いを入れようとしたところで、ユンシーの爪先がこちらへ一気に踏み込んできた。

 何事かと混乱する間もなくユンシーの腕が背中に回って抱き寄せられる。またしても額が胸にぶつかった。痛いと反射的に声に出そうとして、気が付く。全然痛くない。

 何故って、前と違ってユンシーの胸が硬くなくなっているからだ。腕も同じく硬さが失われて人に触れているのと変わらない状態になっていた。これも神力なのだろうか? 指を刃物に変化させたように。

 器用だな。他に何ができるんだろう。ユンシーと密着していることが頭から抜けるくらいユンシーの手触りに夢中になっていた私に至近距離から声が掛けられた。


「したくないならしなくても構わないが」


 見上げるとユンシーの顔が目の前にあった。客観的に見ればそうでもないのかもしれない。けれど、私には息遣いすら感じられそうな距離だった。

 思わず後退しかけた体はユンシーの腕に阻まれる。これまでにない原因で心臓が暴れ回っていた。


「な、なに」

「腕を背中に回してくれないか?」

「えっ」


 頭が真っ白になった。腕を背中に回してくれって、それって、つまり、私からユンシーに抱きつけってこと? 心臓が胸を突き破って出てきそうだ。ユンシーの低い体温が布越しに私の肌へじんわりと伝わってくる。唇を動かせど肝心の声が出てこなかった。

 意識しすぎなのは十分に分かっている。対するユンシーは何とも思っていないことも。それが余計に恥ずかしいのだ。熱のない双眸と意図せぬ睨み合いを続けて私の心はついに弾けた。


「やるよ! やればいいんでしょ!」


 掠れた叫び声と共にユンシーに抱きついた。上を見ないようにすると結果的に視界がユンシーの服で占められることになる。加えて外套が纏っている鉄に似た匂いをより強く感じ取っていた。


「俺がいいと言うまで喋らないでくれ」


 と言い含めるユンシーに私は普段より大袈裟に頷いた。しっかりと意図は伝わったようで

ユンシーは少しずつ浮き上がっていった。当然私の足も地面から離れる。時を同じくして頭の天辺から足の先まで順番に温かくなっていく。眠たいときに体がぼんやりと熱くなるあの心地よさが全身を包んでいた。

 しかし、緊張から強張っていた体の力が自然と抜けたそのとき。ひゅっと風を切る音がしたかと思ったら瞬きを一回する間に私たちは木々を突き抜け森を見下ろし更には雲を貫いていた。わあ飛んでいると感慨に浸る時間すらなかった。

 地上には鬱蒼とした森林と巨大な川とその支流が見渡す限りに広がり、上空では青色とオレンジ色が混じり始めている。何もかもがちっぽけで作り物みたいだ。ここが私の生きてきたところだとはなかなか信じられなかった。

 直立の姿勢から大地と平行の体勢にゆっくり変わる。それからはまた速かった。地上の景色が次々に過ぎ去っていく。全然実感はないけれど、私たちはものすごい速さで移動しているんだろう。ここまで来ると落下に対する恐怖心は麻痺してくるのだとまた一つ私は学んだ。

 雲より高いところを飛んでいるなんて。昔の自分に言ったって一笑に付されて終わりだろうな。そういえばいつまで黙っていればいいんだろうか。ユンシーを盗み見る。ユンシーの表情はやや強張っていた。どうしたんだろう。聞きたいけれど許可が出るまで喋るなと言われているしな……。

 などと考えていたらユンシーと目が合ってしまった。一瞬のうちに強張りが解けていつもの無表情に戻っている。おかしいけれども正しい表現ではあるはずだ。

 しまった。どうしたのと聞く機会を逸してしまった。


「もう喋ってもいいぞ。……どうした? 呼吸は問題なくできるはずだが。寒さも感じないだろう?」


 息は普通に吸って吐けているし、このまま眠れそうなくらい程よい温かさしか感じていない。本来なら私は呼吸もできず寒さに凍えていたはずなのだろうか。そうなっていないのはユンシーが神力で私を守ってくれているからか。

 私は素直に「大丈夫だよ。ありがとう」と言えばいいのだ。いいのだけれど。


「……さ」

「さ?」


 ユンシーが小首を傾げる。なんかあれだ。ちょっと愛嬌が生じてきているような。いやいやいや。こんなことでまだ絆されたりはしない。私は意を決して声を張り上げた。


「先に言って! びっくりするから!」

「飛んでいくと言った」

「こんな感じとは聞いてない! でも色々気遣ってくれてありがとう! 何も問題ないです!」


 ユンシーの口振りが突き放すようにも拗ねているようにも気恥ずかしそうにも聞こえたから。私はもういっそ堂々と絆されることにしたのだった。

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