神の力

 倒木に座る私に合わせてユンシーは片膝をついた。

 私と違って新品同然の服が土と草で汚れてしまうのでは、と心苦しくなったところでよく見ればまたもやギリギリ地面から浮いていることに気がついた。器用だな。というか何で浮いてるの? 

 転んだときに傷ついた場所をユンシーが撫でていく。額から足まで。ユンシーの冷えた指が肌の上を滑っていく感触がくすぐったい。身を捩って逃げそうになるのを必死で堪えている間にユンシーの手は離れていった。


「終わりだ。傷は塞がった。痛みは残っているか?」


 そう言われてやっと私はひりひり痛んでいた傷が完全に治っていることに気がついた。

 額を触っても痛くない。傷痕が残るどころか怪我する前より肌が綺麗になっているような気さえする。


「い……たみはない。全然痛くない。ありがとう」

「そうか」


 軽く頷いてユンシーは立ち上がった。そして私から数歩離れたところで片膝を立てて座る。厳密に言うと地面に体をつけてはいない。例のごとくちょっとだけ浮いていた。

 宙に浮くのも肌を撫でるだけで傷を治すのも人間離れした力だ。私を抱えて空を飛ぶこともできるし。

 モーティスから今いる場所――モーティスと隣接都市の境目にある森林地帯――まで飛んでくるまでそれなりに時間がかかった。

 追っ手を警戒してかユンシーが度々地上に下りたり木々の間を縫って低い位置でゆっくり飛んだりを繰り返していたからだ。不思議と森の獣は見かけなかった。私が近くの森に入ったときにはそれなりに遭遇したのにな。

 それとこれは勘にすぎないけれども、ユンシーはかなり私に気を使ってくれていたと思う。彼一人ならもっと早くもっと無茶な軌道でここまで来ていたはずだ。人間でない、彼ならば。

 

「……浮いたり、傷を治したり……あなたも神力しんりきを使えるんだね」


 神力。都市神様の使う特別な力。私の知る唯一の都市神様の神力は『目』だ。都市神様はいついかなるときも私たちを見守り、時にはその『目』をお与えくださるのだと。他にも都市神様は神力をお持ちかもしれないけれど、私は知らなかった。

 ユンシーは少なくとも二つの神力を持っているはずだ。


「ああ」


 ユンシーは動揺も否定もしなかった。愛想はまったくないけれど、不思議と威圧感はない。私が話しかけるのを拒絶する素振りもなかった。だから私は尋ねることができた。深呼吸をしてからではあったけども。


「…………どうして私を助けてくれたの?」

「君の逃げる理由が俺にも理解できたからだ。そう言わなかったか?」


 首を捻る。言っていたような気もするし言っていなかった気もする。短い間に色々なことが起きすぎて細かなことはほとんど忘れてしまった。思い出せるのは飛び飛びの場面だ。

 しかしそれを素直に言葉にするのは恥ずかしかった。


「……あなたも死にたくなくてどこかから逃げたってこと?」

「そうだ。そうして逃げ続けて俺はここまでやって来た。みっともなくともな」


 ユンシーが逃げる。危機的な状況でも冷静で、複数の神力が使える彼が逃げざるをえなかった状況というのが私の貧弱な想像力では思い浮かばなかった。世界って広い。

 それにしてもみっともないって何?


「みっともなくともって……死にたくないって思うのも、逃げるのも普通でしょ」

「生贄が逃亡するのは君たちからすれば普通ではないのでは?」

「ぐっ……それはそうだけど……」


 そんなふうに真っ直ぐに刺されると言い返せない。

 都市神様の庇護下で生きる人間からすれば(それはつまりこの世全ての人間ということだけれども)生贄に選ばれながら逃げた私は普通ではないし、みっともなくて恥知らずな存在だろう。


「最期まで戦い続けることが俺たちにとっての普通だった。だが、俺は途中で逃げた。ただ死なないために。他には何もなかった。君はどうだ? 死はいっときの間避けられた。次はどうするか考えているのか?」


 いっそのこと苛つくか怒るかしてくれたらいいのに。自分勝手にもそう思ってしまった。抑揚のない声で淡々と問いかけられるのは堪える。

 次をどうするかなんてあのときは考える時間も余裕もなかった。今なら考えられるかって? 無理だ。都市神様から離れて生きる以外の方法を私は知らない。

  

「…………実は、まったく、考えてない……です……」


 俯きながらそう返すのが精一杯だった。無機質な目でじろじろと見られているような感覚を覚えた後にユンシーが口を開いた。


「……俺から言えるのは、君が選べる道はそう多くないということだな」

「え?」


 咄嗟に顔を上げる。ユンシーの口元が変に歪んでいた。もしかして微笑もうとしているのだろうか。私を安心させるために? いやいやさすがに自惚れすぎだろう。場の雰囲気を和ませようとしている、がより近そうだ。

 そして一瞬目を離した隙にユンシーの表情は元に戻っていた。

 

「君が死なないためには、モーティスの都市神……フェックだったか。そいつを殺すか、他の都市神がフェックを捕食するまで逃げるしかない」


 一瞬だけ体が強張る。都市神様の名前はもちろん知っていた。けれど、そう軽々しく口にするものではないというのが常識だったから。しかもユンシーは様付けすらしていない。

 とはいえここでユンシーを咎めるのもおかしいだろう。そもそも私はそのフェック様を裏切って逃げてきたわけだし。私たちの常識はユンシーのそれとは少し、いや、かなり違っていそうだし。

 こんなことを考えてしまうのはフェック様を殺すだの捕食するだの理解の範疇を超えた言い回しが聞こえてきたせいではない。決して、頭の中がぐちゃぐちゃになって使い物にならなくなったりはしていない。

 しかしそんな強固な精神に対して舌は軟弱だった。


「うーん全然分かんない!」


 偽らざる私の本音を受けてユンシーの眉がほんの少しだけ動いた。これがユンシー流の怒りの表現だったとしたら私の命もいよいよお終いだなあ。

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